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#17 自分は常に過去にいる


あなたの身のまわりで、
ある日、不意に、いなくなってしまった人は、いませんか?

急にどこかへ旅立ってしまい、どこを探しても見つからず、
もう二度と帰ってこないのではないかという状況の中では、
周囲は、その人の言動を、注意深く思い出すことでしょう。

その人とのつながりを、大切に感じている人であるほどに、
何度も何度も、丁寧に、祈るように、思い出し続けてゆく。

たとえば、行方不明者についてのニュースや、
身元不明の死亡事件がテレビや新聞で出るたびに、
胸がしめつけられるような思いになる、失踪者の家族たち。

家族たちは、行方不明者をくりかえし思い出すことで、
失踪への捉え方や考え方を、相当に苦しみながら形成する。

ところが、失踪している側の方は、身勝手とでも言うのか、
失踪をしているときには、自分がいったい何をしているか、
わかっていずに、目の前の時間を必死にやりすごしている、
という場合が、もしかしたら、考えられるかもしれません。

失踪していることさえも、新しい世界で出会った人たちに
知られないよう、とにかく、日々をやり過ごしているだけ。
失踪中のオーラを出さないことを生活の基本にしていれば、
新しい生活は、日々、変わっていくことがあるでしょうが、
発見されたり、望んだ失踪をやめたりしないままでいると、
失踪者は、失踪者として理解されることなく暮らしてゆく。

明らかな失踪が、本人の中では失踪になっていない場合も、
きっと、世の中に、たくさんあるのだと想像していますが、
それはきっと、本人が本心や自分の身を隠すことに躍起で、
失踪の意味を、捉えきれていないからではないでしょうか。
わからないからもっと自分を隠し、わからないから逃げる。

いずれ失踪が中断されたときになって、
ようやく、自分が何者だったのか、わかる機会がくるのか?

そうかもしれません。
自分の行動が、ちゃんと過去になったときにだけ、人は、
自分がどういう人間なのかを語ることができるのですから。

ハイデガーという哲学者が、かつて直感的に記した、
「人の存在とは、そのつどの、
 『かつて、おまえはいかにあったか』であり、
 『かつて、おまえは何であったのか』である。
 人の存在は、おのれの過去のことなのである」

という言葉を、今の人たちが感じることができるように
説明すると、失踪者の例が、伝わりやすいと思ったのです。

失踪者は、失踪が終わるまで、その行動の意味は知らない。
ところが、周囲には「ある人間の失踪」と捉えられていて、
「ある人間がいる」ということが過去になっているゆえに、
過去を、なるべく納得できるように振り返りはじめる……。

「行動を振りかえれるのは、それが過去になったときだけ。
 自分の存在っていうのは、自分の過去のことなのである」

このような考え方は、あなたには納得のいくものですか?
この言葉を、今、リアルなものとして捉える一助として、
かつて、ぼくが直接に話をうかがった、二人の人の肉声を、
哲学の後ろ側に広がった風景のように、ご紹介しましょう。
写真家の人と、テレビのディレクターの人による談話です。

「世界中をまわって、珍しい写真を撮り続けていたときは、
 見たことのないものを見てみよう、ということでしたね。
 『見たことのないものを見たい』
 『食べたことのないものを食ってみたい』
 行ったことのないところに行ってみたいし、
 会ったことのないヤツに会ってみたいし……。
 そういう時代。ぼくは、それはそれでいいと思っている。
 だって、そういう時代を駆けぬけてきたわけですから。
 今は、それはつまらないとされているかもしれないけど、
 世の中ってもともとそうじゃないですか。
 何でも、おもしろくて、結果的に
 価値として残って行くのは『最初だけ』ですよ。
 『わび』とか『遁世』もそうだけど、
 世俗から逃れるために、山に入りますよね。
 数寄者たちが、かっこよく言うと、
 自己を見つめるために隠遁したわけです。
 鎌倉時代、最初にそれをやった西行とか、鴨長明とか、
 そういう人を、世間の人達は、尊敬したのかもしれない。
 あそこまではできないよ、みたいな。
 だけどそのうち、百人千人と隠遁生活を送る人が出れば、
 『もう、勝手にやってろ』と言うのが、時代ですよね。
 多かれ少なかれ、流行は、それのくりかえしでしょう。
 目の前の『わび』のやりかたとしては流行があるけど、
 ただ、今の時代にも普遍的に続く『わび』もあります。
 わびの世界って、どうひねくれようと、どう転ぼうと、
 誰が何を難しく言おうが、
 一回負けたヤツじゃないかぎり、わからない。
 これが、大きいですよね。
 どんなに立派な人が何を言おうと、
 『あんた、一回負けたことあるの?』
 っていうことが大事な世界なんです。
 負けたことがなければ、わびれないですよ。
 ぼくは病気もそうだし、さまざまな
 『負けた側としての感覚』っていうのがありまして。
 『負けた時の感じ』は強烈に持っています。
 だから、わびにシンパシーを感じる。
 わびの色は、白だと思います。
 負けたヤツが美しくなるためには、白ですよ。
 一回きれいになるっていう……。そこから、現実を見る。

 何でもないものは、ほんとに価値がない? いや、違う。
 たぶん、生まれたものには、ぜんぶ価値がある。
 今って、特にそういうことを感じなきゃいけないと思う。
 ぼくらが美しいと感じてきたことって、
 昔の人がセレクトしたものを、そのまま美しいと
 思い込んでいるものも、ずいぶんあります。
 だから、本当は、捨てられたものの中にだって、
 大事なものがいっぱいあるかもしれないと思っています。
 だから、今回のこの写真集を作るときには、
 『本当に素人が撮るようなやりかた』から、
 『本当に写真をわかってる見るやつが見たら、
  どう撮るか、わからないだろうなぁ』
 『そう簡単には見破られねえぞ』と、技術を駆使した
 ところまで、ぜんぶ、入れこむことにしたんです。
 写真の順番も、トランプのようにランダムに混ぜて、
 部屋にまいたものを順番に拾っていったままなんです。
 今、自分で、いちばん大事にしているというか、
 価値があるなぁと思っているのは、『偶然』なんです。
 どんなやつでさえ、『自分で考えたもの』というのには
 やっぱり限界があって、その考えの範囲をわかる瞬間に、
 もう、おもしろくなくなっちゃうんです。
 だけど、偶然っていうのは、そうではない。
 この写真集、俺はいまでも毎日のように開いてみるけど、
 おもしろいの。どうしておもしろいのかっていうと、
 偶然で順番を決めているから。飽きないんです。
 茶の湯の世界で豆まき石っていうのがあるんだけど、
 庭に置いてある石の場所はどう決められたのかというと、
 千宗旦という千利休の孫が、
 豆をまく時の大豆を、石の数だけ握って、
 ぽん、と放ったんですよ。
 『豆の落っこちた場所に、石を埋めろ』と。
 それはもう有名な伝説なんだけど、
 それを聞いた瞬間、俺は真実だと思った。
 宗旦はその庭に何回行ってもおもしろかっただろうなぁ。
 この石の次は、歩きにくいとか、なんで離れてるんだって
 言いながら庭を歩くことが、ゲームじゃない?
 予期せぬものなわけで。日本人って、昔からそういう
 偶然のおもしろさを知っていたんですよ。
 ぼくは、人がやったのも、飽きちゃうんです。
 特に気に入らないものなんかだと、
 もう、一回目から、飽きちゃうじゃない?
 自分の意図を超えてできたものは、自分でさえたのしい」

「ぼくが番組を作る場合、どうしてこうなるんだ、とか、
 嫌だ、腹が立った、とかではじまることが、多いんです。
 何かを取材する時にも、人の弱さやいじましさや事故で、
 最初に希望していた方法を取れなくなることがよくある。
 『こんな状態で、どうやって番組にするんだ?』
 話が違うじゃないかという憤りとか怒りとか反発で、
 じゃあ、もうこれをこうして作ってやろうと感じたり。
 だから、ぼくの作った番組がテレビの賞を取って、
 『この作品はすごい計算で構築されている』
 と表彰式で言われて、心の中では、笑ってしまいました。
 最初の計算どおりでできたものなんて、ぜんぜんなくて、
 その場その場のツギハギだらけのものだったし、そもそも
 ネガティブな動機から発して作っているものも多いから。
 民主主義とかいうシステムだって、歴史的に見れば、
 とてもネガティブなところからできているでしょう?
 ジャン・ジャック・ルソーなんて、とんでもない男で、
 自分では子供を三回くらい捨ててるんです。
 自分は子供を育てられないから、
 通常の親に教育をまかせているわけにはいかない。
 そんなネガティブなところから『エミール』を書いて、
 教育制度を考えたんだから……表現って、きっと、
 ネガティブでマイナーなところからはじまると思います。
 
 ぼくは、ある表現が商品化されたり
 メジャーになったりビジネスになる前提として、まず、
 『マイノリティでいること』
 を確保しなければいけないと考えています。
 今まで表に出ていないでマイノリティでいなければ、
 突然の衝撃が生まれるはずがないと思うのです。
 資本主義のサイクルが速くなっているから、
 最初からマジョリティにいると消費をされるだけですし、
 マイノリティですらも、ものすごい速度で、
 しかも大量に消費をされていくでしょう?
 だからこそ、消費され尽くしてしまわないように、
 いかにマイノリティである状態を確保するか、
 ということが、重要になっていると感じるんです。
 しかし、マイノリティの側は、
 その大切な状況に、往々にして、耐えられないんです。
 『こんなことをしていて、どうなるんだろう?』
 簡単に逃げてしまおうとするし、
 周りも、マイノリティから離れることを勧めます。
 僕たちのテレビの世界でも、そうです。

 もちろん、マイノリティと自己満足は、違います。
 学生時代に、本気で芝居をやっていましたが、
 あれは、自分でやっていた方が、面白いところがあるし、
 自己満足でやっている人たちがほとんどのような世界で。
 ただ、自己満足で終わっている人たちに特徴的なことが
 一つあって、そういう人は、他の舞台を見ないんですよ。
 自分たちの芝居を一生懸命やっているんだけど、
 『人のものを観たりして自分のものをよくしよう』
 という気持ちが、サラサラない人たちが、
 舞台の上で明かりがあって、自分がいて……
 それだけが楽しいという自己満足に陥っているなら、
 見てる人には恐ろしくつまらないものになっちゃいます」


これらの発言を読み、どんな風景を、思い浮かべましたか?
あなたにとってのどんな過去が、よみがえってきましたか?

長くなりましたが、最初の写真家の人の言葉には、いつも、
「過去だからこそ、しっかりふりかえることができる」
「自我でさえも、どうでもいいし愛おしいものになる」
という態度がにじみでていて、大好きなので紹介しました。

ディレクターの人の話は、
「自分にだけスポットが当たっていることで
 何も見えなくなることがある」だとか、
「いいとされる作品も、そもそも、必死に
 ツギハギのようにやっていただけだった」だとか、
そのあたりに、ハイデガーの過去についての話を読み解く
ヒントがあるかもしれませんので、おとどけしてみました。

「行動を振りかえれるのは、それが過去になったときだけ。
 自分の存在っていうのは、自分の過去のことなのである」

この言葉と、似たような仕組みで展開された
ハイデガーの考えには、次のようなものがあります。

「周囲との調和が壊れたときに、世界は、チラッと現れる」

「なんだそりゃ?」と思う言葉かもしれませんので、
ハイデガーが、道具という比喩で世界を語っている様子を、
ここでは、要約した言葉で、お伝えしてみたいと思います。

「ハンマーという道具は、道具の構造を語ることよりも、
 『それを使って打つ』という以上に適切には使えません。
 手足のように使われて、気にされなくなればなるほどに、
 道具は、道具として最も活用されていることになります。
 適切に使えば使うほど、道具の存在感は薄くなりますが、
 この道具が目立つのは、どういうときでしょうか?
 それは『ハンマーが利用できなくなったとき』なのです。
 手もとにハンマーがなく、それを使うことができないと、
 なぜ、どのような理由で、その道具がないと困るのかが、
 突然、はっきりと、わかってきます。
 ハンマーがない事実は、自分のしようとする行動には
 いかにハンマーが必要だったのかを、明らかにします。
 
 ハンマーと自分の行動との関わりが、
 何の問題もなく利用しているときに忘れられるように、
 世界の中で、自分の役割が滞りなく行われているときに、
 世界は、自分自身のことを、何も語ることはありません。
 しかし、自分の役割がなくなってしまったとき、まるで、
 自分という道具が世界で使われなくなったときのように、
 自分と世界との関係が、どうであったかを語りだします」


多くの人が、損失や苦境や病床で何かに気づくように、
世界というものは、調和しているときには、何と何が、
どう調和しているのかを、なかなか知らせないもので……。
ハイデガーには、こう考える癖があるということを、
今日は、まず、お伝えしておきたいと思いました。

ハイデガーが、このような視点でものを見つめたのは、
たぶん、後ろ向きな考えを提示したいためではありません。

「自分自身が失われてはじめて世界が見える」とか
「自分は常に過去にいる」という捉え方をすることで、
現在に自分を投げ出す方法を考えはじめた、と言いますか。

そのあたりの話については、
話を更に進めることで見えてくるので、お待ちくださいね。

一般的にイメージされている、いわゆる「哲学」とは違い、
世界を肯定的に受け取り、自ら関わってゆくという考えが、
彼の著書『存在と時間』からは、はみ出しているので……。

今日の、いくつか紹介した発言について、もしよかったら、
「自分にとっての、失われてはじめて見えた世界は何だ?」
というように、話が更に進む前に、少し立ち止まって、
あなたなりに、考えなおしてみてくださるとうれしいです。

次回に、続きます。

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                  木村俊介

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2003-10-30-THU

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