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#15 不可避の一本道


ハイデガーの本、『存在と時間』を紹介する前に、
かつてぼくが「ほぼ日」で書いた「自分なりの道」の話を、
もう一度、凝縮して、お伝えしてゆきたいと思っています。

以前に書いた話を再構成して、今の考えをつけ加えました。
前に見た話題、と感じた方も、これからのこのコーナーで
ハイデガーが書いた「自分なりの道」を扱ってゆく直前の、
準備運動のように読んでおいてくださると、うれしいです。

「自分の歩みたい道を、本当のことを言うと歩いていない」

そう感じている人は、実はかなりたくさんいると思います。
本当の自分は、どこかしら完璧主義で、
実際の生活のうえでも、そこそこいいことをしているはず。
しかし、特別なある局面になると、まざまざと見えてくる、
自分の卑劣な姿、器の小ささ、情のうすさ……。

とんでもない窮地に立ち、夢中になった時に浮き彫りになる
必死で醜い「自分」の姿を、見なかったふりして、
一日一日、もとの自分のイメージに合うように
一生懸命、生活をしている人も、いるのだろうと思います。
これは、別に誰がどうということではなく、
自分なりに、四年ほど「ほぼ日」全体に届いているメールを
何十万通も読み続けて、実感として、わかっていることです。

ところで、ダメな自分を認めることは、
「それもあり」という、ありがちな価値観なのでしょうか?

いや、そうじゃないかもしれません。
ダメな自分、そしてダメな歴史を見つめることは、
単なる「あきらめ」では、ないのかもしれません。

たとえば、古くから伝えられた考えの中でも、
特に重要ものしか信じたくない、と思いこんでいたり、
「あの人の思想は、この人によって、克服されたのだから、
 最新の思想として残っているものだけ、見ていればいい」
と考えていると、だんだん、苦しくなってしまいませんか?

……なぜかと言うと、
本を書いた人も、周囲の人も、それから、自分自身だって、
理想に沿う考え方をできているときは、ほとんど稀だから。
「自分の尊敬するあの人は、それができているんだ」
たとえば、そういう細い望みを挫けさせる現実は、
世の中には、あまりにも多いわけでして。

そもそも、いくら賢くなったと思いこんでいてさえも、
その自分は、かつて、今の自分が否定したい程度の、
ちっぽけなものだったわけです。
だったら、自分のまちがいのしかたには独創性があって、
いつか消える自分の細い道は、
かけがえのない美しさでいろどられてゆく。
まちがいなら、どこにだって生き生きと転がっている。
それを見つめることは、ムダじゃないし、
もしかしたら、おもしろいと言い直せるのかもしれません。

「世界を受けいれないことにして、
 世界の外に架空の自分を立たせて、そこから
 今の世界を批判し続ける方法」に飽き飽きして、
自分なりの道を、一歩ずつ、進んでゆこうとするならば、
そこには、どのような風景が広がってゆくのでしょうか?

「自分は、正しいことをしてるのに、報われないんです」
「いいことをしようとしているのに、実行できていない」
そうやって悶々としている人は、多いと想像するのですが、
もしかしたら、自分で選ぶことのできる道よりも、
自分で選べない道のほうが多いという前提に立ってみると、
自分に与えられた不可避の一本道からは、何が見えますか?

かつて残された言葉の中でも、実感している感情しか、
生きている言葉としては、伝わってこなかったりしますが、
人は、絶えずあやまちを繰りかえすものですから、当然、
生き生きした言葉には、避けられなかった経験についてや、
なぜかそうなってしまったことに関する話が多くなります。

つまり、強い実感を共有できる言葉というのは、
正しいものだとは限らないし、むしろ、まちがいから
生ずるものかもしれない、とさえ、考えられるものでして。

ただ、
「自分の意志で選択できることは大したことがない」
「人の前には、避けられない運命しか、存在しない」
「選べないものこそ大事なのだから、
 小さな善をやることに囚われていても仕方がない」
そういうような言葉ばかりを紹介してしまうと、
「がんばったり一生懸命になることを否定しているの?」
と感じる方が、いらっしゃるのかもしれません。

そうではありません。
がんばっているときの充実感を、知っている人にとっても、
もう、がんばるということができなくなった人にとっても、
いつかやってくる、不可避の瞬間を考えることならば、
共通している、ということを、ここでは、伝えたいのです。

言葉が人を勇気づけるときがあるならば、
もっともたくさんの人に届く言葉とは、何でしょうか。
ある人が、誰にも発見できないほどの頂点を極めたとき、
頂点で感じた考えを「教える」ことがいいのでしょうか。
しかし、教えるということを通しては、弟子になりたがる
啓蒙好きな一定の人たちにしか届かないかもしれません。

頂点で感じた考えで「世界を見下ろす」という立場なら、
その人の言葉は、尊大なまま、ふつうの人には響かない。
頂点で感じた思いがあるのなら、その思いがあればこそ、
なおさら、最も広く人に伝える方法が、欲しくなる……。
そういうときにこそ、
「不可避の一本道」という言葉が、効くのかもしれません。

がんばりたくても、がんばれない状況の人だって、います。
がんばったのに、事故に巻き込まれた人もたくさんいます。
もしも、がんばりの多寡で人を評価するならば、
がんばる順位を競うレースにしかならないかもしれないし、
がんばる方法には派閥がいくつもあって、競争相手も多い。
そんなレースを、死ぬ瞬間までやりつづけるのか……。
一般的に言われる「がんばるレース」を降りたとしても
自分がやり続けてゆきたいことに向けて話を開く出発点が、
「自分なりの不可避の一本道」なのだと、ぼくは思います。

避けられない運命にこそ、実は、
その人にしかふりかからなかった独創性があるかもしれず、
自分が、幸か不幸か、なぜか抱えてしまったものごとを
逃げずにちゃんと見つめることなら、今日からでもできて、
誰にとっても、とても大事なことなのかもしれませんから。

たとえば、画家の考え方を理解するためには、
その絵のよしあしや構図やテーマを語るよりも、第一に、
「白いキャンバスを前にした、作者の孤独を生きなおす」
ということが大切だと、よく語られています。

「絵を横から批判するだけの人に、その孤独は伝わらない。
 すでにある絵を、あるという前提で品評している限りは、
 消えていたものを浮き上がらせた気持ちを理解できない」
というような考え方から、そう言われているんです。

「自分なりの不可避の一本道」を見つめることには、
きっと、それに似た尊さが、あるのではないでしょうか。

一つの切り口だけを、同じように
何度も伝えるメディアのあり方に飽きた人には、
「自分の不可避の一本道を、見つめて書いてみたら?」
とさえ、感じるほどなのですから。

メディアで語られる論調には、
視聴者の先まわりをする意図がありありと見えて、
相手を説得させたいだけの主張もよくあるし、
時間の間をすべて埋めようと必死になっているから、
豊かに捉えることができない主張もある──
これは、何度も語りつくされてきたことでしょう。

それに、様々な座談会やインタビューを読んでいるとき、
またこの顔ぶれか、またこの内容の話か、と思いませんか?
同時代で説得力のある人が少ないとされて、特定の人たちに
取材が集中して、その人はアウトプットのみの生活に入り、
アイデアが消耗されてゆく、という悪循環を感じませんか?

ドキュメンタリーがあるなら、その細部こそ見たい、とか、
血肉になるほど本を読みこんでみたいとは、考えませんか?

忙しさで酸欠になりそうなシステムの中で暮らしていても、
せめて自分なりに、深く、何かをおもしろがりたい……。
そう思っている人がいるなら、
「自分の不可避の道を見ること」を推薦したいと思います。

子どもの頃からの、断片的な記憶を少しずつ記すことは、
どんな発見を導きだすかについても、触れてゆきますが、
少なくとも、ふだんメディアで語られている内容よりは、
相当な奥行きのあるものになる可能性が、高いと思います。

この連載では、ハイデガーやニーチェや哲学者に関わる
正確で厳密な理解については、あまり、重視していません。
結局、それらの刺激から、「あなたなりの不可避な道」に、
最終的には入りこんでいってほしいと考えているからです。

ぼくが触れている哲学者の言葉にしても、自分なりに
ハイデガー全集やニーチェ全集などを読みこんだ上で、
感じたことを乗せてお届けしているわけですから、
「ぼくなりの感じ方の、ハイデガーの言葉」に過ぎません。

一般に働いている人たちが飢えている内容について紹介し、
それぞれの人が、それぞれの問題意識に勝手に組みこんで、
好きなように、ヒントを汲みとってほしいと思っています。

「ニーチェは『神が死んだ』と言った人」といったような、
蘊蓄のための知識や、結論のための駒のような言葉でなく、
好きな細部に入りこむための言葉を、探してみてください。

「自分の言ったこと、誰かが踏みつけにしたときこそ、
 はじめて、本当の意味で、読まれたことになるのです」

「私の考えたことは、
 誰かに勝手に使用されたりマネをされていいんです。
 そのうちの誰かが私の考えを超えるといいと思うので、
 私の本には、どこから何を引用したかを記さないのです。
 何をどこから引用したかを知る必要があるのは、
 自分で考えたがらない学者たちだけですから」


こんな、乱暴とも呼べる言葉を吐いた哲学者たちの、
その人なりの誠実さを信頼しつつ、話を進めていきますね。

今日の最後は、前回の "#14" で出た問いに対する、
それぞれの人なりの考えを、紹介しておきたいと思います。

質問内容は、次のようなものでした。

冷えた目で人の欠点を数えてゆくこの思考法は、
どういうところに人を導くか、あなたには、わかりますか?
この考え方が、もしも、どこかでまちがっているとしたら、
あなたは、その「まちがい」はどこにあると思いますか?
(まちがっていないと考える場合、どこが正しいですか?)

いただいたおたよりの中から、六通をおとどけしましょう。

「私の場合は、人の欠点が目につくときは、
 今の自分に満足していず、自分のやるべきこと、
 あるべき姿に、正面から向き合わないでいるときだから」

「この話題に似たことを、思ったときがありました。
 学生のとき、クラスの人の大半の人が、テストや宿題で
 カンニングをして、ほとんど満点を取っていました。
 グループになって、みんなで写しあいしていたのですが、
 私はグループに属していなかったので、土日も休まずに、
 朝から晩までずーっとラボに籠っては、
 『どうして人と比べて私はこんなに馬鹿なんだろう』と、
 半泣きになりながら勉強していたのです。
 ある日、政府から全額免除の奨学金を貰った人でさえ、
 端の方に固まってみんなでカンニングしているのを
 後ろで一人で座っていた私は、目の当たりにしました。
 クラスのほとんどが紙を回したり、隣の人と話をしたり、
 それは、びっくりするような光景でした。
 私はその時のテストがまったく分からなかったのですが、
 『それで奨学金を貰って、すごいねと言われて嬉しい?』
 という気分になってきました。
 他人からほめられるのは嬉しいことかもしれないけれど、
 自分がその賞賛に値されない行動をしていたのなら、
 やっぱりそれはちっともうれしいことではないと思う。
 『みんながやってるから』と考えるのは言いわけで、
 楽な方に進んで行く自分に勝てないだけだと考えます。
 『まちがってることは、まちがっている』
 と思える自分がいる限り、他人に認められなくても、
 自分は自分を認め続けられるから、よしとしています」

「数日前、ある人と、決定的に仲たがいをしました。
 本当に仲がよかったんですが、突然理不尽な扱いをされ、
 向こうは、私が昔にした失敗や欠点を引っ張り出してきて
 責めてくるばかり。最初は反論したのですが、最後には、
 『どう思われてもいいけど、これ以上、関わりたくない』
 という言葉でしめくくるしかありませんでした。相手は、
 今でもたぶん、全面的に私のせいにしているのでしょう。
 今になって思い返すと、過去にも一度も、
 自分の否を認める言葉のなかった人でした。
 さまざまなことを、自分は全く悪くないということを
 主張するためにしゃべり続けていたんだなぁと思います。
 だから、他人を否定しつづけるような態度は、
 自分で自分の行動を縛っていくだけだし、
 正義感がやたらと大きくなってまわりを圧迫するし、
 堂々めぐりの思考パターンにもなりやすい、
 そして何より、笑いがない……私は、そう思いました」

「私は、特定の人を憎んだり、何かの原因のすべてを
 その人に帰したりしないように意識しています。
 そうすると、自分の失敗にも前より寛容になったし、
 他の人のどんなことにも
 自分と通じるものがある気がするのです。
 人一人の言葉や行動って、
 驚くほど周りの人や出来事に影響されると思えば、
 誰かの何かが私の立場と大きく違って見えても
 それを否定したり嫌ったりする気になれないのです」

「欠点をあげつらう思考法は、人を導びいてはくれず、
 その人が立ってる場所さえも、削りとっていってしまう。
 そのうち、パターン化され堂々めぐりをくりかえす思考に
 からめとられ、宙に放りだされてしまう、と思うのです。
 他者は自分ではなく、変えることも救うこともできない。
 もし、できることがあるとすれば、
 『他者のまちがい』ではなく『私と他者の違い』という
 文脈でとらえて、『他者ができるだろうこと』ではなく
 『私ができること』や『私がやらずにはおれないこと』に
 おきかえることが、道をひらいていくのかもしれません。
 私も、その堂々めぐりの円環から
 自力で抜けだせなくなってしまったことがあり、
 『自分は弱い』『自分には助けが必要』と認めればこそ、
 ようやく、思いこむことではなく、考えることの
 スタート地点に立ったような気もしているのです」

「『冷えた目で人の欠点を数えてゆくこの思考法は、
  どういうところに人を導くか、わかりますか?』
 『この考え方が、どこかでまちがっているとしたら
  そのまちがいは、どこにあると思いますか?』
 という、二つの問いかけに対して、私は、
 『ネガティブな感情(怒りとか悲しみ)で
   頭がいっぱいになり、前向きに考える力を失う』
 『この考え方は,根本的な解決につながらないから
  まちがっている』というふうに思います。
 私が正しいと思うやりかたは、理解できない人がいようと
 前向きな気持ちで、解決に向かって行動することです。
 自分がある人を矯正しようという気持ちがあって、かつ、
 自分がそうできる立場にあれば、素直に相手に伝えます。
 ただ、私がその人にアクセスする気持ちがないとか、
 意見を言える立場にない場合には、
 自分が許容できる行動の範囲を広げようとするか、
 その人の行動に目をとめないようにするのが正しいと、
 私は考えています。誰かへの意見を言いたいときに、
 自分が本当に相手のためを思ってそうするか、
 相手を傷つけることが目的になっていないかを、よく
 考えないと、自分も相手も傷つくことになるだけです。
 冷えた目で人の欠点を数えてゆくことしか
 できないときには、なにも言うべきではないと思う。
 他人とのコミュニケーションの中で恐怖を抑えこんで、
 自分を律することができなくなってしまったから
 人を傷つけてしまう、という弱さは、よくありますので」


どれも、それぞれの方にとっての、
不可避の一本道から出た考えのように感じられますが、
あなたは、これらの意見を読みながら、何を考えましたか?

次回に、続きます。

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                  木村俊介

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2003-10-26-SUN

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