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第19回 みんなのためにって、誰のため?

会社の中でプロジェクトを立ち上げたり、
学校の文化祭で出し物をするときには、
ひとを集めてチームをつくる機会がありますよね。

ひとりでやれること以上のことをしたいから
チームがつくられているのだろうけれども、
でも、そうやってできたチームで
素晴らしいものをつくりあげられるのかと言うと、
それはむつかしいという場合が、かなり多い。
これ、何でなのでしょうか?

ひらめいたときには斬新な切り口なはずだったのに
メンバーの意見をきいているうちに企画の内容が
どんどん無難で飽き飽きしたものになっていったり、
欠点を指摘する人間のせいでどうでもよくなったり、
ただひとを疲れさせるためだけのような
集団内の変な循環システムがはたらいたり・・・
そういうのを経験したひとは、
けっこういるのではないかと思います。

例えば、学校の文化祭で劇をやるとしても、
大道具小道具の下準備の押しつけあいが起きて、
「あいつ今日も早く帰りやがって、
 俺たちはこんなにみんなのためにやっているのに」
「そうだよな、よし、これを当番制にしようぜ。
 みんなのまわり持ちで、裏切りなく平等にしよう」
なんて会話が交わされるときがあったりしますよね。

文化祭に限らず、そうやって、
チームのなかで義務や強制労働が増えていく場面を、
ぼくも今まで、いろいろなところで見てきました。
そして、そうやってものごとはつまらなくなるのかも。

押しつけあいのときによく出てくる
「お前は自己中心的だよ、みんなのためにやろうぜ」
という言葉には、逆らいにくいものがあります。
でも、何かを押しつけあう段階になっちゃっていると、
もうそれは既にどこかで、そのチームのなかでは
歯車が噛みあわなくなってきているのかもしれない。

みんなのためって、結局、誰のためなんだろう?
チームのなかの誰かのご機嫌をうかがって、
仲良しで円満に終わることが「みんなのため」で、
もめごとなく終えることが最終目標なのだろうか。
もめごとなく終わることだけのために、
わざわざいろんなひとが集まってきてるのだろうか?

もちろん円満なほうが気持ちいいんだけれど、
「みんなのために義務の仕事」
「全体のために長い会議を開く」
というのが重なり過ぎて、ひとりの時間がなくなって、
自分の生活が隣のひととほぼおんなじになっちゃって、
メンバー全員の情報が画一化されてしまうんだったら、
チームをつくった意味はどこにあるんだろうか。
チーム内をおんなじようなひとの集まりにしてしまい、
それぞれの限界も可能性も一緒になっちゃったんなら、
果たしてチームとしていいものを生み出せるのかな?

いいものをつくりたいはずで、
楽をしているわけでもなくむしろ苦しんでいて、
最善を尽くしてノートと鉛筆を持って考えているひとが
「座っているだけでいいというのは、楽なもんだよね」
と例えば誰かに言われてしまったとしたら、
早い話が「感じ悪いチーム」になっちゃうじゃない?

・・・でも、とは言っても、
チームを組むとどこかで誰かが義務みたいなことを
ひきうけなければいけない場合が多いわけで。
つまりどうやって集団全体を動かしていくのかは、
だからこそすごくむつかしい問題のように感じます。

そんななかで、
個人と全体のせんびきをどこでするか、
というのが、ぼくとしては今のところ
チームについて考える鍵のように思えているので、
そこで今回は、個人のせんびきに関しての
あるひとりの哲学者の言葉を紹介いたします。

「あらゆるものにじぶんを献身するのは、
 いいことではなくてむしろ怠慢のあらわれだ。
 それは、博愛の仮面をかぶった誘惑なんだ。
 
 客観的な全体のためだけに動くひとには欲望がない。
 そういうひとは、屈従に慣れているだけである。
 外界の鏡に過ぎず、じぶんの目的も持たない。
 ・・・ただ何かが来るのを待っているだけなのだ。
 一般的なことしか考えられなくなっているから、
 じぶんと他人をたやすく取り違えてしまいもする。
 そういうひとは、いかにして立つべきなのかを、
 昨日も知らなかったが、明日も知ることはない。
 そういうひとは、じぶんに対して率直になる時間を、
 もはや失ってしまっているのである。
 
 そういうひとでも常にじぶんを磨き、
 鏡として外のものを映してはいるのだが、
 彼は肯定することも否定することもできない。
 もはや、ひとつの道具にしか過ぎなくなっている。
 外から何らかの内容を与えられて、それに従って
 じぶんをつくらなければならないような、
 やわらかくふくらむ容器に過ぎないんだ。
 
 要するに、大切な問題は、
 じぶんが何者であり、他人が何者であるかだ」

ちょっと行き過ぎかもというくらい強めの言葉ですが、
ひとつの考えとして輪郭をはっきりさせるために
「じぶん」と「全体」に絡めて取りあげました。

全体の流れだけを追っているうちに、
じぶんのいる意味とかやりたいことがぼやけてきて、
じぶん以外の何かを待つだけになってしまう・・・
いつしかひとりでは何も考えなくなるかもしれない。
そんな気持ちが感じられるので、
過激なのですがこのニーチェの言葉を、
チームの話題に引き寄せて紹介したのです。
頑固で自己中心的なことでも有名なこのおっさんは、
他のところでは次のようなことも言っていました。

「心から他人を見上げることのできるひとは、
 じぶんを求めないひとだけである」

これもじぶんと他との関係につながる言葉なので、
最後にそのまんま放り出しておきますね。
賛否両論の言葉だとは思うのですけれど。


[今日の2行]
客観的な全体のためだけに動くひとには欲望がない。
・・・ただ何かが来るのを待っているだけなのだ。
                  (ニーチェ)

[今日のぼくの質問]
ひとり以上の力を必要とするプロジェクトになると、
どうやってチーム全体を創造的に動かせるかという、
とてもむつかしい問題が出てきますよね。
今それで悩んでいるというかたも多いのでしょう。

チームでやる企画って、
どうやるとうまくいくのかなあ?
・・・みなさんが今ふと思っていることなど、
考え途中のメールをいただけるとうれしく思います。

(もちろん、ニーチェの
 「全体のためだけに動くひとには欲望がない。
  ただ何かが来るのを待っているだけなのだ」
 「心から他人を見上げることのできるひとは、
  じぶんを求めないひとだけである」
 例えばこんなあたりへの感想もうれしいです)

mail→ postman@1101.com

2000-04-18-TUE

 
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