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第17回 日記をきざむように

このコーナー第11回の
「絶望」について、様々なメールをいただきました。
恐ろしさや危険さにおちこまぬよう注意をしながら、
この領域の重さや深さのなかに潜りつづけています。

ここ数回で割と重い内容をあつかうにあたって
じぶんなりにいろいろ考えていました。
「せっかく見てくれているのに
 重くて息苦しい内容なのは、どうか」
とも思いました。ただやはり
ぼくにとってはやってみたいものなのです。
暗さのなかで狂気すれすれでやる以外の
アプローチもあるのではないかなと思います。

「ぼくは、ぼくをかんだり刺したりするような
 本だけを読むべきではないかと思っている。
 読む本が頭蓋に一撃を与えて
 ぼくたちを目覚めさせないとしたら、
 ぼくたちは何のために本を読むのか。 
 ぼくたちを幸福にするためか。本がなかったら
 ぼくたちはかえって幸福になれるのではないか。
 ぼくたちを幸福にするような本は、いざとなれば
 じぶんで書くことができるのではないか。
 必要としているのは、
 ひどく痛めつける不幸のように、
 じぶんより愛していたひとの死のように、
 ひとから話されて森に追放されたときのように、
 自殺のようにぼくたちに作用する本なのである。
 本はぼくたちの内部の凍った海をうちくだく
 斧でなければならないんだ」

これはプラハの作家・カフカの言葉です。
ぼくはここまで不幸に傾く必要はないと思うけど、
ただこの言葉にはなるほどと感じる面もあります。
おちこむために深みを見るというのではなく、
不健康さや不安ややばさを競うものでもないかたちで
凍りついた重いところに入りこんで考えてみるのには
何かありそうで、ぼくはそれでやろうと思ってるの。

カフカというひとは
つらいときにも日記をつけていたみたいです。
日記のなかで彼は、なぜそうするかを書いてるよ。

「今日という日から見れば耐えがたいような
 状況のなかにおいてでさえ、生きていて
 あたりを見まわしてそれを書きとめていた。
 つまりこの右手が今日とおんなじように
 動いていたという証拠を、日記のなかに見いだせる。
 今日ぼくたちは当時に関しての概観をできるので
 利口になっているのだが、そのぶんだけ、
 まったく無知だったころにも保たれていた
 ぼくたちの努力や不屈さを認めることになるんだ」

あとから見ればわかるかもしれないけれど、
ばたついている考えをぼくが今そのまま出したいのは
このカフカが日記を書く理由みたいなのに似てるかな。

どうしても紹介したい2通のメールを、どうぞ。

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初めてまして。
コンビニ哲学の読者です。
第11回を読んで、メールしたくなりました。

木村さんのお友達の
置かれている状況は分かりませんから、
自分の過去からしかものを言えません。
本当に戻れないのかとか、何か手だてはないのか、
そういう人に対して自分は何が言えるのか.....
一晩考えました。

木村さんがそんなにその方を心配されているなら、
やはり、今あなたが思うことを
話された方が良いと思うのです。
お友達に何を言ったらいいのか迷うのは、
「自分は本当にこの人の苦しみを理解出来ているか」
「ヘタな言葉はかえって相手を追いつめないだろうか」
とか、いろいろな気持ちが
複雑に混じりあっているせいでしょう。
だだ、木村さんが真剣に相手のことを考えたうえで
それでも「これだけは分かって欲しい」という
思いがあるのなら、それは伝えたほうがいい。
例えその言葉をお友達が受け止められなかったとしても
少なくとも、木村さんの本気の心配は、
相手の方を温めると思うのです。

数年前、ただ死を願った日々がありました。
そのとき、1人の男の人と知り合いました。
相手には私の状況を全く話さなかったし、
だから慰めの言葉をかけられたわけでもありません。
恋愛をしたのでもありません。
ときどきお昼を一緒に食べて、
そのときの会話は本とか映画とか、
一般的な知識に関することがほとんどで、
あまり互いの内側に関することは話しませんでした。
ですが、たまに「どきっ」とするような
言葉を投げかけられたのです。
それは私に対してのものではありませんでした。なのに
「どうしてこの人は今日ここでこんなことを言うのか?」
と、驚いたものです。
何気ない言葉の中に、私の視点を
ちょっとずらしてくれる、というか、
「ああ、そんな考え方もあるのか」と、
ヒントを与えられたような気がしました。
不思議と気持ちが安まり、希望がもてました。

「じっくり話をきく以上のことって、できるのかなー?」
とおっしゃいますが、
「じっくり話をきくこと」こそとても大事なことです。
よく、悩みごと解決の本に
「ぐちでも何でも話せる相手を持て」
とありますよね。実はその相手を得ること、
これが一番難しいと思うのです。
弱っているときに、ごく一般的な正しさや
見当違いの批判を浴びせられたのではたまりません。
「この人ならちゃんと自分の話を聞いてくれる」
という安心感、それを与えられるだけでも
木村さんはお友達のためになっていると思います。

ずっと昔に、精神を病んだ人に
苦しめられた時期があったのですが、そんなときに
「君には何一つ悪いところなんてないよ」
と言ってくれた人がいて、
この「自分をまるごと肯定された」という
安堵感は本当に有り難いものでした。

まとまりのない文章ですみません。
読んでいただいてありがとうございました。
お友達にも希望が見つかるといいですね。

M.H.
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今回の哲学は、かなり衝撃的ですね。
でも、真剣にお返事したいなと、メールをしました。

私は大学時代に一時期、
2ヶ月ほど部屋から出ないことが有りました。
正確に言えば、出たくない、出れない。
今思えばそれも後に経験するのと同じ、
「軽い鬱病」にかかっていたようで、
大学を辞めたいとまで言いだしてました。
そんな状態の私に対して、
周りの友達のしてくれたことは、
「すごく有難い、なんて凄いやつらなんだ」
と今思えば結構深い意味のある驚きの行動で、
そしてその人達の行為に、私はとても感謝しています。

当時は親元を離れ、他県で一人
アパート住まいをしていまして、
それまでは、ちょくちょくみんなと、
私のアパートで集まったりもしていました。
その時期の、数人の友達が
「ある意味精神的に戻れなくなっている状態」
の私に対して取った行動とは、
「私の様子を見にきながら、部屋で
 数人単位で替るがわるファミコンをしていく」
ことでした。

原因を私に聞いたり
私の様子に触れる話をしたりするのではなく、
「ベットに突っ伏して泣いたりうずくまっている私」
の傍で、それほど過敏に私に注意を向けている
訳でもなく、みんなテレビに向かってそれなりに
ワーワー言いながら、ファミコンしていたんです。

夜中までやり続ける人もあれば、
疲れてごろ寝している人もあったりと、
それを普通に遊びに来ている感覚と同じように、
自分の部屋に戻ったりもしながら、
また家に来てファミコンし続ける、
それを交代交代で、
「誰かがいつも私の部屋でファミコンしていること」
を何日も繰り返していくのです。

冷静に振り返ると自分のことながら
何とも不思議な光景です。
何故そんな行動を取ったのか、
理由は定かではないのですが、もしかしたら、
どう手をつけていいのか分からないから、
その時やれる「傍にいること」を見守ることと
同時にしていてくれていたのかもしれません。

確かに、単純に何かに落ち込んで泣いているのとは
違う、ちょっと普通じゃない様子ではありました。
誰も「こいつはどうしてしまったんだ」とか
こそこそみんなで話したりもしてなかったし、
「どうしたんだ、話してみろ」
と私を無理矢理起こそうともしませんでした。
「話し出すのを待っている」
様子でもありませんでした。ただ、
普通に私が起き上がるのを、傍らで見続けながら、
待っていてくれただけのようでした。

こんな時の相手に対しての親身な語りかけや、
頑張れ、などの言葉は、むしろ空回りすることを
感じ取っていたのかもしれません。
逆に、どうしていいのか分からないから、
成り行きで結果的にそんな風に
自然となっていったのかもしれません。

予想ばかりで申し訳ないのですが、
でも一つだけはっきり言えるのは、
「とにかくみんな、傍にいてくれた」
ということでした。腫れ物に触るのでもなく、
やばそうだ、と手を挙げてしまうのでもなく、
みんなそのままで、そこにいてくれました。

周りが見放さない形で普通にするのは、とても微妙
で、具体的に行動にするのも難しいものでしょう。
この場合は「みんなが私の傍でファミコンをしている」
ことがそれでした。それが一番有難かった。

もしかしたら、
「こいつにやってやれることは、今はこれしかない」
と分かっていたからかもしれません。そんな形で、
傍にいてくれました。傍にいつづけることは、
些細な事のようで、その人に向けて
具体的なアクションをしてあげることよりも、
凄いことのような気がします。

敢えて他に例えるなら、
「ちょっと外でも行こうか」と誘って、
車で人の少ないようなボーっと出来る場所に行き、
何するでもなく座り続けて、
「帰るか。」とぼそっと言って帰る、とか。
そんな類のことかな。

ケース・バイ・ケースなので、
「これ」と強くお勧めは出来ないのですか、
「なぐさめの言葉を掛ける、同情する」とか
「保護する」「具体的な提案を並べる」ような形の
接触は、むしろされたくないだろうし、
力にはなりそうにないな、というのが、
実感として言えるような気がします。

「その人の『精神的に戻れなくなっている状態、理由』
 を知りながらも、普通の接触をしつづける」
これが、私の経験から言える、多くの感謝する、
信用できる人達に共通してあてはまる、
誠実な行動だった気がします。

(中略)

「精神的に戻れなくなってしまったひと」
が、その辛さの訳を話すことで、
今まで普通に接することの出来た友達が、
そうでなくなり、離れてしまって、
「自分が駄目なんだ」ということを
現実に更にみせつけられる恐れがあり、
話さないことで、どんどん自分を失って、
話しても離れていかないかもしれない、
大事な人達まで遠ざけてしまって、
孤独になってしまうかもしれないから。

自分の、滅多に口に出来ない、
苦しんでいることを人に話すことは、
当人にとっても触れる側にとっても正に「冒険」です。
ある程度苦しんでいる人の中に準備ができてから、
やっと本題に触れる「冒険」は
実行に移せるものでしょう。

ある男の人からもらった言葉にこんな文がありました。
『助けてくれる人を持つこと、そして
 その人を信用することが、その人の強さと考えます』
彼も、人には滅多に話せないようなことを
持っている人でした。この境地に至れるまで、
彼の中でもさまざまな出来事があったことでしょう。
これが私への助言と共に、
彼の体験から得られた「哲学」でもあるようでした。

>精神的に戻れなくなってしまったひとに、
>言葉をかけられるときはあるのでしょうか。
>冒険してしゃべってみるのがいいのかなあ?
>体験談でもその他のものでもかまいませんので、
>そのへんでメールをくださるとうれしく思います。

難しい課題ですね。そうですね、言えるとしたら、
この人は、ホントに何時でも私のどんな事を知っても、
そのまんまでいてくれるなあ、力になってくれるなあ、
と感じさせてあげられることかな。言葉じゃなくて。
「自分なりの方法でその友達にとって、
 信用できる相手になってあげること」
じっくり本題の話を聞く以前に出来るのは、
これのような気がします。

ちぃ

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M.H.さん、ちぃさん、おふたかたの言葉は
ぼくにとってものすごく助けになっています。
真剣にいろいろと考えてくださったことそのものに
ものすごく打たれました。ほんとにありがと。
カフカが日記をきざむように、
そしてそれをあとかた何度も見るように、
みなさんのメールをぼくはくりかえし読んでみますね。


[今日の2行]
今日から見て耐えがたい状況でさえ、無知ながらも
不屈に生きて見て書いた証拠が日記のなかにあるんだ。
(カフカ)

mail→ postman@1101.com

2000-02-26-SAT

 
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