コンビニ哲学発売中。

第14回 折りあえるかどうか


今回は以前にぼくがきいてみた
「専門的な内容を一般にどこまで伝えられるか?」
に対してみなさんがこたえてくださったなかの
1通のメールから考えてみたいと思います。
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>私は普通のサラリーマンで、いわゆる
>「専門的」な仕事ではありませんが、
>中国という国に通算13年も住んでいます。
>大陸、香港、そして台湾も含め、
>花も恥らう18歳からの付き合いです。
>付き合いが長ければ、情も移ろうと言うもの。
>中国で体験することは楽しい出来事ばかりとは
>とても言えません。それでも
>「中国のこと、ちょっと誤解しているんじゃないかな」
>という人に会うと、
>ついつい一生懸命説明してしまいます。
>日本人には不可解な中国人の言動には、
>歴史的背景、文化的背景が深く関わっているからです。
>これは、どの国でも同じですよね?
>だから、逆もまた然り。
>日本人に対する偏見に凝り固まった中国人
>(これが多いのなんのって)に会った時も、
>「違うんだよ〜、それはね・・・・」
>ということになるわけです。
>いや、結構はた迷惑なのかもしれません。
>
>なぜ、一銭の得にもならないことに、
>情熱を燃やしてしまうのでしょうか?
>多分それは「愛」なんだと思います。
>祖国を離れると人は自分が
>「何人」なのかを意識すると言います。
>クサイ言い方ですが、祖国への愛と申しましょうか。
>また、異郷の地への愛着と言いましょうか。
>
>「問いを問う」で木村さんの
>おっしゃっている研究者の書かれた本には、
>多分余分なところに飛び散ってしまうほどの
>「愛」はなかったのではないでしょうか。
>もちろん研究対象へは充分注がれているのでしょうが。
>知らない人にも教えたい気持ちを
>押さえることの出来ない、お節介さ。
>多分それが私を動かしているように思えます。
>
>「専門分野」という切り口とはちょっと
>違ってしまいましたが、つらつら書いてみました。
>最近は御多分にもれずきびし〜い状況下で
>仕事をしているので「祖国とは!」なんて話は
>とんとしなくなりましたが、「コンビニ哲学」を読んで
>久々に「愛だよ、愛」という気持ちになりました。
>
>M
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Mさんの今いる位置をきちんと想像しながら
かみしめて読んでみたら、すごくひらめきました。
ずいぶん元気をもらったよ。ありがとうございます。
Mさんの「1銭の得にもならない」ところが、
そもそもなぜ専門分野をやるのかということに
けっこう関係ありそうだなあとぼくは思いました。
むつかしい言葉をつかって知識をひけらかすために
何かをやってるとすると、あまりにも閉じてるよね。
それにそれじゃあたぶんつまらなくなっちゃいそう。
つまらなければ、いったい何のためにやるんだろう?

「じぶんの一番好きなことを伝えたいっ」
と思ってしまうお節介さや傍迷惑さみたいなのが
専門的な壁をひょいとのりこえちゃうといいですよね。
もちろんどこまで伝えられるのかはむつかしいし、
誤解を生んだり迷惑かけたりしちゃうときもあるかも。
食い違いのありそうなそこで、どうするのか?
ある興奮気味な哲学者の言葉をどうぞ。

「誤解の予測なんてできっこない。
 誤解とたたかう必要はない。
 もっと別なことに手をのばすほうが、いい。
 責任を持つとか無責任であるとかいうのは
 警察や法律に特有のもので、俺には関係ない。
 
 ひそかに何かをしているひとがいるのか、
 そして俺もひそかにじぶんの仕事をしているか、
 そこに出会いがありうるか、偶然がありうるか、
 それを知ることが俺にとってはおもしろいんだ。
 お互いがお互いの良心の呵責になって
 いちいち他人の矯正をする状況なんてどうでもいい。
 いまだに分析的な考えを捨てられないやつがいるが、
 俺は、不可能でじぶんがわからないとこからの試みを
 できるだけたくさんやりたいんだ。
 
 過激な肉体の運動には危険がつきものだが、
 考えることもそうなんだ。考えはじめると生と死や
 理性と狂気がせめぎあう線で対決せざるをえなくなる。
 考えるためにはそのあやうい線に立つしかないけれど、
 考えるひとは必ずしも敗北するわけではないし、
 必ずしも狂気や死を運命づけられてるわけでもない」

ありゃ、誤解をおそれずに進むっていうあたりから
なぜか死とか狂気とかやばい方向に行っちゃった。
この哲学者はフランス人のドゥルーズです。
つきつめがちな、暴走しがちなひとなのですけどね。

狂気と理性と言うとおおげさみたいですけど、
ただ、専門の海みたいなのをつきつめるときに
ひとがどこまでの深みに潜って何を探すのか、
というあたりに関しては参考になるような気がします。
例えば絵とかお笑いとかでも、行きつく先が
一見わけのわからない境地だったりするよね?
それって何だろう?とぼくは思うのです。

深く行きすぎて一般と折りあえないところに着くのか、
それともどんなに深く行ってもそれを伝えて
みんなで楽しむすべというのも実はあるのか、
って言うか、そもそも専門みたいなものとは
つきつめざるをえないものなのかどうかとか、
そのへんいろいろ疑問あるけど、どうなんだろ?



[今日の2行]
ひそかに何かをしているひとがいるのか、そこに
出会いがありうるのかがおもしろいんだ(ドゥルーズ)。

[今日の質問]
「愛だろ、愛」というMさんの姿勢は素敵ですね。
その「好きなことをつきつめる」ってあたりから
今回は脱線して変なとこに行っちゃったけども、
例えば専門でも何かひとつのことをつきつめると
どうしてもあやういところに行かざるを得ないのかな?
このあたりヒントみたいなのをくれると嬉しいっす。
専門とかそれを伝えるとかってそもそも何なんだろ?

(あ、それは別として、
 ドゥルーズが言うみたいに
 ひそかに何かをしているひとと
 ひそかに何かをしているじぶんとが出会えるのって、
 これ、あるとうれしいですよねー。そのへんについて
 メールをくださると、これまたうれしく思います)

mail→ postman@1101.com

2000-02-15-TUE

 
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