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第11回 何かにすがれるか

好きなことをしていると楽しい。
好きな音楽をきいてるとうれしいよね。
好きなひととしゃべっててもすごくうれしいです。
いやー幸せだなあーっていうときがありますよね。
うまくいってるときにはへへへっと言いたくなるし、
笑みは自然にこぼれて、まわりもきらきら見えてくる。

だけど、そうじゃないときもある。
笑いなんてものがぜんぶ飛んでしまって、
もうまともにはもどれなくなる地点もある。
たとえば求められずに生まれてしまったと知ったひと。
たとえば精神と肉体に回復不可能な暴力を受けたひと。
ぼくはそういうひとたちに、想像力でしか近づけない。
「つらいだろうなあ、わかるよ」
と言っていいのかどうかもわからない。
現実に辱められた女友達に対して、
ぼくはいったい何を言えるのだろう?

「死が最大の危険であるときに、
 ひとは生きることをこいねがう。
 しかしもっと強い危険を知るときには、
 ひとは死をこいねがうようになるのだ。
 死が希望となるほどの希望のなさ、これが絶望だ」

デンマーク人のキルケゴール(1813〜55)の残した
この言葉を、現在リアルに感じているひとがいるんだ。
現状から逃げられないみたい。友達のぼくも救えない。
「救いなんてないよね?」
ときかれたぼくに、言えることはあるのだろうか。
すでに決定的に何かが終わってしまっているのかな?
わからないので、キルケゴールの言葉を継ぎます。

「じぶんのすべてを
 他人にゆだねてしまうという絶望がある。
 周囲の群れを見ているうちに、
 世間的なものごとに忙しく関わるうちに、
 じぶんを見失い忘れてしまい、
 じぶんを信じようとしなくなる。
 じぶんそのものであろうとするのは大それたことで、
 他人のまねをしておおぜいのなかに紛れこむほうが
 はるかに気楽で安全なように思えるときもある。
 じぶんを失うからこそ取引がうまくいくときもある。
 世間的な通念『沈黙は金』などはそういうもので、
 何かしゃべってしまえば不愉快なことが起こりうる。
 しかし、黙っているのは最も危険なことなのだ。
 黙っていることによって、そのひとは
 ただじぶんひとりぼっちになってしまうのだから。

 しゃべらないのは冒険をしないのとおんなじなんだ。
 冒険をおかすのは危険にみえるが、
 冒険をしないときには、冒険をしたときに
 どれだけ多くを失おうとも失わないはずのものを
 おそろしいほどにたやすく失いかねないのである。
 冒険をしないと、じぶんそのものを、まるで
 無であるかのように失ってしまいかねないんだ」

ちょっと関係しているところをひいてみました。
だけど、今ほんとに絶望しているひとに、
ぼくは何かをしゃべることができるのかな。
今ひいたキルケゴールのなかの言葉でいえば
冒険してしゃべったりしたほうがいいのだろうか。
このあたりを選択することもきちんと考えることも
今のぼくにはむつかしいのでした。お手上げです。
じっくり話をきく以上のことって、できるのかなー?



[今日の2行]
冒険をしないと、じぶんそのものを、まるで
無であるかのように失ってしまいかねないんだ。
              (キルケゴール)

[今日の質問]
精神的に戻れなくなってしまったひとに、
言葉をかけられるときはあるのでしょうか。
冒険してしゃべってみるのがいいのかなあ?
体験談でも抽象的なものでもかまいませんので、
そのへんをおしえてくださるとうれしく思います。

mail→ postman@1101.com

2000-02-09-WED

 
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