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第7回 どこまでひらけるか

何らかの考えをすすめていくときの
やりかたとしては、大きく分けて
「じぶんひとりで」
「他人といっしょに」
というようなのがありますよね。

1)俺は本題にすすまなければいけない。
  俺の生きているうえでの緊張状態や
  課題と情熱のプレッシャーが
  強すぎるので、今さら新しい人たちが
  俺に近づくのは、よくない。

2)俗世間に関して考えるのは
  つまらないときが多い。
  だけど、そのつまらないときこそが、
  実はいちばん大切なことを
  考えているときなのだ。
  まじめな問題を話すことを
  避けないほうがいいと思う。
  あたりさわりのない薄っぺらな話を
  するくらいなら、衝突したほうがましだ。
  深入りすることを敬遠しないようにしたい。
  じぶんを傷つけることを嫌がれば、
  まともに考えることはできなくなるから。

例えばこのようなふたつの考えがあるとき、
あなたならどっちを選びますか?
それとも、どっちでもない?
こんな問いからはじめてみたいと思います。
このとき(1)のように「ひとりでやる」ほうを選んで

「討論は哲学にとって、耐えがたいものだ。
 一般論を語る以上にやることがあるだろう?
 哲学には確信がないのだから、
 もっと孤独な他の道を進まざるをえないんだ」

というひとがいたよ、というのが前回ですが、
もちろん、これに反対のひともいっぱいいるよね。
じゃあひとりでやっているだけでいいのか、
いつ他人に向けてひらくのか、
というか、何のためにひとりだけでやってるのか、
他人とつきあうっていうは、もう要らないのか・・・
「討論は意味ない」という発言からは、
そんな疑問のようなものがいろいろ出てくる。
つまり、じぶんひとりでやるというのが大切なのは
わかるんだけれど、結局のところ、孤独になるのは
それがいいことなのかどうなのか?というあたりで
まだかなりよくわからないところがあるのです。

そのあたりで今回は「討論が意味ない」というひととは
正反対の立場になるだろうという視点を紹介します。
リトアニア生まれのレヴィナス(1905〜95)は、
「じぶん」と「他人」がどう関わるのか、
というあたりをずーっと考えながら
生涯を過ごしていたようです。

「みずからのなかだけで展開する
 『中立ではない立場』というのは、
 ほんとの人間的な意味を持つことはできない。
 じぶんだけで考えていると
 じぶんのなかへ向けての
 考えというのは洗練されてゆく。
 だけども、結局そういう考えかたは、
 他人への無関心しか生まないのではないか?」

彼はそんなようなことを言ってます。
それが何でそうなのかというのを
これから追っていきますね。

このひとにとっては
ひとりだけで考えるっていうのは、
「どこかに求められはするるのだけれど、
 他人たちをかえりみないエゴイズムによる救済」
を求めるようなものになっちゃいそうなんだ、
と思えているみたいなのです。

じぶんのなかで考えていることと
他人のなかにあるようなものごとを
「違い」として遠ざけてしまうと、
つまり、他人に対しては無関心になってくる。
で、じぶんで考えたことがすべてになっちゃう。
この「他人に無関心」「じぶんがすべて」が重なると、
「じぶんのなかで考えたことを推し進めるためには
 戦争をして他人を滅ぼしちゃっても構わないんだ」
という考えかたに傾きがちなのではないだろうか、
と彼は思っているんですね。

彼はそもそも、他人というのはじぶんってやつと
もはやかっちりと区別をつけられるものではないんだ、
というところから考えをスタートさせているのです。
例えばふつうに地面に立っていても、
ひとはじぶんの重みを感じていますよね。
それに、じぶんのまわりにある
窒素や酸素とかいう意味での空気ってやつは、
勝手にじぶんのなかに入りこんでくるでしょ。
そうやって思ってみると、例えば重みも空気も、
じぶんのなかにもうすでにあるものになってくる。

まあそんな例って屁理屈かもしれないのですが、
「じぶんというのはそういうなかで
 じぶん以外のものに対しては
 受け身としてしかいられないものなんだ」
というのが彼の考えなの。そのうえで
「単にじぶんとは『違う』ものとして
 他人をとらえるっていうのはよくないんだ。
 他人とは、もっとじぶんに食いこんでくるものだ」
とこのひとは思っているので、そうなると、
「じぶん」からではなくて「他人」というあたりから
考えを進めたほうがいいよ、ということになってくる。

……ただ、そうしたところでどうなるの?
他人と共有できる中立さから何かを生めるのか。
そのあたりがまたもや問題になってくるのかなー。
レヴィナスもこのあたり、実は途方にくれています。

「哲学の問いかけは『じぶん』というものの
 異様さを引き受けるものなのだ。
 だからこの問いには昔から答えが存在しない。
 この問いへの答え以上のものを見つけることで、
 この問いを克服することが哲学の行うことだ。
 『じぶんがここにいるっていうのは何だ?』
 それをずーっと考えていくと、要するに、
 ひとの運命を考えなければいけなくなる。
 『ひとはどんな歴史をつくっていくのか』
 『現実のなかでひとはどういう位置を占めるか』
 こういうような昔からの問いかたをするのでは、
 はっきりいって何にもわからない。
 わたしの求めているのは、
 『じぶんがここにいる』
 という事実そのものの意味に関係しているんだ」

この問いには答えが存在しないって言っちゃってるよ。
ここで彼としてはじぶんがここにいる意味を思うことが
「じぶん」と「他人」を考えるヒントになるのでは、と
感じているのでしょうね。たぶん。

えーと、ぼくとしてはこのあたりで
レヴィナスの考えを放り投げちゃっておきます。
レヴィナスに対して、みなさんからは
もちろん異論もあるのだろうなと思います。
「だけど中立化ってそれどうかな、駄目じゃない?」
みたいな気分になるひともいるんじゃないかなあ。
そのへん、また休んだりしてから考えてみますね。



[今日の2行]
じぶんだけで考えていても、人間的な意味は持てない。
それは結局他人への無関心しか生まないのではないか?
                  (レヴィナス)

[今日のぼくの疑問]
じぶんだけで考えていても他人への無関心に
つながるというのはわかるような気がするけど、
中立化するのっていいことばかりじゃないよね。
どこまで個人の考えって中立化できるのかな。
それに、どこまで何を他人にひらけるのかな。
「考えを他人にひらく」ってそもそも何だろう?
このあたり、とてもややこしいですね。


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2000-01-21-FRI

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