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第3回 問いを問う

「学者が書く通俗的な科学の読みものは、
 きびしい研究の結果からできるんじゃなくて、
 成功のうえにあぐらをかいたものだ」

これはウィトゲンシュタイン(1889〜1951)という
ドイツ系イギリス人のしゃべくってた内容なのですが、
おそらくこのひとは、ある種の学者の
表現のやりかたをまずいと言ってるみたい。

学者が一般向けに書いた読みものが
つまんないものになりがちだ、というのは、
確かに経験的によくわかります。
「最先端でやってることがこれだけあって、
 そこでわかったことを、誰にでも
 例えば1時間とか通勤中とかでわかるように、
 簡単にわかりやすく解説する」
というかたちで書かれた本を読んだあとに
もの足りなさを感じてがっくりくるときってあるよね?
それはなんでそうなっちゃうのでしょうか。
どうして、最先端なのにがっくりしちゃうのかな。
ほんとならうきうきどきどきしそうなもんじゃん?
今回はそんなところからゆっくり行こうと思います。

専門的で興味深い成果とかって、
別に学術だけじゃなくて、もちろん芸術とかも、
ほんとはおもしろそうだから、ぼくも深くわかりたい。
ただ、でも、何かがわかるっていったい何でしたっけ?
知らないことを知ったりすることかー?
あとは、ものの見方がわかったりしたときとか
何かへの対処法がふと見つかったりしたとき?
うーん、まあ、でも何というか、おそらく、
今ちょうどわかりたかったようなことについて
展望が開けたときって「わかった」と言うよね?
前からの疑問が解けたときもそう言うよなー。

ウィトゲンシュタインはそのあたりを
「問題意識」みたいに取りあげて、
すごく気にしてるよ。

「問いに答えることよりも、
 問いを立てることが常に適切だよ。
 問いに答えようとすると
 人は間違いがちなんだけど、
 別の問題を問うことで
 前の問いに決着をつけられるから」

じぶんの持ってる問題意識そのものが
勝負のしどころなんだよって彼は言ってる。

例えば、
「俺が松本人志さんになれないのかな?」
って、これもまあ一応ひとつの疑問ですけど、
それをもし生物学的に思ってるんだとしたら、
それを解決して生身の松本さん本人になる
っていうことは、ほとんど不可能ですよね。
つまりこれ、疑問の立て方が間違ってる。
これは、解けるはずのない問題、というか、
考えてもしかたのない種類の問題になっちゃう。
そしたら、今度は例えば、
「松本人志さんがひとりで道を切り開いたように、
 俺がひとりで好きな道を行くには、何するかな?」
っていう疑問を立てると、これならきちんと先に、
「じゃあ俺の場合ほんとに好きなものはなんだ?」
とかいうような切り口が見えてきます。
こっちは少なくとも自分なりに考えを進められる。
そーやって、問題の立てかた次第で、
ものの見方って変わってきますよね?

で、学者畑の専門家のやってることというのだって、
やっぱり問題意識をもとにした研究なのだろうから、
きっとその切り口がおもしろいはず、と思うでしょ?
なんでそういう本がつまらなくなっちゃうのかな?

えーと最初に出したみたく、
「学者が書く通俗的な読みものは
 きびしい研究からできるんじゃなくて
 成功のうえにあぐらをかいたもの」
ウィトゲンシュタインはこう言ってる。
これってたぶんさっきの流れからひるがえってみると、
「学者は固定して書いてる」って言ってるんじゃない?

問うことが第1という立場からすれば、
研究にしろ何にしろ、考えるっていうのを彼は、
「問題意識を作っては壊してゆくきびしい連続」
って見てるんだろうなあ、と推測できますよね?
それで、この「問う」というのは
全力を費やして取り組む動きなのでしょう。

そんなところで気になってくるのが、
この人の「成功」「あぐら」って言葉ですよね。
どっちも動きないじゃん? 
切実な問いのありそうな予感が、
ここにはあんまりありませんよね?
ポイントはこれだよなあ、たぶん。
「問いに対して最先端ではこういう答えがありますよ」
っていうのは、おそらく一時的な答えを出すところで
とどまってしまってるように彼には見えるのだろうな。
つまり、固定した知識のようなのを与えようとしてるのが、
彼から見た「学者が書く通俗的な読み物」なの。
たぶん問いを出して答える連続ってのは、
「固定化して成功している何か」という
かたちある財産みたいなものじゃあないのだろうな。
だから学者の「成功」は、もう最先端じゃあない。

まあたぶん他にも「学者の通俗読みもの」を
おもしろくなくしてる要素はたくさんあるのでしょう。
例えば一般への見くびった歩み寄り方とか。
「これ以上はわからないだろうからやめておこう」
と、難しい内容のときとかに妙な嘘をついて
わかりやすく書いてある本とかって、あるじゃん?
あとはじぶんのメインの学会でのものじゃないから
全力をつくさなかったりするとまたつまらなくなる。
変に論争を恐れてつっこまなかったりしても、
これまた、おそらくあんまりよくないものになる。

ウィトゲンシュタインってのは、
おそらくこのへんについてもけっこうぐだぐだ
言いたい野郎だったんじゃないかと思います。
こんなことも言ってるからねー。

「あたらしい思考方法ができたら、
 それまでの問題は消えてしまう。
 あたらしい思考方法のもとでは、
 それまでの問題をとらえ直すのがむつかしくなる。
 『問題』とは『あらわしかた』にひそんでる」

つまりこのひとは語り方ひとつにしても
問題意識から流れ出るもんなんだって考えてるよ。
だったら、逆に通俗向けに書く本なんて、
実はほんとは専門家の問題意識を
文体(あらわしかた)のなかで見せられるっていう、
プロにとっての絶好の勝負どころになるはずなんだよ?
その意味では、退屈だと思いながら
通俗読みものを書く学者がいたら、
こりゃあ逆にもったいないっすね?


[今日の2行]
問いに答えるより問いを立てるほうが常に適切だ。
問題は表現方法にひそむぜ(ウィトゲンシュタイン)。

[今日のぼくの質問]
専門的な仕事を持っている合間に
ほぼ日を読んでくれてるかたって多いでしょうけど、
その専門分野の内容を一般(素人)に伝えるときの
歩み寄りかたについては、どう考えてるっすか?
そのへんをメールで教えてくださると嬉しいっす。

mail→ postman@1101.com

2000-01-13-THU

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