コンビニ哲学発売中。

第2回 じぶんとかそういうもの

「私の独創性は、土地の新しさであって、
 種の新しさではないと思う」

これはある哲学者の言葉です。
この「独創性」って何でしょうか?
必要なのか、と言われれば、
そりゃあ、ないよりは
あったほうがいいような気がしますけど、
だけど「あなたの独創性って何?」
ってきかれると、困ってしまいますよね?

歴史に残るような大天才という意味での
ものすごい独創性を放てる人というのは、
すごく深い(時には新しい)ところを
ついていながら、それを上手に
自分の言葉で伝えられた人のようにぼくは思う。
なぜなら、歴史に残るというのは、
表現に残されているということだろうから。

つまり、すごいことを考えるだけではなくて、
それを歌やしゃべりや数学の論文なんかで
第3者に伝えてるから、その人の天才性が
かたちとして残ってるんだよね。
たとえば劇でもいいや、具体的に残らなくても、
「あの演技はすごかった」
ってみんなに言われることで広がるじゃん?
逆に、表現しない天才は残ってないですよね。
そうなると、独創性って、独特の表現をする力?
いや、それはまあいいや、それは横に置いといて、
レオナルド・ダ・ヴィンチでもいいですし、
ドストエフスキーでもいいや、いろんなかたちで
独創性っていうのが言われてますよね。

で、ひるがえってみて、
「じぶんに独創性があるか?
 じぶんのまわりに独創性があるか?」
と思ってみてください。
そういう人たちのような意味で
独創性を持ってるひとって、
そうそういなさそう。
というか、そうそういないから
少数の特別のひとが輝いてるのかもしんない。

で、そもそも独創性って
必要なのかどうかといいますと、
そんなにオリジナルオリジナルと叫ぶ必要は
別段ないとも言えます。ふつうでもいいから
やりたいようにやってるかどうかが
もっと重要と言えば言えますよね?
やりたいようにやるというときに
「独創性のないものがまさに好きだ」
という個性もあるでしょうし、
それは「あっていい」ものだとも思う。

だけど問題があるんです。
どこにあるのかというと、
「でもじぶんには仕事上、
 ぜったいに独創性が求められている」
って迫られているところですよね、たぶん。
「独創性が嫌なら独創性を
 浮き出すような仕事なんてやめちまえ」
って言ってしまえばそれで済むのかというと、
そういう問題じゃあないように思います。
独創性を求めたいと思っている人にも、
この「迫られている」ところで
とてもネックになってしまうというか、
ジレンマやスランプのもとを生むかも。

何でかっていうと、独創性が極まっていくと、
なんだかじぶんの知らないところで、それが
かたちある「キャラクター」になっちゃうから。
ある種の「キャラ」を出していかないと
他人との区別をできないでしょ?現実に。

競争という現場に立たされている人って、
感性がすごいとか優秀だとかいうのでもいいけど、
とにかく何らかの独自なキャラが要る、
みたいにどうしてもされるじゃない?
それに、最初はそれでいい、
というところもありますよね?
「わたし、これできる。こういうとこ攻めます」
っていうのは頼もしいし、言った本人も
「最初は」それを全面に押し出したかった
かもしれない。だけど、それが特色になってしまうと
何だか煮詰まってきてしまうときもある。

つまり、ここでのポイントは、
じぶんが今まで得意だった
過去の成果だけで人は評価するけれど、
じぶんの興味や関心や能力は動いてる
ってところにあるような気がするんです。

わかりやすい例で言うと、
音楽つくってる人に対しては
おんなじようなことをやるのを
ファンが求めてるところあるじゃないですか?
最初はじぶんの好きな音楽を作ってたのに、
キャラクターとして認められていくと、
「ファンはあなたの、高音の叫びを求めてる」
ってなことになってきて、何だか知らないけど
人に無理矢理動かされて高音を叫ぶように
なってきてしまうかもしれないよね。
そういう種類の「決められた自分」に
いらつくというか、
「そんなに固定されちゃってうっとうしい」
「もっと違う方向に行きたいけど、
 今までのじぶんとか今のじぶんの環境を見ると
 どうも残念ながら、他にどこにも行けない。
 今までのキャラのままでやるしかない」
そんな感じになってくるよね。

ほかとの区別というものを
独創性と言うかどうかはわからないけれども、
すごくわかりやすいかたちで
じぶんのキャラを出して、
しかもそれをおんなじかたちで保って
押し続けなければいけないとなると、
これはたぶん苦痛というのに近くなりそうです。

お笑いで「キャラがかぶる」って時とか、
あとは昔に流行ってたタレントが
昔の思い出話をしてる時とかって
けっこうこの「固定されたキャラ」が
押しつけられてるような気がして、
すごく気の毒に思えます。
職場でこれを読んでる方だったら、
「あなたはこれ上手だよね」
の『ひとことでわかる得意分野』を決められて
「それもわたしだけどそれ以外もあるのに」
と思ってるかもしんない。

でも、そういう他人のじぶんへの見方って
ある意味まあふつうとも言えます。
他人から見たら、あなたはたぶん昨日と
すごく似ているあなたの顔をしてるから、
たぶんおんなじ中身なんだろうな、
と類推されているのでしょう。
おんなじものがずっと生活してるんだから
たぶんキャラクターもおんなじなんだな、
ってな感じできっと思われてる。
で、実際、じぶんは昨日のじぶんに似てるし。

それに、じぶんでも無理に
キャラクターをしぼりこんだりするよね?
高校卒業して進路を決めるときとかだって、
「何がじぶんにあってるんだろうなあ?」
っていうのをあんまりよくわからない場合でも、
今までのじぶんのキャラを極端に押したりして
ある種いびつなかたちで、
「わたしはこういうのに向いてると思う」
って結論する(というかせざるをえなくなる)。
そのへんで今回は、
この「じぶん」って何だろう?と思うんです。

そんな「じぶんというもの」の境界線を
けっこう深く考えてたのは、
フーコー(1926〜1984)というフランス人です。
この人は作品をかくごとに自分の持つ位置を変えてる。

「俺は自分のアイデンティティ(同一性)を否定する。
 俺は『これ』でもなければ『それ』でもない。
 俺は不安定で不確実なしゃべくりのなかで
 ゆっくりとかたちをとる空間を作ろうと試みる。
 こう言うのは、反論を恐れてるからじゃあないよ。
 そんなに俺は『じぶん』にこだわってねえ。
 書くことは俺にとって、
 錯綜した問題の手がかりを見つけることなんだ。
 書くことは自分を見失うことなんだ。
 けっこう何人もの人が、俺とおんなじように、
 『顔を持たぬため』に書いているはず。
 俺に『同一にとどまれ』と言うな。書くときには、
 同一であるという戸籍上の道徳から逃れられるんだ」

こんなようなことを言ってます。
彼は、不安定に書くことで
『顔(キャラ)』を捨てようとしてる。

これ読んでるみなさんって、こーゆう
「キャラクター」とか「独創性」について、
どう思います? たとえば、
「じぶんって枠に入っているなあ?」
って思うときってありますか? 
えーと、こういうのってたぶん、
今ほぼ日を読んでるかたのほうが
深く考えてたり現実で直面したりしてるかも
しれないので、ヒントをうかがいたいっす。

このページを使って紹介したり
それを契機にまた別の方向に
考えを進めていくかもしれないので、
いちばん下にあるほぼ日アドレスに
メールをいただけると、とても嬉しいです。


今日の2行
俺は『顔を持たぬため』に書いている。
俺に『同一にとどまれ』と言うな(フーコー)。

今日のぼくの疑問(っちゅうか質問)
このあたりに関してはじぶんでも模索中なのですが
いろんな視点がほしいので、メールとか感想くれます?

mail→ postman@1101.com

2000-01-11-TUE

BACK
戻る