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第1回 ハイデガーにかすってみた

ちょっと遅いけど、あけましておめでとー。
「ほぼ日」に最近来たかた、どうもはじめまして。
そしてずーっと続けて来て下さっているかたも、
いつもありがとうございますね。
このページの担当はわたくし、木村ともうします。
大晦日までは徳川埋蔵金のページを担当してました。

あ、そうそう、言い忘れてたけれど、
大晦日当日にインターネット生中継を
見ててくれてた人、ほんとにありがとう。
たくさんのメールをもらって嬉しかったっす。
今でも「ここに財宝眠ってるぜ」と
メールくれる人がいるくらいで、熱いですね。

正月や2日の目次にdarlingも書いてましたが、
あの日の生中継は、学ぶところの多いものでした。
「ほぼ日としてどうテレビに関わるか?」
「今、ひとは通常どうネットにつながってるか?」
などに関して、大晦日生中継をきっかけに
鼠穴編集部は今、いろいろと考えてみています。
埋蔵金番組の結論にとってつけるわけじゃないけどさ、
「ほぼ日」に対してもぼくは大きいポテンシャルを
感じてるんだけれど、でも、ぼくらがその潜在能力を
どう引き出して、育てて、そこで新しく何か生み出す、
というあたりがね、課題っちゅうか何ちゅうか、なの。

さてまあでも一応そういうのは
横に置いといて本題に行くんですけど、
この新企画では、哲学みたいなもんが、
ゆっくりのんびり紹介されていく予定だよ。
文系的シェアウェアページとでも思ってください。
「哲学系統の文章って読みにくいな、やーめた」
という人にむけてのページなので、
14歳くらいの人からわかる内容になってるはず。

この企画をつくる姿勢としては、
「哲学って実はこんなに簡単だ」
「哲学って実はすばらしいなあ」
とか言わせるためにやっているのではないぞ、
というところに重点をおきたいと思います。
14歳からわかる、といっても、難しいことを
相当デフォルメして簡単に紹介するんじゃなくて、
大げさな形容詞とかややこしい漢語を使わないだけで。
それに、ぼくは別に、
「すばらしいできあがった学問体系」を
伝道しようと思っているわけでもなくて、
哲学に関わるなまの動きを初心者として眺めて、
そんで自分なりに考えをすすめていきたい、
というだけなのです。そこが一番やりたいとこ。
だから、具体的に例を挙げればですけれども、
「アート界の人が哲学を知りたい時に読むページ」
みたいになってたりするといいなあと思う。
まあ、肩の力を抜いてのびのびして、
とりあえず気楽にはじめてみます。
あ、「全部読めない!早く知りたい!」って人は、
文末に今日の文章を2行でまとめてるので、
そっちをどーぞ。

じゃ、ほんとに本題です。
ええと、例えばですがぼくは今哲学とかとは別に、
「クリエイティブって何だろう?」
ってゆーのをわかりたい、と個人的に思ってるわけ。
っつうか、体系的にわからなくてもいいから、
とにかく何だかわくわくするものを作りたい。
で、そこで発想とか概念を生む上での出発点って、
いろいろあるじゃないですか。
その「出発点ってどこ?」というところから、
哲学と絡めて喋りはじめます。

みなさんは「哲学」を何だと思いますか?
哲学って、何からスタートすると思います?
こういうのって人それぞれイメージが違うよね。
文献学的に(いろいろ読んで集めて)だとか、
論理的に(筋道を立てて)だとか、
思弁的に(対話的にきりひらいてく)だとか、
あとはもちろん直感的に考えるだとか。
その出発地点についてちょっと考えていきましょう。

そのうちの一つ、
語源からさかのぼるようなイメージを見てみましょう。
つまり、この印象っちゅうのは、
「要するにあんたねえ、
 しかしやねえフィロソフィとはねえ、
 知(ソフィア)を愛する(フィロ)
 ということであってねえ……」
みたいなやつですね。
これって哲学者の印象に結構なってるよね?
で、まあこの文献学的なとこで
哲学とは一体なんなの?という感じで
一つ一つの語に対して人の持つイメージを、
ギリシア時代からさかのぼって考えてた代表者が、
ハイデガー(1889〜1976)というドイツの人です。
こいつは相当の曲者で、つまり鋭いですぜ。

現在の哲学で主に問われているような素材を
はじめて論じた奴だとか頻繁に言われてますし、
それにナチス党に思想的に深く関わった点は
「ハイデガー問題」と呼ばれてます。
ハイデガーの思想の是非、つまり、
彼の思想は必然的にナチス的考えを生むのか?
というようなことで今も熱く論じられてる。
とにかくまあ相当ビギーな野郎だよ。
フーコーやデリダといった現代哲学を担う人々は、
けっこうこやつから影響を受けてますよん。

こいつはいろんな語の使われ方を見ることで
「客観的とは何?」という問題を考えててさ、
近代的な、数学とかみたく考えを進めてく体系とか、
今までの言語体系の持つ思考の進め方の裏側には、
「人が生きるのは各自1回限りで、
 しかも主体的にしか生きられない」
という概念が欠けてるんじゃないか?と言ったの。
客観的な知識ってねえぜこの野郎、みたく言うのね。
「そういうのが人を空しくさせているんじゃねえか、
 マス・テクノロジーが人を疎外していく」
みたいな考えの基礎を作ってるの。
ハイデガーは、
「知的技術的にとらえられるものと
 してしか人がとらえられていない」
という近代の生んだ状態を、
「存在忘却」として憂えてます。
要素に分けて数学的に自然をとらえることは、
自然を支配する源にはなったけれども、
その要素に分けるという方法が、逆に人間をも
ひとつの規格化されたもの(交換可能なもの)
としてしかとらえられなくなるように
追いこんでしまっている、
だから人は寂しくなってしまう、
と彼は考えてるんっすね。

そんで、そういう分割化しない
新しい言葉で人をとらえようって、
「Dasein(ダーザイン・現存在)」
という言葉をこいつは作り出したのだ。
この言葉を使うことで、
「人は世界を心の内部に写し出すだけだ」
というのではなくって、
「人というのは実践的なものであり、つまり
 企てるだとか問うだとか作るということを通して
 ただ1回ずつ世界と関係している」
みたくとらえよう、って主張してる。
まあ、それに絡めて詳しくいろいろいろいろ
先にたくさん考えがあるけれど、とりあえずは
いったんここで立ち止まってみます。

そんで、出発点についてに話を戻しますと、
出発点が「固有の企てだ」って感じのとこで、
ハイデガーの持つイメージとつながるんですけれど、
つまり、出発する上では何らかの場所が要るよね?
例えば、今読んでくださってるみなさんが
何かをはじめようとすると、とりあえずは、
何をどう考えているのかとか、あとは具体的に
お金をこのぐらい持ってるとかこの技術持ってるとか
そういう現実的な制約も含めて、
固有の立ち位置からものをはじめますよね。

で、それと似てて、
「哲学とは何か?」という問いに対しては
おそらく客観的な答えってないのでしょう。
どこかに具体的に位置して答えることになりますよね。
哲学者たちはそういう問いを繰り返してきてるの。
で、哲学者たちの持ってたような
そういう各自の位置についてぼくなりに見て、
それを普通の言葉でしゃべっていくというのが、
このページの現実的な出発点や進み方とかに
なってくんじゃないかなあと思ってます。
「今」の具体的な立ち位置を意識しながら、
そんで早とちりとか勘違いも含めつつ、かなり
自分勝手な紹介をしていくので、よろしくね。
かなりゆったりめのペースでやっていきます。


[今日の2行]
科学は人を交換可能でさびしいものにしてしまう。
でも人間は本当は『1回限りの企て』だ(ハイデガー)。

[今日のぼくの疑問]
科学技術が人を寂しくさせてるけど、現実にぼくらは
何をしてもその技術から逃げれないのではないですか?

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2000-01-09-SUN

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