SHIRU
まっ白いカミ。

40枚目: 「蚊」

 

私の生誕百年まで
あと八十年程残っていた夏。

なま暖かい暗闇に髪をふりほどき
香水とタバコの匂いを落としながら駅へ急ぐ。

東京出張のついでに…と
懐かしさから会った彼の顎は角張って
立派な営業マンの顔になっていた。

自社のビールを頼みながら
いつからこんなに
そつなく笑える男になったのか。

男の笑いは意味が有って底が浅い。
女の笑いは意味が無くて奥が深い。
誰の言葉だっけか。

 

彼の父親はトマトと呼ばれていた。
うちの店にやってくると
決まって冷やしトマトと熱燗を頼むからだ。

常連ばかりのその店で
プチトマトと呼ばれて可愛がられ
でも好意を示す為の笑顔なんて
一度もみせた事もなかった男の子。

一緒にいても
会話を切り出せない重さが
どんどん重たくなって
空気が水のようになる。
目の遠近感が狂う。
水の底で交わした言葉を
沈没船から引き揚げた宝物のように
いつまでも保存する。

 

お酒の匂いに満ちた終電で
節操無くばくつく心臓に囲まれる。

電車の発車は遅れていて。
線路に立ち入られた方を
「お客様」というのだろうか。
痴漢にやめてくださいと
敬語を使うようなものだと思った。

地下15メートルの車中を
気怠そうに飛んでいるのは
今年初めて見た蚊。
蚊は墓所と式場の広告が並ぶ網棚まで
ふらつきながら飛んで急降下
サンダル履きの女の人の足にくっついた。

楽しげに談笑しているのに
邪魔しても教えてあげた方がいいのか。
勝手にはたいてしまうわけにもいかないし。

電車がホームに止まると
私は堪えきれず彼女に近づいて
黙ってふくらはぎを叩いた。
当惑する彼女に手の平をみせる。
彼女の血と黒い羽のついた手。

(手遅れ…)

発車音に慌ててドアを滑り抜け
ポケティをバッグから摘むように取り出す。

毒ガス事件以来。
ホームのゴミ箱はすっかり減っていて
蚊の死体を捨てるにも
ゴミ箱を探さないといけなかった。

 

シル (shylph@ma4.justnet.ne.jp)

from 『深夜特急ヒンデンブルク号』

1999-06-15-TUE

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