大村憲司を知ってるかい?
2年前の冬、短い生涯を閉じた、
あるギタリストの話。

【放映後に届いた、ほぼ日読者からのメール】

仕事が押して会社に泊まり込んでいた4泊目の夜、
友人からの連絡で憲司さんの訃報を聞きました。
あまり体が丈夫ではないというのは
以前から薄々感じていた(僕が経験しただけでも
体調不良によるライブのキャンセルが2回あった)ので、
その時は「ああ遂に…」と思っただけでした。

それからしばらくしてNHKで矢野顕子の特番がありました。
その番組は古今のコンサート風景を中心に、
矢野さんの音楽に対する姿勢を紹介するという内容でした。
「BAKABON」という曲の時、最初に引きで撮った
ステージの映像に憲司さんを見つけました。
ギターソロの部分は、口を堅く結んでギターを弾く
憲司さんのニーショットと、
ピアノを弾く矢野さんのバストショットが交互に繰り返され、
しかも目線が交差するように編集されていました。
言葉にすると陳腐になりますが、
まさに楽器を使って会話をしているようです。
これを見たときに、この世に憲司さんはもういないんだなと
いうことが初めて実感としてせまってきて、
泣いてしまいました。
昨年末のトリビュートコンサートの際も、
聖子さんのリクエストに応えて矢野さんがピアノソロで
「BAKABON」を演奏しましたが、
胸にせまるものがありました。

1985年に六ピで「ポンタセッションVol.2」というライブ
(村上秀一、富倉安夫、清水信之、乾裕樹、村松邦夫、EPO)
があり、憲司さんはゲストで数曲演奏する
予定だったのですが「俺、全曲参加するよ」と言って、
ポンタさんがとても喜んでいたのが印象に残っています。

「KENJI SHOCK」はもちろんいいアルバムだけれども、
「外人天国」が好きです。
曲ごとにミュージシャンが変わって
トータル的には取り留めのない印象だけど、
それが逆に憲司さんの色々な音楽のルーツが辿れるようで、
おもしろいです。

考えてみれば、あのアルバムを最後に
10年以上もソロは出さなかった。
いや、出せなかったのかな…。
それを思うとなんともやるせない気分になってしまいます。
(山崎)

        

BS拝見致しました。はい・・・はい・・・♪。
あれから…毎年桜が咲いたよっ!の声を聞くと、
担当している
ラジオ番組の最後の曲は必ず「春がいっぱい」ですよ。
今年も今宵7時52分位にはかけることにしていますよ。
春だからね……♪〜
(metropole)

        

糸井さん、ほぼ日の皆様、こんばんは。
毎日毎日、楽しみにしています。

さて、大村憲司さんのトリビュートコンサートを先ほど、
録画で見終わりました。

みんな、かっこよかった。

これが僕の感想です。
今年で33歳になる自分が、
今のままではあまりにも恥ずかしい、と感じるくらい。
みんな、かっこよかったです。
(オチャム)

        

10代、20代の頃に好きで聴いていた音楽には、
いつも、大村憲司のギターがあった。
彼だけを好きで聴いていた訳じゃないけど、
忘れられないギタリストだった。
再放送情報など、あったら是非のせてほしいです。
(高橋ユキ子)

        

中村哲さんの談話を読んで、外人天国を作った後で
一度音楽から離れていたことを初めて知りました。
そういえば,あのころ大村さんの名前を余り見ないな、
と思っていました。
大村さんの素晴らしさ、に関しては
特集でのコメントや皆さんのメールが
すでに語っているとおりです。

番組で坂本美雨さんがナレーションをやっていたのにも
ちょっときました。
88年春,六本木PIT-INNでの矢野さん+大村さん、
PONTAさんのLIVEに
まだ小学校2年生くらいだった美雨さんが見に来ていて,
PONTAさんに「タヌキのおじちゃん頑張って!」と
声援を飛ばしていたことを思い出していたからです。

最後に、素晴らしい番組を製作されたみなさんへ
多大なる感謝を。
各音楽家のコメント中に流れるBGMが
それぞれ大村さんが参加した代表曲になっていたところなど、
あたりまえながらなかなか出来ないことだと思います。
(宍戸淳)

        

トリビュートコンサートいけなかったよー
と思いつつ真摯な気持ちと
悔しさとクソっとの想い。
レコード・テープだけで沈聴黙祷してたんだけど。

ビデオって怖いけど
皆共有できるからね。視線も耳線も。
でもいいか、音だけも。
テレビもいいのかよ。フム
って半分の気持ちで見た。

確かに音は彼の音だけど
音色と「本人」は無い。寂しいけど。
はっきりと確認し、再出発できた時間でした。

やっぱすきだぜー。大村よ。
なんでまっとうしなかっんたんよ。
できなかったんよ。(過去形はここまで。)

涙涙の朝時間。
鳥肌状態でした。
仕事なんてどうでもいいや。

最近、友達も皆おじさんになって、
なかなか会話できる機会も少ないけど、
思わずその後会う人・合う人、
みた?
みた!ぜ。
聞く?
弾く?
とか老若男女問わず
会話せずに要られない状況です。

大村真司氏に頑張ってもらいたい。
期待の道でも反面新しい道でも。

その後で応援し聴き続けたいです。
コンサートに参加した全員が思ったように。遺伝はすごいね。
(木村英昭)

        

本当にすごいギタリストだった。
(だったという過去形を使わなくてはいけないことに
非常に悲しい思いがするのですが…)
僕が初めて憲司さんの名前を耳にしたのは
今から30数年前になります。(ちなみに僕は今43歳です)
姉と母親がヤマハライトミュージックコンテストを
見に行って「凄いギターの上手い人がいた」
それが憲司さんだったのです。
その後赤い鳥での「みちくさ」を聞きまくりました。
バックバンドとしての五輪真弓時代のエントランスには
本当にビックリさせられた。
コンサートの途中にエントランスだけの演奏があり、
周りの観客は当然五輪真弓目当てで来ているのですが
そんなことはおかまいなしに
「フレディ ハーバード」あたりの曲で
ギターを引きまくっていました。
もちろんポンタさんのドラムソロもすごかったです。
五輪真弓の曲に「少女」という曲がありますが、
まるでブルースを聞いているような雰囲気がありました。
日比谷野音でのバンブー、次郎吉でのカミーノ、
リアルタイムで聞けた事が本当に幸せでした。
今後は真司さんに、期待します。
(Shigekazu)

        

私は岡山に住む野田 利之(26歳・男)と申します。
私は高校生の頃から大村憲司さんの大ファンで、
このトリビュートコンサートも岡山から見に行きました。
(見に行った人の中では
かなり遠い方ではないかと思います。)

私が大村憲司さんのことを知ったのは、
高野寛さんの「ベステンダンク」を聞いてからです。
すごくきれいな音で、「これは本当にギターの音なのか?」
と驚き、虜になりました。それ以来、
誰のサポートで弾かれていても、
「これは憲司さんのギターだ!」と全て分かってしまいます。
そんなギタリストは絶対に他にはいないと思います。
多くのミュージシャンの方が
「唯一無二」のギタリストだと言われていますが、
リスナーの私にとっても「唯一無二」のギタリストです。
これからも変わらないと思います。
憲司さんのギターの魅力はいくら語っても語り尽くせません。
音に心地よく身を任せられる、
あらゆる意味でカッコいいギタリストなのです。

沼澤さんが書かれていたように、
一緒に演奏をした者にしか分からない事があって、
一緒に演奏をした者にしか分からない、
憲司さんの魅力があるのだろうなぁ、と思います。
私なんか、単なるいちファンに過ぎないので
本当に羨ましく思います。皆さんは私以上に
憲司さんにひかれている様に感じましたし、
皆さんの憲司さんへの思いや敬意、
一緒に演奏できた喜びが凄くよく伝わってきました。
微笑ましい? エピソードも知る事ができましたし。

矢野顕子さんの文章は、なるほどと思って読みました。
レコーディングの時の真剣さは確かに伝わってきます。
ライブの時もコワイ位真剣そのものですし。
それから、「音は人なり」という言葉もなるほどです。
憲司さんのギターを聞けば、お人柄が分かる気がします。
皆をひきつける魅力溢れる人だからこそ、
皆をひきつける音を出されたのだと思います。

息子の真司さんのお話も良かったです。
お父さんの事を尊敬していると堂々と言えるなんて、
素晴らしいと思います。喧嘩はしてても、
心の底ではちゃんとお互いの事を思いあっている
関係というのが羨ましいです。
これからの大村真司さんに非常に期待しています。

BS番組は憲司さんの魅力を
いっぱい伝えてくれていたと思います。
私は憲司さんの歌も凄く好きなのですが、
最後のライブ映像では、
歌う姿も見れて良かったです。
できれば、もっとたっぷりと時間をとって欲しかった事と、
もっと皆の目に触れる時間に放送して欲しかったと思います。
NHK総合で再放送してもらえるといいと思います。
憲司さんはこれからも、
私のなかでずっと生き続けています。
(野田利之)

        

放送見ました。とてもいい番組でした。
憲司さんの姿を探しながら
真司くんの初舞台にもなってましたね。

憲司さんの姿(と音)のないライブって??
って思っていたけど、憲司さんはいましたね、
そこにここにいっしょに。

憲司さんが亡くなったと知ったとき
矢野顕子さんの「GOOD EVENING TOKYO」
に収録されている“また会おね”を何度も聴いて
涙したことをすごく思い出しました。

はじめて聴いた曲でも、フレーズ聴いたら
憲司さんらしいなと思うものがいっぱいありました。
あたたかいライブだったと思いました。
悲しいけど、最後には笑顔で送り出せる。。。
そんな感じがします。
放映の企画をたててくださったみなさまありがとう。
(千春)

        

大村憲司さんの他界を知ったのは、
アッコさんの「さとがえるコンサート」でした。
僕はそれほど熱烈なファンではありません。
しかし。何というか。
チキンジョージでのポンタさんとのライブが
もう無いのかと思うと。
とても惜しい気持ちになりました。
ライブハウスで聴いた大村さんは、
ひどくカッコ良かったです。

特集の中では真司さんのコメントが一番興味深かったです。
彼は逞しいですね。

僕が知ってる中で、大村憲司さんの大好きな演奏は、
映画「ローカル・ヒーロー」のテーマ音楽です。
夕日色のライトの中で、演奏している姿が
今でも甦ってきます。

マーク・ノップラーの演奏を聴きながら思い出します。
とても良い音楽です。
大村憲司さんが僕に教えてくれました。
アッコさんが言うように、また会えるとうれしいです。
(匿名希望)

        

私も憲司さんの訃報を聞いたのは
矢野さんのさとがえるコンサートのMCででした。
「この曲は、今は亡き大村憲司も好きだった・・・」
今は亡き? またまたあっこちゃん冗談言うて〜と
その時は聞き流していたのですが、
ず〜っと心に引っかかっていて、
数日後書店で立ち読みした音楽雑誌で
本当だった事を認識しました。
YMOのツアーメンバーの頃からのファンで、
しかも自分が生で見たことのあるミュージシャンの
死というのは初体験だったので、
ショックでしばらく音楽が聴けませんでしたね。

憲司さんのライブで一番印象に残っているのは、
番組のラストでもあった「憲・ポンセッション」です。
当時、ピットインに限らず神戸や京都でもいつも満員御礼の
人気セッションでしたが、
ある日某ライブハウスに立見覚悟で見に行ったら
その日に限って客はなんと20人足らず。
ポンタさんは「昨日は満員だったのに、
今日は身内ばっかりか?」と大笑い。
「みんなもっと前寄っておいでよ」と憲司さんは客を集め、
たまたま私は憲司さんの真ん前に座ってしまい、
恥ずかしくて天井ばかり見ていました。
あまりの少なさに、なんだか客の方が
申し訳ない気持ちになってきて、
静かな空気の中演奏が始まりましたが、
MCで赤い鳥の話題になった時、憲司さんが
「そういえば、この曲って
 小学校の教科書に載ってるらしいんだよ」
と、「翼をください」を鼻歌まじりに歌い始め、
ポンタさんやキーボードの信吾さんが
それに伴奏をつけると、客も大盛り上がり!
その後は、演奏者と客というよりも、
ただ音楽が好きな人の集まりというような、
楽しい時間を過ごさせて頂きました。

今もって何故あの日だけガラガラだったのか
不思議でなりませんが、
はにかみながら歌うあの時の憲司さんの姿を、
あのトリビュートライブのような暖かい空気を、
8年以上たった今もはっきり覚えています。

神戸でもトリビュートライブやってくれるそうですね。
また、チキンの憲司さんのギター見に行けるのがうれしい!
(チケット取れればの話)
(yamako)

2001-03-29-THU

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