「ほぼ日」糠漬け部、活動中
   
モギ
モギの糠漬け
1 過ぎたるは及ばざるがごとし。
モギの糠漬け
糠漬け・削り節トッピング。

さて、「糠が冷たくて混ぜたくない」
「手が糠くさくなるから混ぜたくない」
この2つの大問題をトングにより解決しましてね、
楽しく糠漬けを毎日毎日しておりました。

胡椒でもいいやという文章も書いたけれど、
どうしても山椒の実が糠床にいれてみたくて、
山椒ちりめんのなかから
山椒を拾っていれるという貧乏臭い行為すらも、楽しく。
ただ、近所の八百屋に、万願寺唐辛子が売っていたので、
こりゃいいや、とおもって、糠床にいれてみたら、
糠床がやや、ピーマン的な香りになっている、ということも
あわせて報告しておきますが、
ともかく、順調に続いておりました。

そして、糠床にはいつも、
漬けられるだけの野菜を漬けており、
毎朝毎朝、大量の糠漬けが食卓に上っていた。
糠漬けは「乳酸菌」だし、塩分は控えめにしてあるから、
もりもり食べると健康的だわ〜と、
まあ、この生活がかれこれ一ヶ月ばかり。

が。
ここに来て、糠漬け疲れですわ。
また、糠床ごとごみ箱へ直行の危機が訪れたわけです。

「もう、ほかの漬物がたべた〜い。」

しかし、後の世にこの糠床を伝えるためには、
いや、すくなくともこの連載が終わるまでは、
糠床を生かしておくためには、
ここで、「飽きた」というような結末は迎えてはならぬのだ。

それならば、糠床だけをまぜておればいいだろう、
ということも考えられるが、
それは、ちょっと、むなしすぎないか?
野菜をつけてこそ、糠床じゃあないのか。

そこで、わたくしがまず考えたのは、
トッピングに凝るということである。
私は、鶴見師匠のように、古漬にして料理にというような
そんな、ナイスな食生活をしている人間ではなく、
かなり不埒な部類にはいるほうである。
だから、「糠漬け」もしくは「古漬」を
“殆ど手を加えず”バリエーション豊かに食すほうが都合が良い。

まずは、浅漬けにしたものに、
「醤油」というシンプルなものからはじめ、
そののちに、よく漬かったものに、
胡麻をかける、胡椒をかける、七味をかける、味の素をかける。
いろいろやってみた。
胡椒以外は、どれもなかなか美味しくいただける。
(胡椒をかけるのは、まあ一度ためしてみたらよろしいよ。
 「うまい!」という人もいるかもしれない。)

しかし、もう一声!
といったところだなあと思っていたところに、
ある朝、かつお節の削ったやつを、ひらひらっとかけて、
醤油をたらしてみた。

うむ。

いまのところ、これが一番イケてると思う。
ただ、ふつうの削り節だと、
削ってあるものの繊維が長いので、
箸にひっかかったりして面倒くさいので、
粉末になっているもの、
もしくは、いちど削り節をチンして乾かして
それを手でつぶして粉状にしたものが
面倒がなくて、よく漬物になじんで調子がよろしいです。
合わせ技で胡麻を追加するのも、なかなかかと。

これで、しばしの「飽き」は凌げることがわかった。

しかし、たぶん、ここで出すべき結論は、
「トッピングは、削り節にちょっとの醤油がおいしいよ」
というものではないと思われる。

もっと、そもそも論から説き起こすべきではないか。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
という、人生で何度も何度も耳にした慣用句を
導き出すべきではないだろうか。
つまり、まず漬ける野菜の量をへらせば
「飽きた」問題は大分解消できるはずであるし、
トッピングを考えるよりも、
簡単な方法なのではないかということに、
とっとと気がつくべきである!!

いくら糠漬けを始めたからといって、
ただ喜んだり、ただ夢中になって、
親の敵が糠床だったというような具合に
野菜をがんがんつけるなや。
なんとなく糠床にスペースがあるんだから、
いっぱいいっぱいにつけてやれ、
というような貧乏性はいいかげんなおせや。

「食べられるだけ」ではなく
「食べたいだけ」漬けろ。

この、ありきたりな戒めを
いまさらながらに自分に課した。
あほかいな。

(つづく)

とじる