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はれ
 
23℃
第20回 朝を迎えながら。
週末に、夜更かししたり昼寝したりで、
不規則な寝起きをくり返していたら、
深夜にぱっちりと目が冴えてしまったので、
午前1時ごろから『ピクミン2』を始めた。
そのまま集中してプレイし、
洞窟をひとつクリアーしたのは覚えている。
13個のアイテムをコンプリートし、
かなりの達成感を胸に地上へ戻った。
時計は見なかったけれど、
おそらく3時になるくらいだろうと僕は思った。
そのあたりはよく覚えているのだ。

そこで僕は、ほとんど電源を切る寸前だった。
ちょうどいい感じで眠さも訪れていたし、
その日のプレイに対して
十分に手応えと成果を感じ取ってもいた。
なぜ、そこから続けたかというと、
別の洞窟の入口を見つけてしまったからだ。
あそこには、どうやって入るんだろうな、
と思いながら僕はちょっと続きをプレイした。
惰性を利用して下りの坂道を行くような、
漫然とした操作だった。

この洞窟は、このまま入るしかないのかな、
というふうに、探りながら僕は入口に飛び込んだ。
ああ、入っちゃったよ、と思ったが、
まあ、きりのいいところでやめればいいやと思っていた。

その後、朝6時までの数時間を、
モニターの前に費やしたということが
自分の感覚と一致しない。
経過した約3時間に辻褄が合わない。
なんでカーテンの向こうが白いんだ? と思った。
夜にいるつもりだったのに、朝にいた。
思えばそれも久々のことだ。

ゲームに携わる多くのクリエイターが
「長く、時間のかかるゲームばかりを
 つくり続けていくのは、
 ゲーム業界全体にとってよくないのではないか」
と語り出したのは、いまに始まったことではない。
僕の個人的な記憶によれば、
プレイステーション、サターンといった
32ビットマシンが出始めたころに、
そういった提起はすでにあった。
すぐれたつくり手は、
いまよりもずっとまえからその問題に気づき、
よりよい進化を目指してきた。
僕の記憶するなかでもっとも早く
それを口にしたのは、
ほかならぬ任天堂の宮本茂さんである。

宮本さんはことあるごとにそれを口にされていた。
もっともわかりやすい発言を挙げると、
つぎのようなものがある。
「できなくて悔しいから
 サルのようにやって朝になった、
 というようなゲームばかりがあって
 はたして正しいんでしょうか」
このことばを聞いたとき、
なるほどとうなずきながらも
ちょっぴり苦笑してしまったのは、僕にとって、
「できなくて悔しいから
 サルのようにやって朝になった、
 というようなゲーム」の典型が、
『スーパーマリオブラザーズ』であるからだ。
もちろん、宮本さんはわかっている。
誰よりも、宮本さん自身が、僕らを夢中にさせる
「できなくて悔しいから
 サルのようにやって朝になった、
 というようなゲーム」
をつくってきたのだということを。

重厚長大なゲームからの脱却。
いま、多くのゲームクリエイターが
それを目指しているのだと思う。
その筆頭ともいえるのが任天堂である。
もちろんそれは、内容を薄くしたり、
とにかく難度を下げたり、
単にプレイ時間を短くするということではない。
多くの人が、貴重な余暇時間を割いて
プレイするのだということを念頭に置き、
ゲームという遊びを気軽なものにすること。
情報に精通した一部の人しか遊べないのではなく、
老若男女が身近に感じられるように、
細やかなサービス精神でもって
ゲームを仕上げていくこと。
それが、宮本さんたちの目指す
「重厚長大からの脱却」なのだと僕は思う。

『ピクミン2』にも、その志は活きている。
以前書いたように、『ピクミン2』では
プレイヤーにとっての根本的な縛りとなる
日数制限の枠組みが撤廃された。
ゲームのなかの大きな要素のひとつである
「洞窟」には、一日の時間すらも流れないし、
フロアーを下りるごとにセーブすることができる。
つまり、『ピクミン2』は、
「あまり、時間にとらわれず、
 のんびりと世界を探究できる」
ようにつくられている。
「遊びたいときに、気軽に電源を入れて
 やめたいときに、気軽に電源を切れる」
ようにつくられている。

けれども。

ここで、僕はアホみたいな理屈を持ち出すことになる。
それとこれとは話が別でしょ、
みたいな理屈を述べてみたくなる。
それとこれとは話が別だけど
けっきょく最終的には別じゃないんじゃないか、
というような気持ちから書いてみる。

どれだけ、導入をわかりやすくしようと、
どれだけ、セーブポイントを細かく設置しようと、
どれだけ、全年齢を対象にした難度を設定しようと、
おもしろかったら、ずっとやっちゃうのである。
アホみたいな理屈でたいへん申しわけない。
でも、意図せず朝までコントローラーを
握ってしまった僕が、
じゅんぐりにいろいろ考えたすえに
たどりついた結論はそこである。
ちょっとだけ堅苦しい方向に書き換えるとすると、
「人々の生活にゲームの時間をつくるために
 ゲームを気楽に身近にするための動きと、
 ゲームをおもしろくするための動きは、
 そもそも矛盾するんじゃないか」
ということである。
堅苦しくなったのでアホな比喩も書き添えておくとすると、
「サラダ、スープ、パスタ、ステーキ、デザート、
 といった本格的フルコースだろうと、
 お好みの量をちょっとずついろいろ頼める
 飲茶方式のこじゃれた台湾料理だろうと、
 それがすげえ美味かったら、
 食いしん坊はどっちにしたってお腹いっぱいです」
ということである。

しかし、僕がほんとうに言いたいのは
ここから先のことである。
学生時代からゲームをプレイし、
働きだしてからはさすがに
自由にゲームもできなくなったということを、
ゲームをなかば職業にしながらも痛感する僕が、
久々に朝までゲームにハマって
思うことは以下のようなことである。

自分の限られた時間を、
予定外にゲームに費やして、
少し自己嫌悪の感情を抱きながらも、
明け方の僕はひじょうに満足している。
胸を張って言えることは、僕の時間が、
ゲームに浸食されたわけではないということである。
僕は、『ピクミン2』という良質なゲームと出会い、
自分の限られた時間をゲームに
能動的に差し出したのである。
そして、自分の時間をゲームに差し出すときの、
若干の嫌悪の混じるうっとりするような瞬間こそが、
僕にとってのゲームの醍醐味なのである。
寝食を忘れさせるゲームと出会い、
寝食を忘れて夢中でプレイするということこそが、
僕にとってのゲームの醍醐味なのである。
歳をとるにつれ、ゲームに割く時間は限られてくる。
だからこそ、自分の時間と対等に引き換えられる
ゲームの存在は貴重で、
そういうゲームこそを僕は求めている。

眠りに落ちながら、まぶたの裏で
色とりどりのピクミンたちがちょこまかと動いた。
僕は、3番目の着陸地点の最後のアイテムが
いったいどこにあるんだろうと考えながら、
ぐうと寝た。

2004-11-10-WED


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