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樹 「樹の上の秘密基地」第5弾は
「ポケモンスナップ」
の開発チーム「ジャックアンドビーンズ」の話
をお伝えしています。
新しいゲームソフト開発チームのメンバー全員
を広告によって一般公募するという試みは、
どこから生まれたものだったのか?
応募し、採用されたスタッフたちには、
どのような苦難が待ち受けていたのか?
プロジェクトの生みの親である宮本さん、岩田さんと、
スタッフたちそれぞれに、同時に語っていただきました。

第2回目は、ソフトの開発がいざスタート!というところで
あれ?なんかおかしいぞ、と、みんなが思い始めて・・・。


(第5回の2)
「 リ ー ダ ー は、現 れ ず。」


ハル研究所代表取締役社長  
 岩田 聡さん
 以下岩田)
チームの運営をどうするか、については、
募集広告を出した時点では、まだ決まって
いなかったのです。
場合によっては、これは無責任と批判される
かも知れないんですが。
どんな人がどのように集まってくるのか、
何人のチームになり、どんなチームになり、
何を目指すのかまだ見えていなかったので、
運営母体をどうするかについても、最初の
段階では決められなかったわけです。
面接が終わって、採用スタッフが最終決定
したあとで、宮本さんから、
「いろいろと考えたんですけれども、
岩田さん、お願いしますよ」ということに
なりました。
私も、糸井さんとゲームを作るために、
定期的に山梨と東京を往復してましたから、
宮本さんよりチームと接する機会も多く
持てるわけですし、自分の管轄にすることが
合理的だと思いました。
そのような事情で、ハル研が運営の母体と
してスタッフを雇用し、プロジェクトチーム
を東京に作って、開発を進めていくという
結論になりました。


任天堂 情報開発部長
 宮本 茂さん
 以下宮本)
ソフトの開発にあたってチームが使おうと
していたツールのサポートを考えても、
岩田さんが見てくれたほうがいいと
思ったんですよ。

山本洋一
ディレクター

8月20日のスタートの日から、
参加しています。
ジャックがスタートしたときにいた
メンバーは4人でした。
ジャックの部屋には机が2つ。
箱に入ったままのMacが2台。
箱に入ったシリコングラフィックスの
ワークステーションが1台。

それだけだったんですよ。
これでどうやってスタートすれば
いいんだろうと思いました。
そこに岩田さんがやってきて、
「とりあえず、山梨から45万円、
もらってきたから」と、なにげなく
僕の前にその封筒が差し出されて。
思わず手を出しちゃったがために、
その時から経理の仕事も僕が
やることになったんです。
そのお金でまず出納帳を買いました。
そのあと4人で秋葉原に行って、
テレビと冷蔵庫と棚を買って、
なんだか自分たちの事務所をひとつ
開業するような感じでした。
神田の任天堂東京事務所の2階で、
当時卓球部屋と呼ばれていた
小部屋から、ジャックは
スタートしました


岩田:採用が決定したひとたちは、当然、
みんなそれぞれ前の仕事を持ってますよね。
私は、前の仕事を、周りに迷惑をかけずに
辞めてからジャックにくるべきだ、という
考えを持っていましたので、スタッフが
ジャックに同じ時期に揃ってスタートする、
というわけにはいかなかったのです。
8月にオフィスをオープンしたんだけれど、
スタッフ全員が揃ったのは翌年の3月、と
けっこう時間がかかったんです

早く参加出来た人から順番に、64のことを
学びながら、試作をしたり、ツールの研究を
していました。
宮本さんが定期的に東京出張に来られる度に
ジャックのオフィスを訪ねて来てくれて、
動かしているものを見ていただいたり、
それぞれが考えていることを話したりして、
何がしかのアドバイスをもらう、というのが
スタートしてしばらく続きました。

実は、宮本さんと私がこれを始めるときに、
昔の自分たちが「こういう場所でゲームを
作りたかったね」と言える場所を、ここに
作ろう
、って話をしてたんです。
ぼくらにとってもこのジャックはそういう
場だったんです。
でもね、あとになって思ったんですけど、
ぼくら自身が間違っていた部分があったかも
しれませんね。
つまり、ジャックの人たちは、昔の自分たち
ではないわけで、彼らに、昔の自分たちが
そうだったらよかったな、ということを
提供して、それがそのままジャストフィット
するのかといったら、そうじゃない。

岩田さん (岩田さん)

竹嶋 章
ディレクター

イメージしていたものと、
だいぶ違いましたね。
前の勤務地は名古屋で、
このために上京したんです。
チームの色がないのが一番困った。
なかなかなじめなかったから。
ジャックに入った当時は、誰も
何も分からなかったですからね。
そこにずいぶんと時間を費やして
しまったプロジェクトですよね。
基本的にジャックのメンバーに
なったのは、オーディションに
通った人たちで、プライドというか、
「俺たちは通った」という自信の
ようなものがあるわけですね。
プログラマーにしても、
「俺はシステムプログラマーだから、
 雑用はしないよ」ということが
必ず 起こりえる。
そういうことがジャックのなかでは
非常に多かったですね。
僕のなかにも
「俺はディレクターなんだから」
という気持があったように

竹嶋さん

編集部:昔の岩田さんや宮本さんと、今の
ジャックの人たち、何が似ていて何が違って
いるんですか?

岩田:「いいものを作りたい」という思いは
似ていると思います。

宮本:「納期に追われたくない」も(笑)。
いったんギリギリまで追い込まれて、
ある程度まで仕上げてから、時間をあげれば
よかったけれども、最初から時間をたっぷり
あげたので、全然追い込まれていなかった、
っていう(笑)。
僕らも昔は、追い込まれてたから仕事をして
いたのかな、って、改めて考えるように
なりましたけどね。
ぼくは、社内の人間だから、納期に追われて
いなかったように思われてるんですけれど、
そんなことないですよね。
ビジネスでやっている以上は、納期との
闘いなんですから

「3ヶ月で作れ」と言われた時代からずっと
やってますからね。
だからその部分では、同じような目に遭って
きている人がいっぱい集まってるから、
置かれてる境遇はほとんど一緒や、と思った
ですね。
けど、意外とそうでない部分もあってね。

宮本さん (宮本さん)

東山 静
デザイナー

すごく期待して大阪からこっちへ
出て来たうえに、すごい覚悟で
来たんで、入ってからしばらくは、
それが打ち消されたみたいな
気がしてました。
「来るんじゃなかったな」とばかり、
思ってました。
仕事をやっているときも
「何でここへ来ちゃったんだろうな」
ってことばかりを考えてました。
最初、自分のキャラクターが
メインのプレイヤーに選ばれた
時期があったんです

私、ジャックで一番年下だったんで、
すごくうれしかったんですよ。

その喜びが大き過ぎたもので、
キャラクターにポケモンを
使うことになって
自分の描いたキャラクターが
採用されないと決まったときに、
あまりにもショックが
大きかったんです

東山さん

岩田: そうでない部分もいっぱいあった。
いざ、開発を始めてみると、これは本当に
難しいということがわかりました。
つまり、納期が外から押しつけられないのは
いいことばかりじゃない。
個人の自由度が高いのは、いいことばかり
じゃない。
管理されないことは、いいことばかりじゃ
ない。
ある意味での制約も必要だということです。
管理っていう部分には、悪い面ばかりが
言われるけど、価値観のまちまちな人たちが
集まって何か1つのものを作るのに、
あのような放任のやり方がよかったのか。
共通の価値観も、共通の約束も、共通の文化
も持たない、ばらばらの人たちがばらばらに
集められて、ひとつのものを作るための
チームを組んだわけですからね

そこに圧倒的な強者としてのリーダーが、
つまり例えば宮本プロデューサーが、
ドンとまん中に座っていればね、
「このチームは宮本の価値観でやるのだ」と
安心して決められて話は簡単なんだけど、
糸井さんや僕や宮本さんは、このチームを
「自立したチーム」にするのだと、志向した
わけです。
私も宮本さんも、糸井さんも、抱えていた
仕事量は膨大でしたから、このチームの為に
大きなエネルギーを絶えず注ぐことは無理
だったし、それをやったとしたら、そのぶん
別のところに歪みが出てしまうのは、
わかりきっていましたから。

宮本: この「自立したチーム」っていうのが
すごく難しかったんですね、彼らには。

岩田: チームの中に、きわめて強力な個が
現れて、その人が「俺のやるとおりにやれば
出来るんだ」と、他のみんなを信じ込ませて
しまったら、集団合議で決める必要はないの
ですからね。
自覚はしていなかったのだけれども、
考えてみれば、きっと、昔の自分は
そうやってきたのだろうし、きっと昔の
宮本さんもそうされてきたでしょう。
いや、別にそれが、僕らは今のジャックの
彼らよりも優れているのだと言いたいのでは
なくてね、その人がその場に来たときに、
やるやり方が違った、ってことですよね。
無意識に、自分たちがやるようなやり方を
期待してしまっていたという間違いが
あったんです。

宮本: リーダーはおのずと現われる、と
思ったんですけれども、いつまでたっても
現れなかった
。その代わり複数のリーダーの
合議制になってしまったということですよ。

町田武幸
デザイナー

最初から参加していたんで、
部屋の掃除から始めたんですよ
冷蔵庫を買うところから。
準備期間という名目の時間が
長かったせいで、しばらくは
ソフト開発ツールを勉強しがてら、
いじってたんです。
今思うと、その時間をもっと有意義に
使っていたらな、と思います。
なにせ長かったですから。
9月に開発が始まって、結局年内には
実作業に入れませんでしたから。

今こそリーダー然とした山本洋一が
いますけれど、最初はみんな横並び
特にリーダーを設けないような
運営でしたんで、
なかなかうまくいきませんでしたね。
持ち場という考え方も、決めてしまうと
これは自分の範囲、としてしまって、
隙間が生まれるという発想から、
デザイナーも企画に口出すし、企画も
デザイナーにいろんな注文をつけていて、
これがちゃんと回り始めたのが、
「ポケモンスナップ」になる
直前からですかね

町田さん

岩田: 合議制民主主義型になっていったし、
さらに一番状況が悪かったときは、
自分の考えを通すためには、チームの全員を
個別に説得しないと前に進められない
という
時期があったんですよ。
これがやはりオーディションの弊害でした。
最初の時点でリーダーがいたわけじゃない、
なにせ全員が揃わない時期が半年以上あった
わけですから。
各自ばらばらの状態からオーディションに
よって並列に選ばれて、ばらばらの価値観を
持ったままばらばらの時期にここへ来た。
誰もが「このチームではこのひとがリーダー
だから、そのひとの言うことを聞け」とは
言われていない。
最初から全員が揃って、最初の1ヶ月なりを
きっちりとスタート出来たら、全員の人間の
仕事に対する力量や性分、人間関係みたいな
ものまで見えていたら、もっと早くから手が
打てたかもしれない。
チームの運営者としてプロジェクトを遅延
させた原因は、まずここにあったと、
反省すべき点です。
糸井さんも、「みんなを一緒にしておけば、
そのうち自然にリーダーは現われるよ」と
おっしゃっていたんだけれども、
そのやり方は乱暴すぎたんでしょうね。
その意味では、私たちの理想であった、
個々の裁量に任せつつ、個の良心を信じて
ものを作るということは、お互いの文化が
本当に一致している人たちの間柄でないと
難しいということですね。
だから集まった場での基となる組織の文化、
組織の代わりにある個人でもいいんですが、
「この場では、この価値判断を、正義とする
のだ」ということが、スタッフに対し明確に
示せなかったことに対しては、運営者として
非常に反省をしているんです。

 

川瀬シゲゾー
デザイナー

ジャックに入ってから感じたのは、
当初の自分の予想を裏切ってそれほど
3Dのことに詳しい人がいなかった、
ということですね。
予想してたチームとは違ってました。
初めは64のツールみたいなものが
全くない状態で、絵を画面に
出すことも出来ませんでした

3Dを作るツールだけはあったけど、
ソフトが動かない状態が長くて、
けっこうイライラしてましたね。
最初、自分が人にいろいろ質問して
いろんなことを覚えたい、と
思ってたのに、ふたを開けてみると、
人から聞かれることがものすごく
多くなってしまって。
初期のころは岩田さんとよく話をして
相談に乗ってもらっていました。
みんな僕に聞いてばかりいるんですが
大丈夫なんですか?って

自分でもここで新しい技術などを習得
したかったですから。



「リーダーは、現れず。」いかがでしたか?
なかなか進まない開発状況に対して、岩田さんや宮本さんは
その後どうやってチームをまとめていったのでしょうか?
次回をお楽しみに。


1999-5-25-TUE


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