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『MOTHER 3』の開発が中止になったことについての
糸井重里・岩田聡・宮本茂の座談会 その3

 
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宮本:
作らなければ食べられない、
という飢餓状態にはなかったし
そのうえハードを2回も変えたことを
吸収しきれなかったことの歪みとかも
溜まってきたんでしょうね。
そういうことは、全部プロデュース側の
責任ですね。
その最後のツケを払うのに
現場に乗り出していくのが
プロデューサーなんですけれども
もうしわけないけれど僕も行けなかったし
岩田さんも、いよいよこれ以上は、
というところに来てしまった。
ほんとうに「残念ながら」という
気持ちが強いですけれどね。
うちの担当者も、去年からずっと反対派
(開発中止にすべきだという派)
だったんですけれど、
いざプロジェクトを閉じるとなると、
もったいないという気持ちになってきて、
いまはいちばんの擁護派に
回っているほどなんです。

 
岩田:
こう言われましたよね。
「やめたほうがいいんじゃないですか?
 それが大事なのはわかりますけれど
 現実的に、かつて自分たちが感じてきた
 “完成するもの”に対する手ごたえが
 ここにはない」
って。

 
宮本:
当時は応援に入ったプロデューサーからは、
完成しない商品になると、
ずーっと指摘されていました。

 
岩田:
それを完成する状態に持ち込むのが
自分の仕事ですから、
そうなるために、いろいろもがいたわけです。
格好悪いことも含めてね。
そのためにみんなにいろいろ
無理をお願いしたんですけれど。
完成したものと完成しなかったものを見てきた
宮本さんのところから応援に来てくれた人達が
やっと完成する手ごたえを感じ始めていたときに
私が、「これは時間的に無理がある」と言って
今回、こういう結論を出す方向で動いてしまった。
そのことを
非常にもったいなく思ってくれている、と……

 
糸井:
完成する、しないの手ごたえ、っていうのは
言葉になかなかしにくいものでしょうけれど
どの辺にポイントがあるんでしょうか。
お二人とも、途中でやめた商品というのは
あるんですか?
 
宮本:
僕の場合はかなり若い時期にあります。
タイトルも決まっていないようなものでした。

 
糸井:
タイトルも決まっていないような状態で
作りはじめて?
 
宮本:
そうですね。

 
岩田:
でも、宮本さんの場合は
私よりも見切りが的確だと思うので、
自分が乗りだしていってから
完成できなかったことは、
たぶん、ないんじゃないですか?
私も、それがないのが自慢だったんですけれど、
NINTENDO64の初期に、
『カービイのエアライド』というのを
1本やろうとして、
自分が関与していたのに、
まとめられなかったことがある。
仕切りなおして、結果的にはそれぞれのチームが
がんばってくれたので、
『スマッシュブラザーズ』や
『星のカービイ64』ができたんですが、
そのときにはじめて挫折を味わった。
でも今回は、その時以上に
かかわっていた時間が長いですから
挫折感、強いですね。

 
宮本:
いろんな部品コストの事情などで
発売しなかったものというのはありますよ。
でもでき上がらなくて止めたのは……
かかわったものでは、ありますよ。
海外でつくっていたものがいくつかあるのと、
国内でいちばんの典型なのは『ジャングル大帝』。
1年半から2年やって、もう少しでできる、
というところだったんですけれど、止めました。
それは、手塚眞くんがディレクティングをやる、
現場をすべて取りまとめるということで
やったんですけれど、
彼の映画の上がりの時期にちょうど重なっていた。
映画があと3ヶ月で上がる、ということで
彼はそれに没頭しないといけない。
3ヶ月といわれたら6ヶ月くらいかかるのが
世間の常識なので、半年、そのままの状態で
チームを運営していると
そこでまたすごく、コストがかかるわけですね。
で、いったん止めましょうということで。
その場合のディレクターの頭の中には
しっかりした骨組みになったものが
できている、ということが大事なんです。
その骨組みが、すごく抽象的な言い方だけど
安物の折り箱みたいじゃなくて
ガシっと固まった手ごたえがあるときが、
僕の「完成するソフト」のイメージなんです。

 
岩田:
完成形がしっかりイメージされていて
多少つっこまれてもゆるがないだけの
完成度をもっている。
それを誰か……通常はディレクターであることが
多いんですけれど、
誰かが完成形を明確にイメージしていて
「こういうときはどうするの?」
というときにすぐに答えが返ってこれるだけ
構造がしっかり考え抜かれている。そうして
問題がなくなっている状況になっていて、
それをどう実現するかのメドがたっていれば
「やればできる」わけです。
「できなくてあたりまえなんですよ」
と宮本さんがおっしゃるような、
ゲームの、すごくフワフワした状態から、
しかも一箇所でもミスがあれば動かない
コンピュータというものを相手にして、
完成品を作り上げる、というのは、
そういう状態にするということなんですね。
それが、1年前はぜんぜんなかったけれど、
だいぶそういう状態に近づいたよ、
というのが、「手ごたえ」ってことなんじゃ
ないでしょうか。

 
宮本:
たがが緩んでいるものから、
ほぞが切ってない、突き合わせただけのもの、
骨組みがなくて皮ばっかり、
ということ、あるでしょ。
そうするとやっぱり、
それは監督の目だと思うんですけれど、
フィルムでも
「これじゃ人様に見せられない」
って、なにか思うわけで、
その手ごたえというのは(製作中にも)
あるわけなんですよ。
ひとつは、世間のほかのものに対しての
アイデアの鮮度でしょうし、
ひとつはプログラマの仕上げている
クオリティでしょうし。
それが伝わってくるのは
ディレクターとして自分で触ったときの
手触りですよね。それは、表面の素材が
ものすごくたくさんできているのもあるし、
表面はすごくきたないけど
骨組みはすごくしっかりしているというものも
あるでしょう。
どちらのケースもオーケーなんですけれど、
まあ、骨組みがしっかりしているほうが
先が読めますよね。
木造建築に向いている設計士もいるし
鉄筋に向いている設計士もいるんだけど。
ぼくら、プロデューサーとしては、
設計者の適性にあったものに
その商品を作り替えるということが必要なんです。
「そっちには行かずに
 このあたりで落ち着かせなさい、
 なぜならあなたは金づちで釘を打つのが
 うまいから」
と、そういうプロデュースはするんですよ。
『MOTHER 3』の場合は、
建築で言えば“ビルでなければならない”というのが
前提にあったので、
それを途中で木造御殿に変える、
というのはできないし、
そういうあたりでは、まだ、見えなかった。
監督によって作り方や
まとめ方のスタイルがあるもので、
僕のもの作りは、わりと端っこから描いていくんで、
ランダムな木のように、幹がないんですよ。
それで先が見えなくなっていくんですが、
そういう形の定まらないものを
ぼくなりに形に落ち着かせるのが
だんだん上手になったのは、
「名前をつける」ことで
バランスのとれたものに見せる、
という方法を発見してからだった。
それが自分なりに下手な絵を描き続けてきたなかで
生み出した方法だったんです。

 
糸井:
形の見えないものに「名前をつける」、
その「名前」ってどういう意味ですか。
 
宮本:
人が横から見るものを
「真上から見たら面白いでしょ?」
という言い方をしたときに
それはすごく新鮮なものに思えることが
あるでしょう?

 
糸井:
名前をつけるっていうのは、
視点を発見する・・・。
 
宮本:
そうそう、だから、この視点から
これをまとめましょう、ということを、
やると思うんですよ。
企画の段階なり、にっちもさっちも
いかなくなった段階なりで。
さまざまなんですよね。
ただ、一般に多いのは、
ゲームを遊んで育ってきた子たちは
とくにそうなんですけれど、
枝葉の部分を一所懸命つくりたがるので
枝葉の部分だけがどんどんでき上がっていく。
それを僕のような手法でまとめるのか、
それとも骨組みをうまく作る人の手によって
まとめるのかはわからないけど
その手法が固まっていない状態で
どんどん枝葉を作っていく。
すると、その枝葉をつくることに
いちばんのコストがかかるんです。

そしてエネルギーも消耗する。

糸井:
そうですよね。
枝葉がいちばん情報量が多いわけですから。
 
宮本:
そのような病気に、
『MOTHER 3』もすこしはかかっていたし
いま世間にあるものもたぶん、
いろんな会社で、そのようなものを
いっぱいかかえて、困っている。
経営者は、枝葉の部分をいっぱい集めれば
建物ができると信じていたわけなので
いまさらそういわれても、
という気持ちになっている。
そういう会社がたくさんあると
思うんですよね。

 
糸井:
外壁の工事人ばっかり集まる、
みたいになりますよね。
 
宮本:
評価されるのはそこだからね。

 
岩田:
外から見えるのは外壁なので、
それは画面写真を見ると
劇的に違うわけですよ。

 
宮本:
任天堂のゲームは、雑誌には不利だと
言われているんですよ。
動いて初めて魅力がでる
ということなんでしょうけど。
 
糸井:
そうか! そういうことですよね。
 
宮本:
『MOTHER 3』に関しては、まだ
そのあたりの話の通じる人の数が
足りなかったかもしれないですし
そこがチームの中でもっとはっきり
見えていれば、なんとかなったかもしれない。
近いところに立っていたんですが、
100%の確証はない、というところで。

 
 
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