(これまでの「はじめての中沢新一」連載はこちらです)




  第7回 縄文の聖地が神社になった

(中沢新一さんの、イベントでの
 ひとり語りをおとどけしています)
縄文時代には
湛え(たたえ)の木と
されていたものや
桜の木の根元に、神様として
石を置いてたたえていた場所が
だんだん
神社として昇格していきます。

そして
このタイプの神社が
東京では八幡として
まつられることが多いんですが、
その理由は、しゃべっていくと
すごい時間かかっちゃいます。

まぁ、ひと言で言うと、
八幡神社というのは、
神功皇后と応神天皇の
母と子がカップルになっている神社です。
神功皇后の夫が仲哀天皇で、
その親子3人で
セットになっているのが
八幡神社でした。

父親、母親、子供、という
セットになっているんですが、
縄文時代の神様の構造と、
八幡神社の構造はそっくりなわけです。
ですから、新しく神社を作るときに、
これは古い考え方の
延長上だったわけで、
縄文の神様が
そのまま八幡神社になるケースが
非常に多かったんですね。

それから、稲荷社。
これは古墳の跡です。
たとえば、渋谷の宮益坂のあたりには、
見事な古墳群が続いていたようですが、
その古墳の跡は、
きつねが住む稲荷となるケースが
多かったようですね。
それからこの古墳がある場所は、
お寺にもなりました。

沖縄語で
寺を意味する言葉は
ティラーといいますが、
ティラーとは、お墓という意味です。

つまり、お寺というのは、
もともとお墓だったわけですよね。
そこで
お墓の場所をマッピングしていくと、
縄文時代の地図と
見事にかさなっていくわけです。

お寺や神社があった場所というのは、
のちのちに都市開発が進んでも、
簡単に崩すことができない場所でしたから、
そのあたりだけ、
時間がとまったような、
不動の場所として残ります。
そしてそのまわりに、
いろんな建物が作られてきますが、
この建物にも制限があるということが
わかってきたんですね。

学校という場所が気になりました。
学校は広い敷地を必要としますが、
明治時代にできた学校や大学などは、
どうしてあんなに広い土地を
入手することができたか
ということを考えてみたんです。

福沢諭吉にしても、
大隈重信にしても、
立場を利用して、
なんかうまいことやって
慶應や早稲田のかなり広い土地を
手に入れてるんですね。

なんであんなに
広い土地を手にできたのか。

早稲田のあたりというのは、
手つかずの森が
広がっていたようです。

それから慶應のあたりというのも、
みんなが
家を建てるのをイヤがっていた、
避けていた場所でした。

(明日に、つづきます)
 
2005-12-26-MON