(これまでの「はじめての中沢新一」連載はこちらです)




  第6回 神聖な場所

(中沢新一さんの、イベントでの
 ひとり語りをおとどけしています)
ぼくは
学生の深澤くんという人に頼んで、
「縄文時代に、
 東京にいちばん深いところまで
 水が入りこんでいた時代の地図」を
コンピュータで
いろんな地図から合成して、
はりあわせてもらったんです。

各区の出してる
区史というのがありますね。
世田谷区史とか、練馬区史とか、
最初のページに
原始時代の地図があるんです。
これを参考にして、張りあわせて、
東京の全域の
縄文地図を作りました。
それと今の地図とかさねました。
そしてもうひとつ、
思いついたことがあったんです。

それは、
善福寺川で
気がついたことですけども、
大きい湾曲している地形とか、
あるいは、
当時東京湾は
奥まで入っていましたから、
フィヨルド状になった地形に
たくさんの半島がつきだしていました。
この半島になって
つきだしている部分に、
どうも宗教的な施設が多すぎるんです。

神社、稲荷、それからお寺、
そういうものが
たくさん並んでいます。
できるだけ、
古い時代にできた神社というのを
東京の地形に、
マッピングしてみたわけですね。

そうすると、
おどろいたことに、
この神社分布マップ(神社プラス稲荷)と
縄文マップは、
だいたい重なっちゃうんです。

それは、どういうことを
意味しているのでしょう。

陸地が坂を作って、
海や川の中になだらかに、
あるいは、
急カーブで落ちこんでいく中で、
ちょうど落ちこむ手前の部分とか、
傾斜の途中とかに
横穴古墳があったり、
古い宗教施設の跡と
思われるものがあったり、
それが神社に
作りかえられているところが
とてもたくさんでてきたのです。

それが
どうしてわかるかというと、
東京の神社でいちばん多いのは
八幡神社とか諏訪神社です。

この八幡神社ですが、
ご神体をみてみると
縄文時代の神様だったし、
生産の用具だった石棒ですね。

インドに行くと、
石棒というのは
シヴァ神の象徴として
非常に
あがめられていますけども、
縄文時代には、これが
宗教的な聖地の目印になりました。

石棒の後ろには
たぶん大きな植物が
たっていたはずです。

それが古い聖地だったんですけども、
それがのちのち神社が建てなおされます。
神社が建っても、
もともとあった石棒を
捨てるわけにはいかないんですね。
まずその石棒をつつんでお社を作る、
という時代が長く続きました。

それから鎌倉時代に入ってきますと、
いろんな武将が
スポンサーになりますから、
神社を建てるようになります。
そうすると古い社を取り壊して、
新しい立派な
八幡社というのを建てるんです。

そうすると
古い社の中に石棒があるのは
こまっちゃうわけですね。

そこで多くの場合は、
脇のところに
ちいちゃなお社を
「荒神さま」として、その中に
石棒をおまつりしたりすることを行います。

あるいは、
阿佐ケ谷の天祖神社(神明宮)の
場合のように
石棒をそのまま神社の奥へ飾って
御神体にしているところもあるぐらいです。

ですから、
いま、東京にある神社には
由来を尋ねてみると、
そんなに古くは
遡らないものもありますが、
その場所の神聖さ自体は、
非常に古くからあるわけです。
ほとんど例外なく、遺跡の跡です。

(明日に、つづきます)
 
2005-12-25-SUN