NAGATA
怪録テレコマン!
hiromixの次に、
永田ソフトの時代が来るか来ないか?!

第54回 窓を打ち屋根に転がる小石は


「拝啓 永田泰大様──」とメールは始まっていた。
20年ぶりだが差出人の名前を僕は覚えていた。
気を遣いながらも確信を持って、その人は問いかけていた。
「あなたは私の知っている永田クンではありませんか?」

そのメールに返事を書きそびれていた。
懐かしい挨拶をどんなふうに書き始めようかと迷ううち、
週末が2回ほど過ぎてしまった。

僕はすぐに返事を書くべきだったのだ。
そんなところでまごまごしているから、
おかしな偶然が重なってしまったのだ。
僕はそれをとても後悔している。

3度目の週末に、
いよいよ返事を書こうとしてパソコンを立ち上げると、
そこに新しいメールが届いていた。
清水からのメールだった。
以前、河原で花火を見ながらテレコを回したときに登場した、
中学時代の友人のひとりだ。

タイトルに「訃報」とあった。
清水からのメールはいつも短い。
要点は一行目に書かれていた。
昨日、僕らの大切な友人が亡くなったと、
短いメールは伝えていた。

「あなたは私の知っている永田クンではありませんか?」
そのメールに僕はすぐ返事を書くべきだったのだ。

20年ぶりの知り合いから届いたメールは、
知人のデザイナーを通じて僕へ転送されてきた。
僕はそのデザイナーのホームページに
適当な文章を書いていて、
その人はそれを読んで僕に思い当たったらしい。

転送されてきたメールには
中学時代の僕のエピソードがいくつか記されていた。
もしもこれらの出来事に覚えがあるなら、
あなたは間違いなく私の知っている永田クンであると
その人は書いていた。

「Sというバンドに覚えがある」
──はい、覚えがある。
「Gというバンドに覚えがある」
──はい、覚えがある。
「Gというバンドにいた、やたらデカい女に覚えがある」
──はいはい、覚えがある。
「その女に頼まれて、
 ポテトチップスコンソメパンチ1袋と引き替えに
 夏休みの美術の宿題を引き受けたことがある」
──うん、僕はあなたの宿題を引き受けたことがある。

あなたは、ヤマキさんだ。

僕は背の高いその人の姿を思い浮かべた。
するとつぎつぎに中学時代の懐かしい顔が続いた。
いろんな顔と、いろんな場面が、
懐かしい場所の懐かしい空気とともによみがえった。
もう、20年近くも昔のことなのに。

中学入学と同時に僕はその街へ引っ越してきた。
春の日射しが注ぐ1階の明るい教室で、
皆が小学校時代の友だちと談笑するのを眺めながら
ひとりで座っていたことを覚えている。
たしか席は前から3つ目くらいだった。

1年3組には、
後の僕にとって重要な友人となる男が3人いる。
所と、清水と、原田だ。
僕らは4人ともバスケ部だった。

所は僕の前の席に座っていた。
生徒が五十音順に座らされていたためだ。
だから最初の友人は所だった。
彼の家で初めてレンタルビデオを観た。
彼の家で初めてコンピューターに触れた。
彼と彼のお父さんは声がそっくりだったから、
僕は電話にそれらしき人が出るたびに迷った。
僕らは違う高校に通ったが、
高校3年生の冬をよくいっしょに過ごした。
所が大学入試を早くに推薦でパスし、
僕が早々と浪人を宣言したために、
皆が受験に忙しい時期に僕らはふたりして暇だった。
いまにして思えば、彼はともかく
僕があれほどの暇を持て余す根拠はない。
美術校から普通校へ進路変更したという背景はあるにせよ、
我ながらちょっとどうかと思う。
その冬に僕らはふたりで延々と麻雀を打った。
誰よりも早くルールを覚えた所は麻雀が強かった。
覚えたての僕が勝てるはずもなかったが、
僕は果敢に挑んでは負け続けた。
覚えているのは、もっとあとに
中脇の家で麻雀を打ったときのことだ。
僕はそこで初めて所に勝った。
十代の麻雀は恐ろしく控え目なレートだったから、
勝ったのはきっかり50円だった。
僕はそのとき彼から奪い取った初めての50円玉を、
誇らしげに中脇の部屋の壁へピンで刺して貼った。
驚いたことにその50円玉は
いまも中脇の部屋の壁に残っている。
因縁の対決を初めて征した喜びが
そこに強く込められていることはわかるが、
自分の部屋の壁に50円玉を貼られた
中脇にしてみればかなり迷惑である。
所は大阪の大学に行き、東京で就職し、
いまは地元へ帰っている。

清水と僕は家が近かった。
移動の知識と段取りに優れる彼とともに、
僕はよく旅行へ出掛けた。
初めての旅は中一か中二のときだったと思う。
僕らは普通列車を乗り継いでなぜか軽井沢へ行った。
なぜ軽井沢だったのかはまるで思い出せない。
推測するに「夏だ!」「旅だ!」「軽井沢だ!」という
恐ろしく短絡的な理由だったのではないかと思う。
鈍行列車の旅はひどく時間がかかった。
いまならとてもできないが、
何しろそれは初めての旅だったから
好奇心に満ちる僕らに退屈の概念などなかった。
道中、どこかの駅のホームで一夜を過ごした。
たぶん、中部地方の山間にあるどこかの駅だ。
田舎の駅は真っ暗だったが、恐くはなかった。
木のベンチに横になるが眠れなかったことを覚えている。
便所に無修正のエロ本が捨ててあってショックを受けた。
肝心の軽井沢では何をしたかまるで覚えていない。
ユースホステルで過ごした夜が
楽しかったことだけをかろうじて記憶している。
清水と僕は同じ高校へ進学した。
いまにして思うと僕と清水の辿った道は
仲間内の中でもっとも似通っている。
僕らは同じ町内に住み、
同じ中学校に通い、同じ高校を出て、
同じ予備校で過ごし、
同じように東京の大学へ入り、
同じく東京で就職していまもいる。

原田は極めて早熟な男だった。
仲間内の誰よりも彼は大人だった。
それはもう、不釣り合いだったといっていい。
ユーモアも文化も恋愛も流行り言葉も、
つねに原田がなんらかの形で僕らへ供給していた。
僕らは熱心にそれを追いかけたけれど、
決して追いつくということがなかった。
彼から影響されたものを
僕らがようやく理解できるようになると、
彼はすでにそれに飽きてつぎへ進んでいた。
たとえば彼は当時すでにソウルミュージックを聴いていた。
僕らはまだサザンやベストヒットUSAに夢中だった。
知らない音楽のかかる彼の部屋は薄暗く、
いまにして思うとあれは間接照明である。
その部屋にはあまり行かなかったが、
音楽を聴きながらステレオの仕組みについて
彼から講習を受けたことを覚えている。
原田は「パワーアンプ」と「プリメインアンプ」の違いを
図に書いて説明してくれたけれど、
そもそも「アンプ」の概念のない僕には
半分くらいしか理解できなかった。
何しろ僕は
せいぜいダブルデッキのラジカセに憧れるくらいの
ふつうの中学生だったのだ。

そのようにして原田は仲間内の源流としてあった。
けれど彼は僕らの遊びにあまり加わらなかった。
中学生にして彼は達観していた。
当時の彼といまの僕が言葉を交わしても、
立場は対等なのではないかとすら僕は思う。
彼は趣味や思考だけでなく風貌も大人びていて、
その印象から周囲は彼を「じいさん」と呼んだ。
所も清水も原田をそう呼んだけれど、
僕だけは彼を名字で呼んでいた。
たぶん、僕と彼が周囲より
ちょっとだけ近い関係にあったことが影響していると思う。
周囲は彼を「老成者」として
識別することをためらわなかったが、
僕はぎりぎりのところで地続きな彼を垣間見ていたのだ。
それはどうにかして彼についていこうとする
僕の意地だったかもしれないし、
資質から達観せざる得ない彼の悲しさのようなものを
わずかに感じ取っていたからかもしれない。
僕は、原田を「じいさん」と呼べないぶんだけ、
原田のそばにいた。それが独りよがりだとしても。

原田はときどき強く恋に落ち、
その度にそれを周囲へ公言した。
なかばそれは彼の芸風のようになっていたが、
僕はそれがいちいちとんでもなく
真剣なものであるということを知っていた。
中学時代の後半に彼が好きだったのは
Sさんという女の子である。
Sさんの家は僕の家から歩いて2分ほどのところにあった。
原田は、深夜によく僕を誘い出しに訪れた。
もちろん携帯電話なんてなかったから
彼は通りに面した僕の部屋の窓に向かって小石を投げた。
カラン、という音を聞くと僕はすぐに上着を着た。
ガラスを打って屋根へ転がる小石の音を
いまもありありと思い出せる。
人気のない深夜の歩道に落ち合うと、
僕らは寝静まる夜の街をぐるぐると歩いて回った。
そこは山を切り開いてできた坂の多い新興住宅地で、
家々はブロックごとにきちんと並び、
道路は四つ角できちんと直角に交わった。
僕らは適当に角を曲がりながら、
山の中に開かれた新しい街をぐるぐると歩いた。
歩きながら、ずっと話をした。
話しながら、ずっと歩いた。
ときどきSさんの家を見下ろす公園のベンチに座り、
何をするでもなくその部屋の灯りを見ながら話した。
誓って言うが、それはつきまとうような行為とは違う。
なんというか、もっと静かなものだ。
遠くに灯りを見ながら交わす話は必ずしも恋の話ではない。
そうではなくて、僕らはもっと漠然とした、
大きなことについて、静かに強く言葉を交わした。
いくつもの夜にかけて僕らは膨大なやり取りをしたが、
僕はそこで交わされた言葉を
何ひとつここに挙げることができない。
屋根を転げ落ちる小石の音はいまも思い出せるのに、
僕と原田がそこで交わした深い言葉を何も思い出せない。
それは、そこで交わされた言葉によって、
僕という人間の物差しが作られたからではないかと思う。
あのころを記憶し、いまゆっくりとひもときながら、
ここにそれを再現する僕という人間の根幹の何割かは、
あのころ原田と歩きながら話すことによって作られた。
作りかけのテレコが音を記録できないように、
僕はそこで交わされた言葉を何も覚えていない。
夏の日もあったし、冬の日もあった。
汗ばみながら、かじかみながら、
僕らは寝静まる街をぐるぐると歩いて回った。
月の光に照らされながら、
僕の根幹は少しずつ形になっていった。

大きな言葉を強く静かにやり取りしながら
夜の街を歩いて回ることは、やがて周囲へ浸透していった。
僕は所と夜の街を歩き、清水と夜の街を歩いた。
カラン、と窓を打つ小石の音に窓を開けて見下ろすと、
所と清水がふたりして手を振っていることもあった。
歩きながら僕らは言葉を交わし、
交わしながらだんだんと個々の物差しを作っていった。
原田と僕のあいだに生じた夜の儀式は
友人たちのあいだに広がって友人たちを作っていった。
山を切り開いた坂の多い新興住宅街を、
中学生の僕らはずいぶん歩いた。

ヤマキさんが転校してきたのが
中二のことだったか中三のことだったか覚えていない。
ともあれ、彼女は目立った。
なぜなら身長が180センチあった。
そんな女子中学生が学校で目を引かないはずがない。
誰がつけたかあだ名は「ナックル」だった。
その特徴をからかう人間もいたが、
見かけ上、彼女は強かった。
個人的には水面下の葛藤や脆さを予感したけれど、
ヤマキさんは大きな声で話し、
下級生男子の子どもじみた囃し声を笑い飛ばし、
理不尽な教師に食ってかかった。
体格に恵まれながらも彼女の才能は音楽にあった。
彼女は豪快にピアノを弾き、
クラス対抗の合唱ではその声量をいかんなく発揮した。
直接の接点はあまりなかった。
そのころ僕はバスケに夢中だった。
残念ながらレギュラーメンバーには入れなかった。
夏の大会に敗れてすべてが終わったころ、
僕はようやくヤマキさんと接点を持つようになる。

ヤマキさんと原田がバンドを始めたことは
僕らのあいだに新しい文化を導いた。
放課後必ずバスケットシューズに履き替えていた僕らは、
大会を終えた秋にひどく時間を持て余していたのだ。
僕らはめいめいでなんとかなりそうな技術を
ぎりぎりひとつずつ持ち寄って、
継ぎ接ぎだらけの情けないバンドをひとつ作った。
原田とヤマキさんのバンドとは
明らかにレベルが違ったけれど、
やはり僕らは新しい遊びに夢中になった。
実力差はあったが、ふたつのバンドは必然的に結託した。
理不尽な教師に食ってかかったりしながら、
僕らは放課後に集まって熱心に話すようになっていった。

東京から転校してきたヤマキさんは、
中学の終わりに東京へ引っ越していくことになった。
ヤマキさんは僕らの仲間内のひとりを好きになったが、
その恋は叶わなかった。
僕は両者の友人だったから、
それを遠くから何もせずに見ているだけだった。
東京で高校時代を過ごすことになる彼女に向けて、
継ぎ接ぎだらけのバンドはテープを1本送った。
スタジオでがちゃがちゃとした演奏する僕らを録音した、
いまとなっては恥ずかしさのかたまりのようなテープだ。
紛失されていることを僕は願ったが、
やはりヤマキさんはそれを捨てなかった。
夏の大会でバスケは終わり、
ヤマキさんは東京へ移り、
継ぎ接ぎだらけのバンドは継ぎ接ぎだらけのテープを残し、
僕らはそれぞれ別々の高校へ進んだ。

原田が高校時代をどのように過ごしたか僕はよく知らない。
中学の3年間に達観を押し進め続けた彼は、
卒業するころあまり周囲と交わらなくなっていた。
どうしようもない原因のひとつは彼の持病にある。
内臓を病む彼はときどき長く学校を休んだ。
中二のころからバスケ部にも来なくなった。
出会ったころ、原田には周囲と一線を画する達観のほかに
わけのわからない無尽蔵なパワーのようなものがあった。
相変わらず原田は僕らの源流として存在したが、
中学時代が終わるころ、
少なくとも彼の無尽蔵な印象は薄れていた。
それでも僕は原田とときどき会ったが、
多くの高校生がそうであるように、
昔の友だちと連絡を取り合うよりも
いまの友だちと過ごす時間を作ることのほうに切迫された。

高校時代の原田について覚えているのは
よく晴れた日の病室である。
彼が入院した病院は、偶然僕の高校のそばにあった。
病室の窓から自分の高校のグラウンドが小さく見えた。
いま思い浮かぶ遠いグラウンドの風景には
そこで体育の授業を受ける生徒の姿があるから、
そのとき僕は学校をさぼっていたのだろう。
病院での彼に痛々しい印象はまるでない。
少し痩せてはいたけれど原田は相変わらず原田のままだった。
彼は看護婦をからかい、病室に本を持ち込み、
点滴中のタンクをガラガラと引きずりながら
病院の廊下を歩き回っていた。
点滴しながら本屋で立ち読みしていたという目撃例もあった。
いま考えるととんでもない話だ。
何度か見舞いに行ってとりとめもない話をした記憶がある。
何を話したかはやはり覚えていない。

ほんのちょっとだけ、明るい病室の風景に切ない印象がある。
具体的な出来事があったわけではない。
ただ、真昼の日射しに満ちた病室を思い浮かべるとき、
その絵の底にはわずかながら仄暗い色が混じっている。
僕は原田がずっと好きだったSさんと同じ高校に進んでいた。
そしてまったくの偶然から同じクラスになっていた。
原田は僕が進む公立校への受験を失敗していた。
学力に問題があったとはとても思えない。
おそらく長く学校を休んだことが響いたのだろうと思う。
原田はそんなことを口に出さなかったし、
僕も優越感などまったく感じなかったが、
Sさんと同じ町内に住み
Sさんと同じ高校に進み
Sさんと同じクラスになるという自分の境遇に、
やはり僕はほんの少しの後ろめたさを感じていた。
それはきっと、
病室から原田が望む一場面であるのだろうと僕は思った。
窓ガラスの向こうに遠く見える学校のグラウンドに、
僕はすぐにでも帰ることができた。
原田は何も言わなかったが、
僕は近況を語ることがためらわれた。
たった数年が過ぎただけで、
同じ場所から流れ始めた僕らは
互いに違う瀬を進みつつあった。
おそらく、ふたつの流れが
これからもどんどん離れていくのだろうということを、
僕も原田もそのとき
ぼんやりと予感していたのだろうといまは思う。

そして僕らは離ればなれになった。
そもそもつなぎとめるようなものではない。
離ればなれになったのは僕と原田だけではないのだ。
誰に対しても等しく時間は過ぎていって、
多かれ少なかれみんなそれぞれに離ればなれになる。
代わりに新しい関係がつぎつぎにできていって、
夢中になるうちにまた等しく時間が過ぎる。
そもそもそれはつなぎとめるようなものではないのだ。

それぞれに離ればなれになりながら20年近くが過ぎた。
違う場所を流れる僕らを寄せ集めたのは清水だ。
段取り能力に優れる清水はいろんな手段を講じて
それぞれに連絡をとり、ある夏の日に僕らは集まった。
もちろん全員ではなかったけれど、
もっとも近しく過ごした数人と僕は懐かしく再会した。
僕らは年に一度くらい会うようになった。
結婚式に集うこともあったし、
夏の河原に集まって花火を見ることもあった。
離ればなれの果てに
もう一度集まった僕らの関係は意外に強かった。

清水はシステムエンジニアとして府中に住んでいた。
所は地元で居酒屋を始めていた。
中脇は出版関係の仕事に就き、
杉さんは食品会社に勤め、
ユースケは宇宙開発事業団にいた。
僕はゲーム雑誌の編集者となり、
ときどきネットに文章を書いたりもしていた。
そしてネットに僕の名前を見つけたヤマキさんは、
ある日僕へ向けてメールを出したのだ。

「あなたは私の知っている永田クンではありませんか?」
そのメールに僕はすぐ返事を書くべきだったのだ。

いよいよ返事を書こうとしたまさにその日、
清水から届いた短いメールには「訃報」とあった。
要点は一行目に書かれていた。

「昨日、原田が亡くなったそうです」

衝撃は、鈍かった。
何しろそこには長い隔たりがある。
悲しみさえうまく湧いてこなかった。
代わりに混乱が生じた。
どういうことなのか、短いメールからは全貌がつかめなかった。
「申し訳ないが詳細は一切わからない」と清水は続けていた。
連絡は地元に住む所から来たという。
所は居酒屋を訪れた客からその話を聞いたという。
僕は何度もその短いメールを読み直した。

そして、混乱しながら、僕はヤマキさんへの返事を書いた。
20年ぶりに届いたメールに、ようやくのことで返事を書いた。
「僕は、陽気な挨拶を書こうとしていたのです」
そんなふうに僕は書いた。
3週間前にすぐ返事を書いておけば、
僕はそこに陽気な挨拶だけを書くことができたのだ。

ヤマキさんからの返事が来たのは翌日だった。
「いまは、少し落ち着いています──」
メールはそう始まっていた。

彼女は僕のメールで初めてその知らせを受けたらしかった。
受信箱のメール欄に僕の名前を見つけたとき、
とてもうれしかったのだと彼女は強調していた。
だからこそ、その内容の落差に驚いて、
頭がうまく反応できなかったと彼女は書いていた。

彼女は、10日ほど前に、原田と直接電話をしていた。
1時間以上も長電話したのだという。
自分のよく知る原田そのものだったと彼女は書いていた。
そして、続く文章には、
僕の知らない原田のことが書いてあった。

原田は数年前に脳溢血で倒れていた。
左半身に軽い麻痺が残り、
車椅子の生活を続けていたのだという。

彼女は、その電話で、
僕のことを原田に話していた。

ネット上でそれらしき名前を見かけて、
確認を取ろうとしているのだと、
もしもそれが「私たちの知ってる永田クン」だったら
すぐに連絡すると、彼女は原田に話していた。
10日前の、最後の電話で。

メールにはそこでの原田の言葉が引用されていた。
よりによって原田はこう言ったのだ。
「どうしてももう一度永田に会いたい」と。
最後の電話で、何度もそう言ったのだという。

僕は、すぐに返事を書くべきだったのだ。

彼女は、受信箱に僕の名前を見つけたとき、
とてもうれしかったのだという。
「これで、じいさんにいい報告ができる」と、
うれしく思ったのだという。

僕がすぐに返事を書いていたら。
彼女が電話で原田にそれを告げていたら。

最後に、彼女は、
きちんとした連絡が来ないことには
完全にはそれを受け入れられないと書いていた。
それは僕も同じ気持ちだった。
原田なら、病魔すら、運命すら、
どうにかしてくれるような気がしたのだ。
あまりにも身勝手だと自覚しながら、
それでも僕は願うことをやめられなかった。

僕は所へメールを書いた。
どのようにしてどんな情報を得たのか、
そもそもそれは絶対に本当のことなのか、
詳しく教えてくれと僕は書いた。

翌日は土曜日で、ひどく寒い日だった。
ぐずぐずした曇り空で、
ひょっとしたら雪になるかもしれないと僕は思った。
銀座で、同い歳の従姉妹が
ピアノのコンサートを開くことになっていた。
僕は空模様をうかがいながら、
厚手のピーコートをその冬初めて出して着た。
ちょっと寝坊したせいで、
花を買えないかもしれないと僕は焦っていた。

出がけにメールをチェックしたのは、
たいした考えもなく習慣づいた行為からだった。
そこには所からの返事が届いていた。
僕はピーコートを着たままでそのメールを読んだ。

前後に無駄な挨拶のない、
事実だけが書かれたメールだった。
僕らは疑う余地もなく同年齢であるので、
そういった挨拶は必要がないのだ。
綴られた事実は明白に僕へ届いた。

その夜、所の働く店に中学時代からの友人が来て、
「塩を打ってくれ」と頼んだという。
いま通夜に出てきたのだと、
その友人はたしかに言ったのだという。

それが理解された瞬間、僕は何か声に出した。
信じる力だけで無理矢理に張っていた糸が
ぷつりと切れたような気がした。

原田は、もういないのだ。

ほんの数日前に「もう一度会いたい」と言っていた原田に、
僕はもう会えないのだ。挨拶さえできないのだ。
20年ぶりの挨拶をいくら上手に工夫して書いたところで
それはもう原田には届かないのだ。
懐かしい昔話を、彼の知らない20年間の僕を、
どれだけ言葉を尽くして表現したところで
それはもう原田には届かないのだ。

何度も読んで、何度も何度も、
事実だけが書かれたそのメールを読んで、
ここ数日に思い起こされたさまざまな場面が頭をよぎって、
それでもやはり僕は外出しなければならない時間で、
急かされるように僕はコンピューターをシャットダウンした。

そして、目の前の液晶モニターが突然真っ黒になったとき、
眼前に見つめるべき対象をなくした
僕の身体が初めて物理的に反応した。
意識はそのままフラットだったと思う。
けれども、横隔膜がどうしようもなく痙攣を始めた。
思考はそのままなのに、涙がつぎつぎと落ちた。
その冬初めて着たピーコートの袖に額を押しつけて、
意図せず僕はしばらく泣いた。

銀座へ向かう地下鉄の中で、もう一度だけ泣いた。
窓の向こうに流れるコンクリートの壁を見ていたら、
じわじわと涙が出た。みっともないからハンカチで覆った。

道すがら、運よく花屋を見つけたので、
僕は同い歳の従姉妹に贈る花束を買った。
受付のところに叔母さんがいて、
僕の姿を見つけると「来るなら連絡なさいよ」と笑った。
僕は花束を持って、中規模なホールの後ろの席に座った。

同い歳の従姉妹は相変わらず綺麗だった。
きらびやかだが嫌みのないドレスを着て、
曲と曲のあいだには感じのよいおしゃべりをした。
大きなホールで演奏するよりも、
これくらいの規模の場所で
お客さんを感じながら弾くほうが好きだと、
同い歳の従姉妹はそう言っていた。

彼女はドビュッシーの『月の光』という曲を紹介した。
マイクの電源を切って傍らに置くと、
ちょっと座り直して自分なりの短い静寂を作った。
背筋を伸ばし、鍵盤に指を置き、やや集中したあと、
ピアニストは軽く息を飲んで最初の音を鳴らした。
僕はその曲名を知らなかったけれど、
彼女がつむぎ始めた旋律には聞き覚えがあった。

静かで、ゆったりとした盛り上がりのある、
強くて透明な音の像がホールの中空に満ちていく。
ひとつひとつ関係づけられた自由な音が
結果的になだらかな段になってどこかへ移動していく。
同い歳の従姉妹が奏でる綺麗な旋律に耳を傾けながら、
僕は考えていた。

僕は彼のことを考え、彼と歩いた夜のことを考え、
彼が僕の部屋の窓に投げた小石のことを考えた。
窓を打ち屋根に転がる小石はあれからどうなっただろうか。

同い歳の従姉妹のつむぐピアノの螺旋に身を委ねながら、
僕は僕らをつないだ小石のことを、
ぼんやりと考えていた。





2002/12/6.7.8    自宅、銀座

2002-12-19-THU

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