NAGATA
怪録テレコマン!
hiromixの次に、
永田ソフトの時代が来るか来ないか?!

第52回 メガネの小学生と大きな本

九段下の駅で半蔵門線に乗り換えて、
空いた席に座り文庫本を読んでいた。
しばらくあってどこかの駅に着いたとき、
乗り込んで来た小学生が僕の右横の席に座った。

彼はどかっと僕の隣に座るやいなや、
小さな身体に不釣り合いな
大きくて厚い本をがばっと開いた。
開いた本の余白に茶色い染みがついている。
チョコレートかなんかの汚れに見えた。
彼が体勢を整えて本を持つと、
左手の親指の先が茶色い染みにぴったりと重なった。
口をくちゃくちゃさせているところを見ると、
やはりチョコレートだろう。

視界の端でとらえるだけで、
その本がなんなのかすぐに察しがついた。
『ハリー・ポッター』だ。
先日出たばかりのシリーズ4作目だろう。
僕はまだ読んでいない。

好奇心からちらとページをのぞくと、
ところどころの文字が太く印字された
特有の字の並びが見えた。
やはりそうだ。

彼は熱心に文字を追っていて僕の視線には気づかない。
というよりも、横の男の視線などは意識の埒外にある。
横目でページをさっと眺めると
そこに「クィディッチ」の文字が見て取れた。
没頭するのも無理はないな、と僕は感じた。
クィディッチは本の中に登場するスポーツで、
箒にまたがるハリーが活躍するその場面の描写は
シリーズで必ず読み手をひきつける
ハイライトのひとつとしてある。

僕はそのままの視線で彼の風貌を追った。
彼が座席にひどく浅く腰掛けているのは、
背中に背負ったランドセルのためである。
黄色い帽子をかぶっていて、
そこには小さな桃色のワッペンが縫いつけられている。
菱形のワッペンをさらに見ると梅の花の刺繍がある。
もちろん彼は本に夢中だ。
夢中な彼のいちばんの特徴はそのメガネだ。
黒い縁のメガネをかける彼にとって、
ハリーは至極移入しやすいヒーローと映るのだろうか。
その時期に『ハリー・ポッター』と出会えることを
僕はちょっとうらやましく思った。

英国で魔法使いの活躍する小説が大ヒットしていると聞いて、
僕はその1作目を読んだ。
当時から話題になってはいたけれど、
いまほどセンセーショナルな扱いを
受けてはいなかったように思う。
1作目を読んでの感想は
「なるほどこりゃおもしろいな」という程度のものだった。
ところが2作目で俄然心を奪われた。
3作目は発売されてすぐに読んだ。
先日出た4作目に至っては、
僕は逆にゆったりとした気分になった。
読むに決まっているのだから、
すぐに買わなくともよかろうというくらい
僕はこのシリーズに信頼を寄せていたのだ。

東京の地下を走る電車の中で
横に座るメガネの彼は微動だにしない。
浅く腰掛け、熱心に活字を追い、素早くページを繰り、
ときどき慌てて前のページに戻り、
ときどき熱心に鼻くそをほじる。
鼓動が本に支配されているのが手に取るようにわかる。

電車が渋谷の駅に差し掛かったとき、
メガネの彼は弾かれたように目を上げて身をよじり、
背後のホームへ目を走らせた。
乗り過ごしたかと感じたのだろう。
しかしどうやら降りる駅はまだ先だったようで
彼はほっとしたように視線を本へ戻そうとした。
そのときに、
僕は彼の左肩をちょちょいと突いて「なあ」と言った。
彼はメガネの奥から驚いたような目で僕を見た。
「おもしろい?」
僕はあごで彼の膝にある本を指して言った。
「あ、はい」と彼は言った。
ありがと、と僕が短くうなずくと、
メガネの彼はしばらくきょとんとしていたが、
やがてまた本へ戻っていった。

つぎの池尻大橋の駅に着くと、
メガネの彼は大きくて厚い本を持ったまま
すっくと立ち上がった。
視線は本からまったく動かない。
胸のあたりで大きな本を身体と平行に持ったまま、
彼はドアのほうへためらわず真っ直ぐに歩いた。
そして開くドアを待ちながら続きを読み、
ぷしゅっとドアが開く瞬間、
本を持つ両の手首を同時にくるりとひねって
本の外側に垂れている栞のひもを
読んでいるページのあいだへ呼び寄せた。
ひもは綺麗な回転でページの上へ落ち、
彼はその魔法使いの本をぱたんと閉じて
混雑するホームへ颯爽と出ていった。

お見事、と僕は思った。

彼と交わした短いやり取りとその光景は
回るテープではなくて僕に刻まれた。
それがテレコマンの域に含まれるかどうか心配だけれど
印象的だったので書いてみることにした。




2002/10/30      半蔵門線

2002-11-08-FRI

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