ダ・ヴィンチ×ほぼ日刊イトイ新聞 共同企画 中島みゆきさんとの、遊び時間。 『真夜中の動物園』をめぐる120分。
その13 それは絶望ではない。
── 今回のアルバム、
「それにしても、こんな絶望的なことを‥‥」
と思ったところもありましたけれども。
中島 えーっ、そうっすか? そうっすか?
どっか絶望しました?
けっこうポジティブだと思ったんですけどね。
糸井 それは逆に、ちょっと参考までに
聞かせてください。
── 「負けんもんね」の
「失えば その分の 何か恵みがあるのかと
 つい思う期待のあさましさ」
というところなんて‥‥
失った分、何かを得るんだという発想が、
人間が生きていくうえで、
最後の救いのような気がするんです。
中島 いやいや。
見返りを期待しないところから、
世界は開けるんじゃないんですか。
── それでも頑張れって言うから、
すごいな、そこまで言うんだと思って。
糸井 ぼくはもっと稚拙に、
同じテーマの歌を作っていますよ。
「さんざんなめにあっても!」っていう(笑)。
中島 まんまですね、はい。
糸井 それは亡くなった
忌野清志郎が歌ったんですけど、
清志郎の歌って甘えん坊だから、
「君」がいるんですよ、いつも。
君さえいればどんなめにあったって大丈夫、
って、それはのろけじゃないか?
と前から思ってて。
ぼくは、彼女がいるって、
「全部がある」ってことじゃんと思ったから。
だからぼくは、そういうのもいないという歌を
清志郎に歌わせたかったので作ったんです。
本人はぴんと来てなかったかもしれないけれど。
で「さんざんなめにあっても!」なんだけど、
さんざんなめにあったからって
それはしょせんそう考えてるだけなんですよね。
今ここに生を与えられたあなたというのは
考えてるあなたよりも大きいし強いし、
みたいな気がするんですよ。
だからぼくはぜんぜん絶望じゃないと思いますよ。
中島 絶望的に見えるって、
今までのいろんな曲でも
言われることは、ままあるんですよね。
それ以上のものを信じることができれば、
それは些細な絶望じゃないですか。
糸井 おお、パチパチパチパチ(拍手)。
我が意を得たり!(笑)
うちの子はね、そういうね(笑)。
中島 お父さん、ありがとう(笑)。
糸井 要するに、悪いことが重なりました、
でも、そのぶんだけいいことがありました、
っていうのは、
悪いことといいことに、価値だとか、
分量があるという発想なんですよ。
だから「ちょっと悪いこと」があって、
「ちょっといいこと」があったっていうときに、
「もっといいこと」に対しては
「大したことないんですよね」になる。
つまり相対的な価値なんです。
そうじゃなくて、いいことだの悪いことだの、
価値なんかも全然関係ないところに存在する
“なにか”っていう、
素晴らしいとさえ言わなくてもいい、
「だって“いる”んだもん」っていう。
幸と不幸は、出世合戦の中に
取り込まれちゃうんですよ。
そんなの、関係ない、うちの子は。
中島 あはははは、小さいことよ、小さいこと。
糸井 係長より課長が、とかっていうような
順列の中に幸せはない。
きっといいことがあるさって言っても、
なくてもいいじゃないか。
それはね、死にそうな人に
そんなことは言えないよ。
でも、とんでもない目に遭っている人って、
物理的になにか力関係でなっているわけで。
本質としては、俺はゼロのものっていうか、
それは否定されるものでも、
肯定されるものでもなくて、
“ある”んだからいいじゃんっていうものだと
思いますけどね。
みゆきさんの歌は、ずーっとそのことを歌ってる。
「小さき負傷者たちの為に」という歌があるでしょ。
それも、両側のことを言って、
同じにバランスを、どっちとかじゃねーよみたいな。
こっちの味方ですよとも言ってないんですよね。
そこでそういう人がいるんだったら、
とりあえず私は今、
「小さき負傷者たちの為に」って言いましょうと。
だから大きさとか順列みたいなものを
スーッと壊せているっていうのが気持ちいいなぁ。
中島 (だまって、じっと聞いている)
糸井 吉本隆明さんの、お墓の話っていうのがあってさ。
自分の家のお兄さんは電気屋さんで、
電気屋さんのお兄さんと、その息子さんと一緒に、
電気屋さん協会の会長みたいな人と
お墓参りに行ったときに、お兄さんの息子が
「ちっちぇえお墓だなぁ」って言ったと。
そうしたら、お兄さんの尊敬している
電気屋さん協会の会長という人が
「坊やね、お墓は小さいほどいいんだよ」
って言ったっていうんだよ。
それを、そこにいた吉本さんが、
兄貴があの人を好きな理由は、
こういうことを言える人だからだなと
思ったっていう話があってさ。
「お墓は小さいほどいいんだよ」
っていうのを、スッと子供に言える。
小さいほどっていうことを、
ちょっと抑揚は付けているけど、
大きいに対する小さいが立派だって
言っているんじゃなくて、
すごいでしょう。
だからそういうカッコよさをさ、
詩人達って持っててさ。
うちの子もね。
中島 親もね(笑)。
── じゃあ、ぼくらがかっこいいなと思う
言葉や歌というのは、そういうものが、
どこかでふっと鼻先をかすめるから、
そう思うんでしょうか。
中島 そうかもしれないですね。
書いてあること自体は、
大したこと書いていないですからね。
私は書ききれたと思いませんもん。
「さあ、100パーセント書ききれた、
 わかるもんならわかってみろ」っていうのは、
一回もないもんね、まだ残念ながら。
「書ききれなかったけど、けど実は、
 ほらほら、だから、そこのさ」
っていうところを、
聴く人や読む人が持っていて、
「あれだな」ってわかるから、
楽しいんじゃないんですか。
そこのところを評論家の人は
こうだって決めて書くわけですよね。
糸井 みゆきさんは問いかけのほうに
興味があるんじゃない?
こうだよって答えること以上に、
「なに?」っていうときの
発見のほうが面白いんじゃない?
中島 フフフフフフ、うんうんうん。
糸井 それは自分もそうだけど。
中島 で、散らかっちゃうんですね、どんどん。
他の人が一所懸命、
答えを出してくれていたりなんかして、
その出た答えを見て、
こっちがビックリしちゃったりして。
「この曲はこういうことを書いた曲なのである」
って書かれたりして、
「へー、知らなかったなぁ〜」みたいな。
そういういろんな解釈されますでしょ。
で、論みたいなのを書かれるでしょう。
糸井 ぼくはないですよ。ぼくはだって、
仕事があやふやにできる場所が少ないですもん。
どこか機能の中で仕事をやっている。
「よくわかります」とか言われたい人だから。
中島 あははは、「よくわかります」。
糸井 でもみゆきさんは、
どう転がるんだろうっていう、
不定形なものを
転がしていっているような仕事だから、
それはもう、その性格が向いていますよね。
「その解釈はやめて」とか言わないもの。
中島 なるほどね、だから完成しないのねぇ。
糸井 評論家の人は、もっとみんなが遊べるように、
膨らませたり、広げたり、
転がしたりしてくれたら嬉しいですよね
お母さん。さっきちょっと娘でしたけど、
お母さん(笑)。
中島 そのうちおばあちゃんにもなりますからね。
糸井 声色を変えますからね。
中島 オホホホホ。

(つづきます)
2010-10-29-FRI
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