第5回 映画監督として。
糸井 『ザ・マジックアワー』のように
脚本家と監督を両方やるときは
どっちのほうにウェイトがかかるんですか?
三谷 うーん‥‥じつは、脚本家と監督って、
もう、分けられなくなってきてるんですよ。
現場で撮影をしているときに
決定稿ができあがっていくみたいな感じなんです。
もちろん、事前に台本を書き上げて、
それをもとにみなさんが演技をするんですけど、
現場で化学変化みたいなことが起こって、
どんどんよくなることもあれば、
思ったほどうまくいかないときもある。
それを見ながら僕が整理して、
ほかのことばに直していく、
というような作業を続けていくと、
できあがったものを観たときに、
そこに流れているセリフは
脚本家が書いたセリフではあるんですけど、
7割くらいは現場でつくっている
というような感覚があるんです。
糸井 あああ、なるほど、なるほど。
三谷 だから、じつは、脚本家としては、
自分で演出をする、監督をやるっていうことは
決していいことじゃないような気がするんです。
つまり、どんどん雑になっていく。
糸井 脚本が。
三谷 ええ。最初の本が。
糸井 雑になっていくというか、
ゆるくなっていくんですね。
三谷 ゆるくなりますね。
糸井 でも、それは脚本家にとっても
いいストレッチになるんじゃないですかね。
大づかみには作れるようになりますよね。
三谷 ええ。それで、できることはできるんです。
実際、舞台の脚本を書いているときなんかは、
もっとゆるかったりするんです。
「稽古でつくっていけばいい」って思ってるから、
自分が演出するときなんかは、
「現場で口で言えばいいや」みたいな感じで
ト書きも書かなかったりするんです。
だから、結果的にできたものがよければ
なんの問題もないんですけど、
一脚本家として考えると、あまりよくないですね。
糸井 でも、4作目ということで、
だんだん慣れてきてはいるんじゃないですか。
その、ふたり組としての自分の役割に。
三谷 そうなんです。
やっとコンビネーションが
うまくできてきた感じはちょっとしますね。
糸井 それは、どっちの自分が
うまくなってきたんでしょうね。
やっぱり、監督でしょうか。
三谷 そうですね‥‥。
やっと、もう、遅いぐらいなんですけど、
監督をするというのがどういうことなのか、
おぼろげながら見えてきた感じなんです。
糸井 ほぅ。
三谷 つまり、監督というのは、
ぜんぶを決めなきゃいけないんです。
単にアングルを決めるとか
芝居をつけるとかっていうことだけではなく、
映っているもの、全部。
役者さんの髪型から衣装から、
腰掛ける位置の深さまで。
そういうところこそがセンスというか、
監督に求められるものなんだなって。
糸井 うん、うん。
三谷 これは、このあいだ、『BRUTUS』の記事で
立川談志師匠とお会いしたときに出た話なんですが、
エルンスト・ルビッチっていう映画監督の
『生活の設計』という昔の映画があるんです。
いま観るとちょっと古いコメディなんですけど、
すごく品があって、おもしろいんですよ。
で、この映画のなにがいいのかと思ったときに
象徴的な場面がひとつあって、それは
主人公の好きな人が自分の部屋にやってくる
という場面なんですけど、
ドキドキしながら待っているとノックの音がして、
「あ、来た」と思ってドアを開けると
そこに知らない子どもが立っているんです。
その、子どもの身長がすごくちょうどいいんです。
糸井 なるほど(笑)。
三谷 あれ以上、小さすぎてもダメだし、
大きすぎてもおもしろくない。
あれ、たまたまそこにいた子どもを
使ったわけじゃないと僕は思うんです。
オーディションしたのがどうかわかんないけども、
もっというと意識的にやったのか
無意識にそうしたのかわかんないんですけど、
やっぱり「ベストな背の高さ」の子どもを
選んでそこに立たせていると思うんです。
それを選ぶのが監督の仕事というか、
センスなんだなというのが、ようやく、
なんかちょっとわかってきたんです。
糸井 そういうことを、三谷さんは、
「脚本ということばの中においては」
すでに散々やってきたはずだと思うんです。
たとえば、ある人物がしゃべるセリフの助詞が
「なぜ『が』じゃなくて『は』なのか」
というようなことは、
その古い映画の中の子どもの背の高さのように、
もう、当たり前に、選んできた。
三谷 そうですね。
糸井 で、そういうことばの仕事をしているときは、
「子どもの、ぴったりの背の高さ」ということには
逆に、目を向けちゃダメだと思うんですね。
つまり、「うわ、ちょうどいい子どもが
いなかったらたいへんじゃん!」って思いながら
脚本を書くわけにはいかないから。
だから、そういうことには目を閉じて書いてきた。
ところが、監督を何回かこなしてみたら、
いままで目を向けないようにしていたことが、
散々選んできたことばのひとつひとつみたいに
見えてきたということなんじゃないかな。
三谷 そうですね。そういう意味では、
舞台と映画比べてると、
映画のほうがはるかに多弁なんですよね。
もう、ことばにあふれてますから。
糸井 そうですね。
三谷 だから、
決めなきゃいけないことがたくさんあるぶん、
間違いやすいというか
間違う選択肢もたくさんある。
でも、その意味では、今回の映画で、
ちょっと自分を信じられるようになった
というのはありますね。
糸井 ああ、いいですね。
三谷 あの、僕は本当に、自分が映画監督として
才能があるっていうふうにずっと思ってなくて、
むしろ、ないと思ってたぐらいなんです。
それはやっぱり、映画は大好きで
ずっと観てたんですけども、
やっぱり脚本家として観てしまうので、
「あ、この伏線の張り方はおもしろいな」とか
「この脚本はよくできてるな」
という見方はするけれども、
「この演出はすごいな」とか、
「このカット割り、このアングルはいいな」
っていうふうには観たことがなかったので、
自分で映画を撮るときも、もう本当に、
脚本を素直に映像化することが
自分の仕事だとしか思ってなかった。
糸井 なるほど。
三谷 だから、
「なんて自分はアングルの
 見つけ方がヘタなんだろう」とか、
現場を引っ張っていくという意味でも
「監督として、なんて不的確なんだろう」
というようなことばっかりで、
それは、いまだにそうなんです。
ただ、自分が意識して、あるいは無意識に、
なにか細かいことを選んでいく部分。
それは結果的にその映画が豊かになっていくことに
つながっていく細かい選択だと思うんですけど、
その選択については間違えてないと思ったんです。
AとBのうちのAを選んだとか、
この色を選んだとか、この帽子を選んだとか、
そういう細かいことに関していうと、
僕は間違えていない。
少なくとも自分にはそう思えた。
だとしたら、ひょっとしたら僕は映画監督として
大丈夫なんじゃないかっていうことを
はじめて思ったわけなんですね。
糸井 なるほど、なるほど。
三谷 もちろん、それ以外のいろんなこと、
ずっと僕がダメだなと思ってたことは
いまだにダメなんですけども、
でも、それだけじゃないんだってことが
ちょっとわかっただけでも、
この映画をやってよかったなって気はしますね。
(続きます!)

2008-06-12-THU



(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN