Yeah!Yeah!Yeah!
マイクロソフトの
古川会長がやってきた。

7

糸井 ネット社会というのは「仮想」の空間ですよね。
その仮想の空間というのは、
「隣」に全部が入っている空間ですよね。
仮想の映画館の隣はお菓子屋かもしれないし、
寄席かもしれないし、焼き芋屋かもしれないけれども。
そこって、何に似ているのかというと、
「都会」に似ているんだと思うんですよ。
ネットにつないであれば、
どこにいても「都会」に出られる。
誰だって、都会がいいんですよ。
これはね、どんなに「自然がいい!」という人でも、
本当に趣味の人は別としてね、
何かを得たいと思ったときに、
隣にその「何か」があるということは理想なんです。
その意味では、ネット空間というのは、
ぼくは「ものすごいものが出来たな」って思ったんです。

でも、同時に、都会そのものにずっといたら息が詰まる。
だから、スイッチひとつで入れ替えが出来る自由、
それがいちばん重要なんじゃないかと思うんです。
その意味で、前に話していただいた、
複数の家庭電化製品をひとつで制御できる
新しいデバイスの話ですが、それは
「もっと、都会ができますよ」
ということなんですよね。
おジイさんになると田舎に引っ込んでしまい、
都会に出てこられない、という人たちに対して、
「おジイちゃん、隣は牛が啼いてても都会なんだよ」
っていう空間を作れるというのは、やっぱり、
すごいことなんですよ。
歳をとったときの恐怖は、孤独になっていくことだと
思うんです。80になることは怖くないんだけど、
友達がどんどん死んでいくだとか、
誰も相手をしてくれなくなるだとか、
ひとりぼっちになっちゃうことを考えると、
都会の真ん中に暮らしている老人のほうが
イキイキしてたりするんですよ。
ネットではそれができるんだ、というのが、すごく面白い。
古川 自分自身が、他の業界にいる方と
お近づきになるってことは、
ネットワークができるまで、なかったですね。
糸井 なかったですね。
古川 以前、坂本龍一さんとお食事したあとに、
あの人もオチャメな人だから、
西麻布のレストラン出た路上で、
ハグッ、とされて(笑)。
糸井 胸板が厚くて、両方とも(笑)。
古川 クラクラっとしてしまったりして(笑)。
そのときにね、
「僕は40過ぎて友達が出来るとは思わなかったよ」
って言うんですよ。
いやぁ、坂本さんにそこまで言われるなんて、
「僕、死んでもついて行きます!」
っていうくらいの状態で。
たとえば、自分でも、30なり40なりに
なってきたときに、中学高校の時に出会った人間と、
遊びまくったり、殴り合いの喧嘩をしたりというなかで
築き上げたと同じレベルの友達というのは、
仕事を通じてのなかで急にできるものでもない。
ある程度オトナになってしまうと、
お互いの立場とか年齢だとか、
どういう世界観を持っているかとか、
そういうことから抜け出して本音で語ることは
なかなか難しくなってしまいますね。
ところが、仕事を通じていろいろ会話をしていくなかで
お互いの人間としての本質がわかってきて、
それは単にうわべでつきあっているだけじゃなくて、
お互いの痛みだとか喜びだとかが
ある程度共有できるようなことを
なんとなく繰り返しながら、なおかつ会って、
いろいろなイベントの協力をしたり、
一緒に食事をしたりするようになる。
そのきっかけそのものが、
実はネットを使ってできるようになった、と。
最後に坂本さんにそういう言葉をいただいたときに、
「たしかに、ネットワークがなかったら、
こうしてレストランの前でハグしてる、
なんてことはなかったわけだよなあ」
と。坂本さんの
「40過ぎて友達が出来るとは」、
というのは、最高にうれしい言葉だったし。
今回の糸井さんとの対談のきっかけにしても……。
糸井 偶然、みたいなものなんですよねぇ。
僕は、Mさん(コンピュータニュース社)に会うのも
初めてなんですから、今日が。
信じられないですよね。
古川 お互いの帰属している社会だとか、年齢だとか、
性別だとか、そういうものを一切無視して、
距離が一瞬、縮まるっていう面白さですね。
糸井 この間、ビデオになってから『ユー・ガット・メール』
を見ていて、泣いたんですよ。何故かというと、
主人公どうし、じかに会っているときは敵なんですよね。
でもメールの中では味方同士なんです。
やっぱり素敵だなあと思ったセリフは、
「あなただったらいいのにと、思ってた」
っていう……ああ、泣けてくるなあ。
古川 分かるなぁ…..その気持ち。
糸井 どっちも本当で、できたら現実を優先したいものだと
思っているのが、人間だと思うんです。
“ひとりシラノ・ド・ベルジュラック”なんですよ。
あの映画って。
「あなただったら……」
って言ったところで、とくにあの二人に
共感したわけじゃないのに、
「うわぁ、重なった!」
っていう瞬間の快感が、ものすごくあって。
軽〜い映画なんだけれど、
「これだよな……!」
って思ったんですよ。
古川 昔だったら、
「夢なら覚めないで」
っていう言葉がありましたね。
ネットワークのなかでは、現実が、
実は半分夢の中に入っている。だから、
ネットワークのなかでは“覚めない夢”も
あるんだけれど。
糸井 そうなんですよね。
そしてそのまま、“仮想の彼”っていうのは、
お蔵入りしたんですよね、早い話が。
その“仮想の彼”のやさしさを持っている
現実のナントカさんは、
同時に、私をいじめた人である、と。
あの映画の主人公は、その両方を
一気に受け入れられるっていうのが、
やっぱりね、カッコよかったんですよ。
あれをアメリカはもう映画に出来る、ということは、
あれを理解する客はものすごく多い、ということですよね。
あそこまで進んでいる。
で、いまはまだ、「メールでホンネが言える」だとか
言っているうちはまだダメで、
本当は現物がすごい。
「このオッサンのクソッタレぶりは!」
って言いながらも好きだ、というところに
現実社会はあるわけで。
そこのところまで両方の世界が
言ったり来たりできないとダメなんだな。
僕の言っている「インターネットではユーモアがなくなる」
というようなことも、過渡期のダメなところを
僕は体験している時期だと思うんですよ。
この次がどうなるかな、というのが、
とても面白いと思っているんです。
古川 なるほど。
糸井 もうひとつは、ちょっと話がそれるんですが、
「ほぼ日」と同時に、定期的にやっている仕事が
週刊プレイボーイの吉本隆明さんインタビューなんです。
そのなかで、デジタル社会について、吉本さんが
周囲の人に呼ばれて、学会みたいなところに何度か
出たらしいんだけれど、
「全部ダメだ」って言うんです。
学者さんたち、とくに、情報科学系の人達は
全部ダメだ、っていうんですね。
「糸井さんのほうがずっと進んでる」と言うので、
おだてられているのかと思ったんだけど、
話を聞いたらよくわかった。

理由は何か、ものすごくつきつめて
早く言っちゃうと、学者さんたちは
「大脳が社会だ」と思っているということなんですね。
ネットワークだとかマルチメディア、デジタル、
ぜんぶそうだけれど、五感の延長線上として
発達していく、というのは確かなんですよ。
それは、「感覚が研ぎ澄まされていく」
「感覚で得られる情報が増えていく」というところまでは
同じなんだけれど、人間の魂とか精神というものに
「影響がある」と思っているところがバカだ、
というんですよ。
つまり、フランス語的に言うと「魂」の部分、
日本語的に言うと「こころ」。
そういう部分っていうのは、変わらないんだ、と。
その構造というのは、すでに、4世紀までに終わってる。
つまり、人間が、生きて、死んでいく間に、
何を考え、何を疑問に思うかということの
ベースのところは、国が成立したころに、
「これ以上考えてもしょうがない」
というところまで、行ってる。
だけど、そのあと、住んでいく社会をつくるための
「細目(さいもく)」はどんどん増えていった。
「細目」をやりとりしたり便利にしたりするための
ルールはたくさん増えていったから、古代国家の成立から
あとに出現したいろんな偉人・怪人、
……アインシュタインもいるし、ナポレオンもいるけど、
あれはぜんぶ「枝葉だ」っていうんですよ。
要するに「人はどう生きたらいいのか」っていう
「魂」の問題は、なんにもかわっていない。
で、証拠に、人の体は変わっていない、っていうんですよ。
これは今の吉本さんが一番面白がっていることなんだけど、
「感情は内臓だ」
っていう理論があって。一番単純に言っちゃえば
風邪をひいているときには機嫌が悪くて、
何かものを考えるというときの優先順位が、
大脳は下がりますよね。プライオリティでは、
「いま、気分が悪いから、あとね」
っていうのが先になる。
早い話が、食物を得て自分が生きて、排泄して子を産んで、
っていう「生物としての人間」というのが、
一番に来るに決まってる。そこのところで
「どういう人を好きになるか」とか
「どういうふうに生きていくことを格好いいと思うか、
立派だと思うか」そういう部分はもう終わってるんで。
感覚がどんなに発達しても、精神の部分は変わらないんだ、
本当は違う世界なんだ、ということなのに、
情報科学系の人は、「心が変わる」と
思っているところが、大間違いなんです。
心を変える部分というのは、それこそある意味では
小説かもしれないし映画かもしれないし、ただ単に
人と人との出会いかもしれない。そういう部分なんです。
政治も何も、何にも人なんか変えられなくて、
実は、極端に言うと、隣の人がとってもいい人だった、
ということで、その人の一生はハッピーだったりする。
親が良かった、とかね。そっちのほうを変えられる、
なんて思うような人達に、任せちゃおけねえ、
っていうのを、吉本さんはおっしゃるんです。
古川 うん、うん。
糸井 吉本さんから順番に話を聞いて、
俺がずっと思ってきたことはそれなんだよなあ、って。
つまりね、寂しくない都会の中に出ていく、という力は
ネットにある。そこで「今見たい」だとか
「これ好きだなあ」っていうものを選ぶことはできる。
でもいつでもつくっている人間の、
「かたわ」な気持ちが、ぶつかりあうから、
いろんな人がいるなあとか、
こんなヤなこと考える人がいるっていうことを含めて、
人と人とが「生きててよかった」って思うわけで。
感覚が鋭敏になったからと言って、
「生きててよかった」って思うことは、ひとつもない。
これはね、僕に軸が出来た、って気がして。
俺がやるべきものは、ますます、不細工で心に響くものに
すべきだなあ、と。そのためにどうしたらいいのかと
いうことについては、いっぱいシステムがあるだろうし、
たくさんいろんな人に話を聞かなきゃいけないけど、
早い話がそこだよなあ。
で、……長くなっちゃってすいません(笑)。
古川 いえいえ。
糸井 吉本さんがそういうことを思うきっかけは
何だったのか、という説明を、
問わず語りにしてくださったんですよ。
吉本さんが小学校の時に、友達で、野球とかやってた
暴れん坊の中に、キャッチャーやってた人がいたんです。
近所の悪ガキなわけですよ。
面倒見が良くてスポーツマンで、勉強はできないんですが、
本当にコイツはいいやつだ、ってのがいて。
そいつがね、大人になってから、いい職場でいい仕事、
してないんですって。吉本さんっていう、
人から世界の大思想家っていわれるような人が、
「自分より立派な人だ」っていう気持ちで
見てたらしいんですよ。
その人が、いい場所に処遇がない、っていうことについて、
痛いんですね。吉本さんの心が。
似たようなことをヘンリー・ミラーが書いているんですよ。
郵便配達になった友達のことを書いている。
おんなじような気持ちだと思うんだけど、
こんな野郎が、っていうようなやつが、
たまたま算数が出来て、数学者になって偉そうにしてたり。
たまたま家が医者だったやつが、医者を継いでたり、
教授でございます、政治家でございます、って……。
みんな、ぜんぜん立派なやつなんかじゃなかった。

でも、自分の思う一番立派なやつっていうのが、
隅っこにおいやられてしまうということについての
ベースになる痛みっていうのが、吉本さんに
そういうことを考えさせるきっかけだったらしいんですね。
僕らが、大脳を武器にして、
大脳戦争をしているじゃないですか。
代理戦争じゃなくて大脳戦争。
そのなかで、多少勉強ができたやつが多少知識があって、
「これとこれを組み合わせてこうした」って言っても、
エラそうにするんじゃねえよ、って。
あのキャッチャーやってたあいつのほうが、
よっぽど立派なんだよ、っていう気持ちが、
僕にもあるんですよ。
好きなやつは馬鹿でもいいしね。
おまえ、がんばってくれよ、っていうやつっていうのは、
今の社会では、ダメなんですよね。
そこのところに、なにか、カギがあると思うんですよ。

(つづく)

1999-10-21-THU

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