サムライ闘牛士登場?!
スペインに闘牛士になりに行った男。
ピカソに『ゲルニカ』を描かせ、
ヘミングウェイに『日はまた昇る』を描かせた闘牛。
闘牛って、なんで、情熱的な人を次々に吸いよせるの?

日本人も、観に行く人はいっぱいいますが、
闘牛士になろうと海を渡った人の話は、あまり聞かない。
でも、いたんです、そういう人が!
「テレビを見たら、いても立ってもいられなくなって…」
現在、見習闘牛士としてスペインで活躍中の濃野平さん。

日本人初のマタドール・デ・トロス(正闘牛士)を目指す、
情熱的でハンサムな濃野さんに、闘牛を語ってもらいます!


第1回 28歳の出発。

皆さん、はじめまして!

僕はスペインのアンダルシア地方、
セビリアのお隣りにあるウエルバ県ウエルバ市で、
闘牛士の最高峰クラスである
マタドール・デ・トロス(正闘牛士)を目指している
「濃野平」といいます。

現在は3つあるプロ闘牛士のクラスの最下級である
ノビジェロ・シン・ピカドール(見習闘牛士)
という身分で、毎日修行にはげんでおります。

さて「闘牛」といいますと、
誰もがテレビなどで一度は目になさったりして、
なんとなくイメージ位は浮かびそうなものですが、
誰も詳しくは知らなかったりする・・・
いわゆるスペイン闘牛はスペインの他、
南フランスの一部、メキシコ、コロンビア、
べネスエラ、ペルー、エクアドールなどの
ラテン・アメリカ諸国の国々でも行われているものの、
世界中のどこでもやっているものではありませんから、
当然ながら日本では
かなりマイナーなものになってしまいますよね。

この闘牛という特殊な見世物は、
スペイン人にとっていわゆる
スポーツのようなものでは決してなく、
格式を持った伝統的な芸能・・・
スペインの国教であるカトリックの影響まで受けた
舞台芸術のひとつとして受けとめられております。
だから、新聞のスポーツ欄などで
昨日の闘牛がどうのこうのと
論じられることはありません。
ちゃんと 「文化」欄とか「闘牛」欄で
取り上げられる
のです。
「国民的祝祭」ともいわれております。

スペイン一般の事柄ならともかくも、
日本にはないこの「闘牛」というものに
特別な関心を持つ日本人は
やはり、かなりの少数派となってしまうでしょうし、
さらに一歩進んで
「自分でやりたいな!闘牛士になろう!」
と思う人は一層少なくなってしまうのは
当然のことなのかも知れませんね。

プロの闘牛士として
過去にデビューなさった日本人は、
僕以前に二人だけ。
日本人として正闘牛士である
マタドール・デ・トロスに到達なされた方は
未だいらっしゃいません。

僕の夢、目的のひとつは
史上初の日本人正闘牛士となることです。

僕が初めて闘牛に興味を持ったのは、
たまたま日本のテレビの
バラエテイー番組か何かで観た闘牛のシーンでした。
ほんの数分の短いものでしたが、
僕には衝撃的なものだったんです。

10代の頃、思うところあって
数年間程クラシック・バレエに夢中になり、
アマチュアでありながらも
毎日練習していたことがあったのですが
(そういえばバレエも
 何気にテレビでちらっと観ただけで
 急にやりたくなってしまったのでした・・・
 すいません!笑)

諸事情でバレエをやめてしまった後に
それまでの生きがい、
夢中になれるものを失ってしまった僕は
空ろな毎日を過ごしていたのです・・・
もちろん「贅沢」な事なのかも知れませんけど、
僕はその後、ずっと探し求めておりました。
真に自分を満たしてくれるものを。

他には何もなくても良い、
自分のすべてを捧げても後悔しない位の何かを。


で、そんな時に僕は
「闘牛」に出会ってしまいました(テレビでしたけど)。
その色彩豊かな美の世界に、
僕はバレエをみました・・。

闘牛士はより美しい演技を求める為に
自ら危険の限界に近づくことが求められます。


はたしてこの世に、
文字どおり命懸けを求められる芸術形態が
スペイン闘牛以外に存在するのだろうか・・。

「美」の追求目的の為に
自ら危険に近づくことを要求される
この「スペイン闘牛」というもの・・・
さらに一種の舞台芸術でありながら
スポーツ以上の「真剣さ」を要求される・・・
たしかに現代の風潮に真っ向から逆らうかのように、
公衆の面前で堂々と動物の血が流されるという
「毒」があるのも否定出来ない事実です。

この「毒」がひょっとしたら、
他の芸術形態では決して到達出来ない
特殊な美の世界の創造を
可能としているのかも知れないけれど・・・。

そんな訳で闘牛に魅せられてしまった僕でしたが、
闘牛に関する情報なんて
日本にはほとんどありませんでした。
日本語で書かれている数少ない
闘牛関係の本(ほとんどが絶版になってたり)を
読みたいと思えば、もう「国立国会図書館」くらいまで
足を伸ばさなきゃいけませんでしたし、
闘牛のビデオが販売されている訳でもありません。

で、僕の闘牛への想いはつのるばかり。

実際に一度も観たことすらないけど、
闘牛士になりたい!とまで思ってしまうのでした(笑)。
もちろんテレビで闘牛のシーンをみかけてから、
すぐにスペインへと渡った訳ではありません。

かなりの長い期間、自問自答していたもんです。

「スペイン語は全然知らないし、
 スペインに知り合いなんて誰もいない・・」
 
「大体、スペインへ渡っても
 どうやって生活するんだろう?
 当然、仕事を探さなきゃいけないし、
 労働ビザとかどうするんだろう・・」

「闘牛士になれてもそれで生計が立てられる者は
 ごく僅であるらしい・・」

「牛に刺されたりして
 大怪我がめちゃくちゃ多いらしいぞ!
 すごく痛そう!」

「闘牛の世界も皆、
 子供のうちから訓練を始めるものらしい。
 大の大人がいきなし始めて、
 出来るようになるもんじゃないみたい。
 それを僕がこの年齢で・・・」
「それに僕がスペイン行っても、
 外国人の僕なんかを闘牛士たちが
 相手にしてくれるものなんだろうか?
 大体、外国人の闘牛士なんているものなんだろうか?」
・・・etc

そしてなにより疑問に思っていたことは、

「はたして僕なんかが
 闘牛出来るものなんだろうか?
 僕なんかが闘牛士になれるんだろうか??」


どう考えても僕が闘牛士になることに
プラスとなるような判断材料は
みつかりそうにありませんでした。

でも・・全身全霊で打ち込んでも、
実現可能かどうか分からないからこそ、
挑戦のしがいがあるんじゃなかろうか。
だから面白いんじゃないだろうか。

僕が闘牛をやりたいのはお金が欲しいからではない。
闘牛士になる、ということは
僕の自己実現のひとつであり、行方の分からない
「ゲーム」でもあるのだと思いました。
それに・・もしスペイン行かなかったら、
きっと一生後悔するような気もしました。

うだうだ悩んだり考えていても、
とにかく実際に一度スペインへ行ってみないと
何も見えてこない。
だから僕は1997年の冬、
ついにスペインへ渡る決意をしました。

スペイン語は1週間程、簡単な単語と文を暗記した位。
僕は東京築地の魚市場で働いてましたが、
当時イラン人たちが出稼ぎに来ていたものです。
彼らは全然日本語を知らないで来日し、
すぐに生きる為に日本語を話せるようになる。
彼らに出来たことなら、この僕にだって出来るはず。
スペインで生きる為には
スペイン語話す他ないのだから。

スペインに関しての情報もガイド・ブックを読んだ位で
他には特に集めませんでした。
自分がこれからやろうとしていることの規模を考えますと、
下手な準備とか小細工(?)なんて、
まるで無意味のような気がしていたんです。
ある程度・・運を天に任す、方が
良いんじゃなかろうかみたいな。

なにひとつ分かっていない状態で
あまり先の事を考えると、頭が痛くなるので
とりあえず「目先のこと」だけ考え、
集中することにしました。

その1 まず実際にスペインへ入国すること。
その2 着いたらどこかで宿を見つけて、ぐっすり眠ること。
その3 闘牛雑誌(どうも週刊のがあるらしい!)を
手に入れて、どこかで闘牛を観ること。
その4 どこかの町で闘牛関係者と知り合うこと。
その5 知り合えたら・・そこで実際に練習始める!

スペイン出発前に僕が考えていたことは。
この位の事でした。

繰り返しになりますが、他の事を考えたり、
不安に感じたりすると頭が痛くなったので、
この5つの事だけに無理矢理思考を集中というか、
固定(?)しました(笑)。

そして・・もし僕が闘牛士になるのならば、
たとえどのようなルートを選ぼうと、
時間がかかろうと、いずれはたどり着くもんだ!
諦めずに常に前進を続けていれば、
と勝手に思い込んで。

行ったこともないヨーロッパの一国であるスペイン。
この国でどんな出来事が僕を待っているのだろう。
とにかく「きっかけ」さえ掴めたら、僕は頑張る。
他の誰よりも頑張ってみせる。
もう二度と後悔はしたくないから。

1997年1月13日、僕は成田空港にいました。
スペイン語は駄目、知り合いすらいないけれど、
僕はスペインで闘牛士になりたい。
僕は勝利する為にスペインへ行く。
なんにも持ってない僕の28歳の旅立ちでした(笑)。

多分、僕は「冒険」的な生活を
求めていたんだろうと思います。


(つづく)


第2回 ワタシ、ヤリタイネ!

初めてのスペイン。
なぜか某アジア系の航空会社を利用したぼくは、
途中の乗り継ぎ便7時間待ちなどを経て、
成田空港から出発後、実に28時間以上かかって
スペインの首都マドリッドの
バラハス国際空港に到着しました。
入国審査は問題無く通過しました。

よし、とりあえず目先の目的「その1」は達成!

で、早速空港を出て市内へと向かいたいものでしたが・・
市内行きバスの乗り場が分からず、
2時間以上は
ウロウロしましたでしょうか、空港から出るのに(笑)。
もちろんガードマンみたいな人に
尋ねたりもしてみましたが・・全然ダメでしたね、これが。
スペイン語どころか英語すら怪しいぼくですから、
もう「おととい来やがれ!」みたいな。

会話集とか辞書でスペイン語の言葉を作ったりして、
それが相手に通じたとしても、
肝心の相手の言ってることが分からないんじゃ、
会話にならないし、
質問する意味もないもんなんですね!(笑)。
こうしてスペイン到着後から
「言葉の洗礼」を受けてしまったぼくでした。
なんか・・シャアシャアと書いてはおりますが、
その時のぼくにしてみりゃかなり面食らっておったものです。
「なんだこれは?
 これじゃ闘牛士どころか観光旅行すら
 出来ないんじゃないのか、この俺は!?」
みたいな。

ようやく市内行きのバスを見つけたぼくは、
マドリッド市内へと向かったのですが・・・
さてこれからどうしよう?

目先の目的「その2」はなんだっけ?
あ、
「どこかで宿を見つけ、ぐっすり眠ること。
 疲れをとること」だった。
では、どこに宿が?
28時間の長旅で疲れてるし、
一刻も早く眠りたいものだ!
ぼくはバレンシアへ行くことにしました。
バレンシアっていっても地下鉄で数分という距離じゃなく、
長距離バス乗って4時間のところにあるんですが(笑)。

やっぱ、首都は物価高そうだし、治安も悪そう。
それにさっきから眺めていると
ビルとかいっぱいで東京みたい。
なんかぼくのイメージしてた
「闘牛王国(!)」とはちょっと違うし。
やはり物価が安くて、なんかこう
「闘牛の匂い(?)」がしそうな所へ行きたいもんだ、
って漠然と考えていたぼくなんですが、
それならどうして闘牛発祥の地であり、
スペイン内でも比較的物価が安くて有名な
あのアンダルシア地方へと最初から向かわなかったのだ??
といわれそうなものですが、すいません・・。

その頃はまだスペインの事、何も知らなくて。
大体、闘牛に興味持つまでスペインという国について
何かを考えたこともなかった有り様で・・
それにマドリッドからはバレンシアの方が
アンダルシア地方より近かった、というのが
一番の理由だったのかも知れません!(笑)。

で、もちろん・・バレンシア行きの
バス・ターミナルにたどり着くまでに
何度も地下鉄を乗り間違えたり、
どのくらい時間がかかったのかは、
ご想像にお任せ致します!

ぼくはバスが出発するやいなや、
ほとんど気を失ったかのように熟睡しだしましたので、
道中のことはほとんど記憶にありません。
ただ、運転手さんか誰かに揺り起こされると、
初めて自分がバレンシアのバス・ターミナルに
到着しているのに気がつきました。

辺りはもう真っ暗で、街中は大勢の人々で溢れております。
なんか「池袋」みたいな感じだな・・・
ここもけっこうビルだらけじゃないか・・・
当然のことながらスペイン人ばっかでしたが。

「・・・俺、いったいどこにいるんだ?」

地図は持ってないし、自分がどこにいるのかも分からない。
途方に暮れたぼくは、とりあえずそばにあった
ごく普通の花壇に腰を下ろして考え始めました。

目先の目的「その2」はどこかで宿を見つけること・・
宿を見つけるにはどうすれば良い?
ここらはどうも商店街のようで・・
小奇麗なブテイックみたいのでいっぱい・・
どうも宿なんてなさそうだ。
宿というものは一般的に言って、
どこかに集中してあるもんだ(本当?)。

こうなったらタクシーでもつかまえて、
宿まで連れていってもらう他ない。
で、つかまえたタクシーの運ちゃんに
「ペンシオン・バラート!バラート!」
と連呼するのでした・・・
恥ずかしかったけど他に手だてはないし・・・
運ちゃんにしたって、でっかいバッグ持った外人が
「宿!安い!宿!安い!」ってわめいていりゃ、
「ああ、安い宿へ行きたいのね・・」って、
きっと分かってくれるはず!
分かってくれないとぼくは困る・・・。

で、幸い親切な運ちゃんに当たったぼくは、
どこかの安宿まで連れていってもらうことが出来ました。
その日最後の難関である、宿のチェックインを済ませると、
後は何も考えずに眠るだけ・・今はただ眠ろう!
明日はきっと頭もすっきりして良い考えも浮かぶはず・・

バレンシアではとくに何する訳でもなく、
旅の疲れをとった位。わずか二日間の滞在でした。
散歩の途中で発見、購入した週刊闘牛雑誌を広げると、
そこにはぼくの夢見た、
ぼくをここまで連れてきた「闘牛ワールド」が。

スペイン語なんてチンプンカンプンだけど、
数多くのファンタステイックな写真は
ぼくの胸を大いに高鳴らせてくれました。

同時に、精悍な顔つきをした
男前の若い闘牛士たちの写真をみると、
「こうしてスペイン語も分からなければ、
 宿でシャワーの
 お湯すら出せないでいるこの俺が、
 はたして彼らに敵うもんなんだろうか・・」

とぼんやり考えてもおりました。

闘牛雑誌には
闘牛開催予定表という素晴らしいものがあり、
日、場所、出場闘牛士名、出場牧場などのデータが。
スペインでは11月から3月上旬までは
闘牛のオフ・シーズンであり、
その雑誌に出ているのはほとんどが
ラテン・アメリカの闘牛予定表ばかりでした。
それでも、ほんの数日のうちに
ムルシアという県の町で闘牛があることを確認。

その後には・・アンダルシア地方の
ウエルバ県というところの町でも闘牛がある。
それではまずムルシア、その次はウエルバだ。

スペインへ入国してから10日目だったと思います。
途中ムルシア県内の町で
闘牛初見物(目先の目的その3達成!)を済ませたぼくは、
1月23日にウエルバ県ウエルバ市にやって来ました。
セビリアから乗り継いだバスで
ウエルバまで約1時間15分位。
ウエルバ市にバスが入り出すと、
なんか工事が途中で中断したみたいな建物とか、
言葉は悪いけど廃墟みたいな所を通ります。

郊外を通ってるせいもあって、
どうにも活気のない地区をバスは行きます。
「なんだ、これは?
 なんかセビリアとまるで違うぞ!
 なんか大変なところへ来てしまったなー!」
でも、途中に立派な闘牛場があるのを
見逃すぼくではありませんでした。

バス・ターミナルに着いてバスを降りた瞬間、
なんとも懐かしいような不思議な感覚が!
ムルシアのとも、セビリアの空気とも違う・・・
懐かしいも何もないんですけどね、
初めて来たんだから(笑)。

とりあえず宿を探す前に
バス・ターミナル内のカフェテリアで
ビールを一杯頼んだんですが、
お勘定がいくらか分からないぼくは、
「さあ!ビール1杯分、どうぞ受け取っておくれ!」
と言うかのように、ポケットから
ありったけの小銭を取り出すと、
ウエイトレスさんの前に広げました。

するとそのウエイトレスさんは、なんか苦笑しながらも
「なんでこんなに小銭ばっか持ってるの?笑」
みたいな事言いながら、一番小額のコインだけを
拾い集めてくれたのです、ビール一杯分。
きっとぼくがスペイン語もスペインのお金
(当時はペセタでした)の数えかたも分からなくて、
勘定の度に不足がないよう大目のお金を出していたのに
気づかれたのでしょう。

ぼくはウエルバに着いて、あっという間に
ウエルバが好きになりました。
もしかしたらこの町で「きっかけ」を
つかめるかも知れない、そんな予感がしました。

そう、目先の目的「その4」は
「闘牛関係者と知り合い、実際に練習を開始すること」。

ぼくは町中で安宿を見つけ、その夜のベッドを確保しますと、
すぐにウエルバの闘牛場へ向かいました。
もし闘牛学校があるなら、
やはり闘牛場の近くにあるものだろう・・・。

闘牛場へ着いて、闘牛場の周りを歩き出したぼくですが、
ちょうど大きな道路に面している部分の反対側あたりに
「ペーニャ・タウリーナ」なる闘牛士の絵が
看板になっているBARに出くわしました。
辞書を出して調べると、
なんと「闘牛愛好家クラブ」!

これは?
ひょっとして!?

さらにぼくの前方数メートルの所には上下スエット姿の
怪しい親父が二人、何やら立ち話をしています。
時折、いかにも外国人丸出しのぼくが気になるのか、
こちらにチラチラと視線を向けます。

きっと闘牛関係者に違いない。
どうしよう?なんて話しかけたらいいんだろう・・
思いっきり緊張しだすぼく。
ぼくはかなり人見知りする方なんです!実は!

ぼくは落ち着くため、
そして彼らと会話するために必要な
スペイン語の言葉を作るために
近くにある石造りの階段に腰掛けました。
なんか10段位で先が行き止まりになってる
変な、なんの為にあるのか良く分からない階段。

「闘牛」「学校」「日本人」「私」
「学びたい」「どこに?」「ある?」・・・

ぼくは彼らに話しかけるための言葉を
カタカナで紙に書き付けると、
覚悟を決めて彼らのそばに近づきました。

相手にしてくれないかも知れない・・・
笑われるだけかも・・・下手すりゃ殴られるかも・・・
でも話しかけないと何も始まらない・・・
「ナンパ」と同じだな、これは。

俺、苦手なんだよな、こういうこと!

人生にはここぞという時が
何度か必ずあるものといいますが、
ぼくはそれを決して大袈裟ではなく
感じまくっておりました。

ええい、ままよ!

「セニョール・・
 ココニ、ガッコウ、トウギュウ、アルネ?」


親父たち 「?」

「ヤリタイネ・・ワタシ、トウギュウ、ココ、ガッコウ!」

親父ども 「??」

ぼくは必死になって意志を伝えますが、
親父たちは黙ったままぼくを冷たく見つめるだけ・・・
これは厳しいぞ!?

負けるか!!

「ヤリタイ!ヤリタイ!
 ガッコウ、ワタシ!
 アナタ、ダレ??」


二人のうち、長身痩躯の男が笑みをみせると、
「あるよ。ここにも。彼はマエストロだ」
というようなことを言ってくれました。

もう一人の男、マエストロ(先生)と呼ばれた男は
中背でがっしりとした体付きをした50代位の男。
パンチ・パーマが
そのまま伸びちゃったみたいなヘアースタイル。
前頭部はおもいっきり禿げてるけど。
目付きはすさまじい程きつい。
彼はさっきから一言も発しない。
ただぼくを胡散臭そうに見つめるだけ。

まるで
「なんだ、この変なものは?
 なんでここにいて俺たちにからむんだ?」
とでも言うかのよう。

「ワタシ、ニホンジン、コンニチワ!」
すると長身痩躯の男は「ついてきな!」とでも
言うかのように、肩でぼくを誘うと、
マエストロと共に闘牛場の中へ入ります。

ぼくは遅れないようにしっかりと彼らの後を追う!
だってここで追い払われたら、なんか
もう二度とチャンスは
来ないような気がして・・・。


ぼくは生まれて初めて闘牛場の中に入りました。

そして、砂場の上に足を踏み入れる。
やった、スペイン到着
わずか10日目にここまで来ちゃったぞ!
きっとこの闘牛場では大勢の若者たちが闘牛士を目指して、
毎日厳しい練習を繰り広げているに違いない。

ぼくも・・・仲間入りだ。

興奮しながらもそんな風なこと考えて、砂場に入りますと、
中では本当に大勢の若者たちが!

が、なんと彼らは闘牛の練習じゃなくて
サッカーやってるじゃあないですかー、サッカー!
え? サッカーじゃなくて闘牛やってよ!

15人位の若者たちは大汗を流しながら、
ボールを追ってます・・ぼくは二人の親父たちと共に
サッカーを観ておりましたが、
壁のところには確かに闘牛道具・・
赤い布とか剣、そしてピンク色した大きなマント等が
無造作に置かれています。
どうも本日は闘牛の練習は終わったようでした。

サッカーが終わって、
若者たちは闘牛場から出ていきましたが、
そのうちの二人の若者がぼくに話しかけてきました。
確か「やあ、こんにちわ。君、誰だい?」みたいな。

「ニホンジンネ。セニョール、コンニチワ!」

「なんでここに来たんだい?君は?」

「ヤリタイネ、トウギュウ、ワタシ」

「ええ?君が??スペインにはなんで来たの?」

「トウギュウ、ヤリタイ、ワタシ、ガッコウ、ココ!」

「まさか・・闘牛やるために
 日本から来たなんて言うんじゃ・・・」


「ハイ、トウギュウ。コンニチワ!」

気が付くと、あの二人の親父たちの姿が見えません。
ああ、逃げられたあー!?

ホセとイスラエル、その二人の若者たちは
ぼくに闘牛道具を触らせてくれたり、
布の扱い方を教えてくれました。
二人は親切にもぼくを車で宿まで送ってくれると、

「今日の夕方5時にまた闘牛場へ来いよ。
 よく分かんないけど、日本人があの闘牛場で
 光の衣装(闘牛士の正装)着て
 試合出たらカッコイイぞ!」

「アリガトウ、アリガトウ、
 サヨウナラ! ユウガタ5ジネ!」


確実になにかがスタートしました・・・。


(つづく)


第3回 出会い。

スペイン到着10日目にして、
早くも闘牛関係者たちと接触してしまったぼく・・・
夢みたいでしたよ、大袈裟でなく。

夕方の5時、ぼくは約束通りに
闘牛場でホセとイスラエルを待ちました。
しかし・・・来ないぞ。
午前中は開いていた闘牛場の裏口も
鍵がかかっているし、
それになにより人の気配がまるでしません。
ぼくはあの上が行き止まりになってる
変な階段に腰を下ろして、彼らを待ちつづけました。
しかし、いつまでたっても・・・来ない。
ついに日が暮れてしまった・・・駄目だ、こりゃ。

「逃げられたのか?」

ようやく腰を上げたぼくは、
あの「闘牛愛好家クラブ」BARへと足を向けました。
中では、数人の男たちが
にぎやかに一杯やっております。
BARの中ではいたるところに
闘牛士の写真や闘牛開催のポスターが
ところ狭しと貼られていました。

ぼくが中へ入っていきますと、
皆さんいきなし黙りこむ・・・!?
なんとも場違いな者だったのでしょうか(笑)。
それでもBARの主人らしき男が
ぼくの話し相手になってくれます。
ぼくは辞書や会話集の助けを借りて、
なんとか事情説明を試みます。

闘牛学校、マエストロ、ホセとイスラエル、
夕方5時の待ち合わせ、などなど。
「そうか。
 明日は土曜日だし・・・
 月曜日まで闘牛場には誰も来ないよ。
 月曜日の朝11時にまた来なよ。
 俺が君をマエストロたちに紹介してやるよ!」

なんて有り難いのだろう!
感謝の意でも表すためなのか、
3、4杯のビールを次々と飲み干すぼくでした。

でも、今日は金曜日。
俺、月曜日まで何してりゃいいんだろう・・・。
どこにも行くあてがある訳でなし、
友人や知りあいがいる訳でもない。
散歩して、なにか飲み食いして、夜眠るのを待つだけだ。
完全な閑人状態のぼくは週末の間、
月曜日に待ち受けるマエストロたちとのご対面を
思い描いては、ひとり興奮するばかりでした。
なんとしても彼らとあらためて話し合わないと・・・
「この熱い想い」を伝えねば・・・みたいな(笑)。

「たとえ・・土下座してでも、弟子入りさ!」

月曜日の朝11時、
ぼくはBARの主人と共に闘牛場へ入りました。
宿を引き払ったぼくは、
大きなボストン・バッグを
これ見よがしに肩へと担いで闘牛場に現れたのです!
これがスペインへ持ってきた、
ただひとつの荷物であったことは言うまでもありません。
まるで
「あなたたちが面倒みてくれないなら、
 ぼくはもうどうなってしまうのか分かりませんよ!」

って、無言のプレッシャーでもかけるかのように(笑)

砂場へ入ると、あのマエストロはもちろん、
数人の男たちが黙ったままこちらを凝視しています・・・。
なんか
「おいおい、
 あの外人また来ちゃったぞー、どうするよ?」

みたいな。
沈黙が闘牛場を支配する・・・

ぼくはすかさず、「オハヨウ!アミーゴ!」
って仕掛けてみましたが、
厳めしいしかめっ面をしたマエストロたちの表情は
これっぽっちも変わりません。
彼の隣では妙にノッポな若者が、
これまた負けず劣らずのしかめっ面で、
まるで見下すかのようにぼくを眺めています。
彼は闘牛士なのだろうか・・

BARの主人がマエストロ相手に
ぼくのことをお願いしてくれてるようですが、
マエストロは扇風機みたいに首を横に振るばかり・・・
なんか嫌な予感が!
空気を換えねば!

「『タイラノノ』、デース! ヤリタイネ、トウギュウ!」

「・・・」

「ゴキゲンイカガー?」

「・・・・」

再び沈黙が闘牛場を支配する・・

なんでこんなに静かなの?
何でもいいから何か言ってくれー、みたいな。

「ヤリタイ! ヤリタイ! トウギュウ、ワタシ!」

「アルネ! ガッコウ、ワタシ、トウギュウシ!」


ようやくマエストロが口を開きだしますが、
どうにも否定的な様子が・・・
他の男たちも何やらさかんにまくしたてますが、
どうも結論として、
ここウエルバには闘牛学校がないとのこと。

そんな馬鹿な!?
・・・あるって言ったじゃないか、この前・・・
では闘牛学校って、いったいどこにあるんだ?

「ドコソレ、ドコソレ、ガッコウ、ワタシ!」

「アナタ、カクネ! ジュウショ、ガッコウ!」


と紙とボールペンを差し出すぼくでした。

どうもこの辺りではセビリア県内まで行かないと、
闘牛学校はないらしい。
そうですか、ないんですか・・・ここに闘牛学校って。

「アリガトウ! サヨナラ! イクネ、セビリア、バス!」

ぼくは皆にお礼を言うと、
ボストン・バッグを担ぎ上げてその場を立ち去りました。
多分・・未練タラタラだったと思いますけど。

闘牛場を出たぼくは、BARの主人にお礼言うがてら、
ビールでも飲もうかと
「闘牛愛好家」BARへ向かいました。

ほんとに、がっかりしながら・・・!

やっと掴んだかと思った闘牛へのきっかけは、
今こうして再び遠のいていこうとしている・・・
また一から出直しなんだ。
セビリアで機会が待っているのだろうか・・・
でもおそらくこのウエルバに来ることは
もう二度となかろう・・・さようならウエルバ!!

そのとき、でした。
背後に足音が・・・それもこちらに向かって
どんどん近づいてくるような・・・
振り向くとさっきのノッポな若者が、
息咳切らせながら走って
ぼくを追いかけてくるじゃありませんか!
なにごとだ、これは!?

「セビリアへ行くな!
 ここに残るんだ! このウエルバに!!」


え、本当かよ・・・

「でもそんな格好じゃ駄目だよ。
 ぼくみたいなジャージに着替えて練習するんだ。
 さあ! ぼくといっしょに来るんだ!」


「アリガトウ・・・?」

ぼくは何がなんだかまるで分からないまま、
彼と共に闘牛場へと引き返すのでしたが、まるで・・・
「後光」がさしてるように見えましたっけ・・・
そのノッポな若者。

砂場へ戻ると、マエストロが
「俺の名前はミゲル・コンデだ」
と握手を求めてくれました。
他の男たちも、次々にぼくへ手を差し出してくれます。

マエストロ、いやミゲル・コンデは
ぼくにカポテ(ピンク色した大きなマント)の
扱い方を教えてくれました。
ノッポな若者と二人で、
まさに手取り足取り、ぼくに型を教えてくれます。

練習後、ノッポな若者の説明によると、皆はぼくに
「学校はないけれど、どうしてもやりたいなら、
 ここで俺達といっしょに練習出来なくはない」

って、言ってくれていたのだけれど、
スペイン語が分からないぼくは、学校がないなら駄目なんだ、
って一人思い込んで出て行っちゃったという訳。

見かねたミゲル・コンデが
彼にぼくを追いかけるよう指示したとのこと。
「あんな奴、他の町行ったら
 きっと身ぐるみはがされちゃうぞ!」
みたいな(笑)。

スペイン語がまるで分からない
ぼく相手の会話なのですから、
彼らも相当骨が折れたに違いありません。
なんと・・ぼくの持参した西和辞書の単語を指さしては、
意志の疎通をはかってくれる彼ら。
スペイン人って、みんなこんなに親切なの・・・?

また、ぼくは自分が観光客の身分であり、
先程安宿を引き払ってきたばかりであることを話しました。
そして闘牛学校がないなら授業料は誰に払うのか、
授業料はいくらなのか、と聞くのでした。

「タイラ、授業料はいらない。俺が面倒みてやる。」

とミゲル・コンデ。

え・・本当に・・いいんですか・・

明日は朝10時に来い、
とノッポな若者が地面に時計の絵を書いて
説明してくれました(笑)。

その後・・・このノッポな若者であるビクトルこそが、
このウエルバ闘牛界でぼくを助けてくれる
唯一の親友となるのでした。
そしてぼくより10歳も年下の彼と
毎日いっしょに練習しては、
アンダルシアの容赦ない日差しのもとで汗を流し、
闘牛士への道を歩んでいくことになるのでした。

一度引き払った安宿へと
出戻りしたぼくが、その夜興奮のあまり
一睡も出来なかったのは言うまでもありません。
もしかして・・・うれし涙の少しくらいはこぼしたかもね。
ぼくはもう彼らの、闘牛士たちの仲間なのだ。
昨日までのぼくではない。
まだ何ももっていないけれど・・・
とにかく実際にぼくの闘牛士修行が始まるのだ。
ぼくはまるで、目には見えないレールのようなものにでも
乗っかった気がしました。
闘牛士への、闘牛界へと続くレールの上に。
こんな感覚はそれまでぼくが過ごしてきた
28年間の間、一度もなかったものでした。

生まれ変わった、ような気がしました。

先にどんな困難・試練が待ち受けているのか、
見当もつかないけれど、
ぼくは決してそれにひれ伏すことも、
くじけるつもりもない。
ぼくは勝利を収めるためにスペインへやってきたのだから。

ぼくの下宿先は、
あのホセとイスラエルの二人が口コミで
安いところを探してくれることになりました。

そして・・・後に一生の恩人となる
ホアキン・サンチェス氏とその家族たちの
貸間へと住み始めるのです。
彼ら、そしてビクトルとの出会いがなかったのなら・・・
これだけは断言出来ますが、ぼくはこのスペインで
何ひとつ成し遂げることはなかったでしょう。

何から何まで偶然始まったような、
ぼくのウエルバの生活。
スペインに来る前は
その名前すら聞いたことのなかったウエルバ。
なんでもコロンブスが新大陸発見の際に船出したのが、
このウエルバ県内の町からだそうだ。
また、アンダルシアの一県でありながら、
まるで闘牛熱のない土地である(笑)。

観光地でもなく、外国人留学生などが
多い訳でもないこのウエルバは、
美しい海岸の町々や自然の幸に恵まれた
山間の村々が自慢の、静かで素朴な県なのです。
住み始めて気づいたことには、このウエルバ市で
どうやらぼくは、ただ一人の日本人であるらしいこと。

体ひとつと思い込みだけで
日本からやって来てしまったこのぼくが・・・
数年後、闘牛界の中心地から
遠く離れたこのウエルバから、
スペイン中をお騒がせすることになるのを

その当時のぼく自身はもちろん、
誰ひとりとして予想すらしなかったに違いありません。


(つづく)


第4回 難関突破!そしてさらなる壁!

何もかも順調に始まったかのようなぼくの闘牛修業。
しかし・・世の中、そんな簡単に
物事がうまく進むものではありません。

僕の前にはいくつもの大きな壁が
立ち塞がることになるのでした。

まず、「闘牛術の習得」・・

闘牛士の練習とは大きく二つに分けられます。
まず一つは「サロン」と呼ばれる仲間同士の練習です。
一人が闘牛士役、もう一人が牛役。
それを交互に繰り返して練習する訳ですね。
牛の角を持った、もう完全に牛になりきった男が
闘牛士の持つ赤い布めがけて突進する・・・

それをゆるやかに美しくやりすごす闘牛士。
この型の練習こそが毎日行われる基本練習なのです。

よく日本のTVでもそんなシーンが紹介されたりして、
笑いを誘うものですが、
やってる本人たちにとっては真剣そのもの、
それにかなりきついものでもあるのですよ(笑)。

そしてもう一つが実際に牛を相手にする練習。
これこそ何より重要。

たとえ「サロン」の練習だけを
50年・100年やったところで、
それだけでは決して生きた牛を
あしらえるようにはなりませんよね。

どんなに闘牛士としての才能・資質がある者でも、
実際に牛を相手に練習しなければ、
闘牛術なんて学ぶことは出来ません。

だから・・・
いかに生きた牛相手の練習機会を得るのか・・・
これが闘牛術を学んでいく上で尤も大切であり、
また尤も困難なことでもあるのです。

といいますのは、闘牛用の牛って高価なのです。
しかも闘牛用の牛は1回でも闘牛士と対峙して
数分の間、闘牛士の練習相手となるだけで、
すぐに闘牛士と彼の用いる布の区別がついてしまい、
その後いくら闘牛士が牛に布の方を攻撃させようとしても、
牛は迷わず闘牛士の体だけを
攻撃するようになってしまうのです。
これでは闘牛は不可能!
牛はたった1回しか使えないのです。
だから高いし貴重なのです!
当然のことながら試合に出てくる牛は、
一度も闘牛士と対峙していないものが出されるのです。

もし、いくらでも未使用牛、
つまり「新品」を買うだけの余裕がある者なら・・・
闘牛術は彼にとって
比較的、短期間に学べるものかも知れません。
現代ではスター闘牛士の二世、
甥または闘牛牧場主のそれなどが
闘牛士になるのが圧倒的な主流となっておりますが、
それも当然といえば当然のこと。
彼ら恵まれた者・・・エリートといってもよい・・・
良い牛相手の豊富な練習機会、
さらに闘牛界では欠かすことの出来ない
「コネ」を最初から与えられているのですから。

それでは「新品」を買うお金のないぼくらは、
どうやって良い牛相手の練習機会を得るのでしょうか?

闘牛牧場には「テンタデロ」もしくは
「テイエンタ」と呼ばれる雌牛の試験があります。
一般的には満2歳になった雌牛を、
プロの闘牛士が実際に演技を行ってみて、
その雌牛がはたして子を生むに値するかどうかを
判定するものなのです。
「母が勇敢なら子も勇敢に違いないだろう、多分!」
みたいな。
だから、試験に合格した雌牛は
子を生ませる為に牧場へ残し、
不合格となった雌牛は畜肉業者へとおろされるのです。
その雌牛の試験こそが、
ぼくら闘牛士志願者のほとんど唯一の
生きた良い牛相手の練習機会となるのです。

プロが雌牛相手に演技を終えた後に、
ぼくら闘牛士志願者ははじめて演技を許されます。
もうプロがその雌牛相手に
十分に練習しつくした後ですから、
当然雌牛は最初より難しくなってしまっています。
それをプロよりはるかに技術・経験ともに
劣る闘牛士志願者があしらうことになるのですから・・・
雌牛にこてんぱんにやられてしまうことも
決して珍しいものではないのです。

難しくなった雌牛相手に
もう何にも出来ないときだってあります。
当然、このやり方では
牛を購入したりして練習するのと比べ、
闘牛術を習得するのには
それなりの年月がかかってしまいます。
でもこれがお金のないぼくらに与えられる
唯一の練習機会なのだから・・・
たとえどんなに時間がかかろうが。

上手い者は良い牛相手にどんどん練習し、
どんどん上手くなっていく。
しかし、そうでない者はいつまでたっても下手なまま、

という世界なのです。この闘牛という世界も。

よくある村祭りなどでのカペア(草闘牛)では、
既に使用済みの牛、最初から人間の体を狙ってくる牛・・・
が出されるので、ぼくたち闘牛士志願者にとって
なんの練習にもならないのです。
それでも・・ぼくたちは何度も草闘牛にも通いました。
危ないだけで、練習にも役立たないけれど・・・
やっぱり、牛が好きなんでしょうね(笑)。

友人となった見習闘牛士仲間のビクトルと、
ウエルバのラ・メルセ闘牛場で毎日汗を流すぼくでしたが、
マエストロであるミゲル・コンデや
その他の人たち(皆さん闘牛士の助手でした)が
面倒見てくれたのは・・最初のうちだけ。
最初のうちは物珍しさもあったのか、
雌牛の試験などにも連れて行ってくれたのですが、
そのうち「飽き」がきたのか、2週間位もすると
自然とぼくの事には見向きもしなくなりました。

これはスペイン人(特にアンダルシア人?)には
よくあること。
自分が興味ある時は・・・これでもか!という位(笑)。
しかしいったん関心を失うと
まるで別人のようになってしまう・・・

当時、スペイン人もスペインの生活も
何一つ知らなかったぼくには、まるでその訳が分からず、
「・・・見放されたのか、この俺は・・・?
 最初はあんなに皆親切だったのに・・・
 俺じゃ闘牛士になれないって、ことなのか・・・?」

みたいな。

よくビクトルが言ってくれたものです。

「タイラ、あいつらそんなもんだって。
 俺なんかもう1年以上もここで練習してるけど、
 牧場に連れていってもらったことなんて
 1度もないんだぜ。
 お前は2回も連れてってもらったんだから
 ラッキーな方さ。
 よっぽど面白かったんだろうよ、お前の事がさ!
 なぜ、あいつらが
 俺達を助けてくれないか分かるかい?
 なぜ雌牛の試験にすら
 連れてってくれないのか分かるかい?
 それは俺達が金持ってないからなのさ。
 俺達が駄目だとか才能ないとか、
 そういうことじゃないんだよ。
 彼らにとって肝心な事は
 自分たちが面倒みるやつがはたしてどれだけ
 金持ってるかどうか・・・
 つまりどれだけ試合に出れるかどうかなんだよ。
 自分の面倒みたやつが試合に出れば、
 彼ら助手たちは試合に参加するたびに
 必ず報酬を得られるだろ?
 だからあいつら助手たちにしてみれば、
 俺達みたいに
 金なくて試合にも出れない者を教えたり、
 牧場連れてったりすることは
 完全な無駄なのさ。

 なんで金も持ってないやつなんかを
 助けてやらなきゃいけないんだ?
 ってことになるわけよ。
 まあ・・・俺達みたいのに
 突然パトロンでもついたりしたら・・・
 あいつらいきなり手の平返すように態度が変わるぜ!
 おお、こいつは金のなる木だ!ってね(笑)」


孤立無援状態のぼくとビクトルは、
なんとか雌牛の試験開催情報を集めては、
生きた牛相手の練習機会を探すのでした。
ビクトルは単なる練習相手でなく、
スペイン語すら満足に理解出来ないぼくを相手に、
闘牛の技術、考え方などを教えてくれる
マエストロにもなるのでした。

言葉、スペイン語の問題は、
やはり闘牛術を学んでいく上でも
大変なハンデとなりましたが、
ぼくはそれをどうやって学んでいったのか・・・
ウエルバにはスペイン語学校はありません。
ぼくは日本から持参した教科書や辞書で
少しずつ学んでいきました。
周りにはスペイン人しかいないし、意志を伝えるには、
生活するにはとにかくスペイン語話す他ないのですから。
また、下宿先の主人である
ホアキンとその家族たちとの交流、
さらに近所の人達、見習闘牛士仲間・・・
ぼくは自然とスペインの、
アンダルシアの生活を学んでゆくのでした。

ウエルバ到着後3ヶ月もすると、
皆でお隣のセビリアに行ったときなど、
同じ日本人の観光客相手に簡単な通訳位は
出来るようにもなりました。

ぼくとビクトルは毎朝、
闘牛場で「サロン」の練習をして、
午後は雌牛の試験を探しました。
車もバイクも持ってないぼくらは、
牧場へ行くのに、とにかく行けるところまで
バスに乗って、そこから牧場までは延々と歩く。
10kmだって20kmだって。

重たい闘牛道具を背負っては、
灼熱のアンダルシアの太陽に焼かれながら。
本当・・・喉の渇きに耐えかねたぼくらは、
小川の・・・なんか、
「オタマジャクシは蛙の子♪」か何か
泳いでそうな・・・水に口をつけたことも
一度や二度の事ではありません(笑)。
お腹が空いたら・・・そんなところには
BARやなんかがある訳じゃなし・・・
畑に入ってイチゴを収穫するとか。

一体何がぼくらをそこまでかきたてるのか・・・
「闘牛熱」しかありえませんよね。

時にはヒッチハイクだって必要とされます。
しかし男二人を拾ってくれる車なんて
そうあるもんじゃない。
一度、ビクトルの制止を振り払って
(いっしょにいて恥ずかしかったそうです)
ぼくは道路の上で
「死んだふり」までしたことがありました。
これならいくらなんでも止まってくれるのでは?と思って。
作戦は見事に成功しましたよ(笑)。

こんな冒険的(?)な闘牛修業を通じては、
徐々に、また着実に生きた闘牛術を
学んでいくぼくたちなのでした。
それでも・・・
牛相手の十分な練習機会を得ることは
本当に困難極まるものだったのです。

「労働ビザとプロ闘牛士免許」・・・

また闘牛術の習得問題と並行して、
外国人であるぼくにはプロ
闘牛士免許を取得する為の「書類問題」が、
これまた大きな壁として待ち受けていました。

闘牛士は見習でも、助手であっても、
スペイン内務省の発行する
プロ闘牛士免許を取得しないと、
試合には一切出場出来ないことになっております。

まず、ぼくが取得しなければならなかった
見習闘牛士免許の取得の為の条件は、
公認された闘牛学校で
最低1年以上の訓練を積んだ者。
もしくはプロ闘牛士または
闘牛牧場主の特別推薦を受けた者・・・
となっております。

ところが、外国人がそれを取得する為には
スペインの労働居住許可書を所持していることが
必須・前提条件なのです。
観光客の身分じゃ駄目なのです。
「居住者」となっていることが条件なのです。
これは試合で事故などがあった場合、
社会保険などの問題も絡んでくるからなのです。

ご存知の通り、日本人がヨーロッパの国・・・
それも失業率の高いスペインの労働ビザを取得することは、
日本企業の現地駐在員等を別にしますと、
限りなく困難となっています。
スペインの労働ビザを
5年、いや8年待ってる日本人なんてザラだ、
と聞いたこともありました。
ぼくも・・・何度申請しても、却下されるばっかり。
「ああ。今年も駄目だった。また来年申請かよ・・・」
みたいな。いつだって
「日本人がなぜスペインで働かなきゃいけないのか?」
却下通知書から、
そんな「声」が聞こえてきそうでした・・・。
でも労働居住許可書を取らないと、
プロ闘牛士免許は取れない・・・
闘牛士にはなれない・・・


ぼくの労働居住許可書申請の為に奔走してくれたのは、
ほかでもない下宿先の主人、
ホアキン・サンチェス氏でした。
何度申請を落とされても、
新たな雇用先・書類を集めてくれて、
ぼくといっしょに
毎日のように役所通いを繰り返してくれて・・。

ぼくは労働ビザ申請の為、
またスペインでの生活費捻出の為、
何度も日本に帰国しては
アルバイト生活を余儀なくされました。
時間だけがいたずらに過ぎていく・・・
ただですら年齢オーバーのハンデ・・・
まるで先の見えないぼくの闘牛活動・・・
「どうなっちゃうんだろう俺?」みたいな。

帰国する度に築地のまぐろ屋で働くぼくに、
スペインのビクトルから手紙が頻繁に届きました・・・

「タイラ、何してる?
 早くスペインへ来い!
 もうあちこちの牧場で雌牛の試験が始まってるぞ!」


「いつ戻ってくるんだ?
 せっかく学んだ闘牛術を忘れてしまうぞ!
 早く牛の前に立たなきゃ駄目だよ!
 早く、1日も早くスペインへ戻ってくるんだ!」


今年こそ!そして・・来年こそ!
とぼくはまるで先が見えないながらも、
がむしゃらに頑張っておりました。
諦めたくなかったから。
なんとしてもこれを成し遂げたかったから。
日本人闘牛士としてデビューしたかったから。
ウエルバで、東京で・・・どこにいても、
ぼくはそのことだけ考えていました。
他の事はもう、本当にどうでもよろしくなっていました。

そして、1999年の9月、超難関をくぐり抜けて、
スペインの労働居住許可書を取得。
続いて念願であるプロ闘牛士免許も取得!
何もかもが突然うまく運び出したのです!

ついに・・ぼくは1999年10月17日、
第2級格式闘牛場である
ウエルバのラ・メルセ闘牛場から
デビューすることが決定したのでした。

主催は1998年に発足されたウエルバ闘牛学校。
成績上位の者に試合出場機会が与えられ、
ぼくもそのうちの一人として大抜擢されたのです。
それまでのスペイン滞在期間、
合計してわずか1年半未満であった
ぼくが勝ち獲った大チャンスでした。
またスペインのマスコミも大きく
ぼくのニュースをとりあげてくれるのでした。
これまでのご褒美のように!

「日本人・濃野平は1万5千km彼方の
 日本からスペインへやってきました!
 闘牛士になる為に!
 ついに今度の日曜日、ウエルバでデビューです!」


・・・ところが、
いくつもの大きな壁を乗り越えたはずであるぼくの前に、
さらなる試練が待ち受けるのでした・・・

ぼくはデビュー戦の三日前に、
トリゲーロスという町にある闘牛牧場で
練習用に牛を買いました。
デビュー戦の為に良い牛相手に
満足のいく実践練習をしたかったからです。
それまで牛を実際に仕留めた経験すら
ありませんでしたし。
いくらなんでも仕留めの経験なしに
デビューするなんて、無謀すぎる!
という訳だったのです。

値段は10万ペセタ。
実はその時、ぼくの全所持金は
8万ペセタしかありませんでしたので、
ホアキンが2万ペセタ貸してくれたのです。
つまり・・ぼくはデビューの時、
「完全なる一文無し」だったのです(笑)。
まるで文字通り・・・
失うものは何もない、とでもいうかのように!

スペインのマスコミは、TV・ラジオ・新聞等で
全国的にぼくのデビューをとりあげましたが、
その注目の的となっていた日本人は、
この異国スペインでなんと
「華麗なる一文無し」だった・・・のです。


その牛は2歳牛とのことでしたが、
350キロはある代物でした。
草闘牛を除けば、ぼくはそれまでに
これ程大きな牛と対峙した経験はありませんでした。
演技自体は、
牛に引っかけられたりすることもなく終わりました。
そして・・初めて経験する「仕留め」。
1発目、剣は良い位置に入りながらも、
深く刺さらなかった。

そして2発目・・・
ぼくは剣をまっすぐかまえて、
全力で牛に飛び込みました。
牛もぼくにむかってつっこんでくる・・・
渾身の力をこめた剣先は牛の背骨に当たってしまい、
行き場のなくなった負荷の全てが
ぼくの右肩にかかるのでした。
ぼくは数学が得意でないので計算はできませんが、
牛の体重が350キロ、僕のが58キロ、
いったいその時どのくらいの力が
僕の右肩にかかったのか・・・その瞬間、ぼくは
右腕が肩からもげてしまった、ような気がしました・・・

そして・・気が付くとぼくは牛にはね上げられ、
何度もコンクリートの壁に
叩き付けられるのでした。

目の前が徐々に暗くなっていき・・・
音も聞こえなくなって・・・

気が付くとぼくは車の助手席にいました。
頭からびしょぬれになっています。
多分、気絶したぼくの目を覚まそうと
誰かが水をかけてくれたのでしょう・・・
ホアキンが運転する車は
ウエルバ市に向かって走っている。
トリゲーロスの牧草地帯に沈む夕日はいつ見たって美しい。
今日だって、こんな時だって、なぜか・・・
まったく涙腺がゆるむ程美しいぞ。

参ったな、右腕は動かないし・・・
それにぼくは気を失ったまま、
何度か激しく嘔吐したらしい・・・

3日後は待ちに待ったデビュー戦なんだから、
大した怪我じゃなきゃいいのだけれど・・・
しかしなんだって右肩はこんなに痛むのだろう?

ウエルバ市内の救急病院に到着すると、
ぼくは車椅子に乗せられ、
ただちにレントゲン室へと運ばれました。
泥にまみれた乗馬服姿のぼくは、
他の患者さんたちの目には
落馬でもしたように映ったのでしょうね、きっと。

医者の診断はぼくのド肝を抜くには十分なものでした。

「すぐに入院してもらわないと・・・
 明日入院して、来週初めに手術しますから」


「え?入院・手術って、そんな・・・
 ぼくは3日後に闘牛に出るんです。
 今度の日曜日にデビューするんですよ?!」


「背中から胸まで大きく切り開きますので、
 手術後1ヶ月間は入院して頂きますよ。
 退院後も半年はリハビリに専念してもらいます。
 今年は闘牛なんて考えないことですね、残念ですが」


「日曜日・・・無理ですか? 試合出るの・・・?」

「・・・」

「そんな馬鹿な!
 ぼくは絶対にそんなことは認めない!
 痛み止めを打ってもらうとか・・・
 何か手があるはずだ!!」


「・・・駄目ですね」

「不可能、ですか・・・?」

「不・可・能・です!」


(つづく)


第5回 デビュー戦前夜!

毎日、ぼくはウエルバを流れる大河である
オデイエル川の河口にかかった橋の上を走る。
練習後や仕事後に1日の締めくくりとして
この橋の上を走ることは、
もうかなり前からの習慣になっています。

夕陽が沈んでいく頃、
ウエルバの空は幻想的といえる程の美し
さをみせることがあって、
ゆったりと流れるオデイエル川と共に
なんともいえない調和をみせる瞬間がある。
ぼくはそれを眺めながら走るのが好きなのです。
いろいろなことを思ったり、考えたり・・
この川こそぼくの心を知る!みたいな(笑)・・・

1999年10月15日、
スペインのマスコミから
ぼくの下宿先に電話が次々と入ります。

「牧場で怪我したそうだけど、
 君は17日の試合に出れるのかい?
 ウエルバの新聞によると
 試合出場は絶望的とのことだけれど・・
 もし君が試合に出ないのなら、
 当日ウエルバに取材に行っても意味がないから・・」


ウエルバのローカル新聞の一紙が、14日に起きた
ぼくの牧場での事故と怪我の模様を報じてしまったのです。
元々この新聞社の闘牛番記者は
ぼくの出場に疑問を抱いていたようです・・
「地元の子たちを差し置いて、なぜ彼が?」
という訳なのです。

ぼくは、
「私は17日の試合に予定通り出場します。
 何も問題はありません。
 日本人闘牛士・濃野平は日曜日午後12時に、
 第二級格式闘牛場であるウエルバの
 ラ・メルセ闘牛場からデビュー致します!」

と応え続けるしかありませんでした。

ぼくはもちろん周囲は大変な混乱状態にありました。
一体どうなってしまうのか?
怪我の事・・試合3日前の右肩脱臼、
物理的に試合出場が可能かどうかはさて置いて、
形式的にもこのような状態で試合出場、
それも闘牛学校主催の試合に
出場が許されるものなのかどうか・・
はっきりしない情報が飛び交い、
いたずらに踊らされるぼくと下宿先の家族たち。
なんでも主催者側は
すでに代わりの闘牛士を探し始めたとのこと!

14日にデビュー戦成功を図って購入した練習用の若牛は、
ぼくに実戦経験・効果を与えてくれるどころか、
なんと医師に出場不能診断を告げさせる程、
ぼくを徹底的に追いつめてくれた・・
自ら首を絞めるとはまさにこのこと、なのでしょう。

ぼく自身の気持ちとしては、
たとえ右腕がまったく使えなかろうが、
左腕一本でも出場するつもりでした。

しかし、主催者側が他の者を試合に出してしまうとなると、
ぼくはもう手も足も出せなくなってしまう・・

単に憧れでしかなかったものが、
今や目前に迫ってきており、
手を伸ばせば届きそうなところまで近づいて来ています・・
ところがここに来て、
ぼくは自らの力と意志だけでは
どうにもならない状態に追い込まれてしまったのです・・
やっとの思いで掴んだチャンスは今また、
ぼくの手元から遠ざかっていこうとしている・・

「結局・・今日までがむしゃらに
 頑張ってきたことの挙げ句が、これ、か?・・」


ぼくはそれを受け入れることが出来ませんでした。

右腕は右肩からくる激痛でほとんど動かせない有り様。
実際のところこのような状態で試合に出ても、
はたしてどのように演技をこなすのか
見当すらつかないけれど・・闘牛を、
このデビュー戦だけを望みにしてきたぼくにとって、
この機会を失ってしまうことはなんとしても、
なんとしても耐え難いものだったのです。

医師は試合出場「不可能」とまで言ってのけてくれた・・
ぼくに試合出場を諦めさせ、
治療に専念させるに強く告知したのでは?

ぼくは最後の最後まで諦めない決心をしました。
だから早速、ぼくなりにその「不可能」を
くつがえす為の行動を開始するのでした。


「タイラ!こうなったら左腕だけで演技をこなし、
 仕留めも左手でやっちまえ!お前なら出来るぜ!」

親友のビクトルも大いにハッパをかけてくれるのでした。
こんな風に・・突飛な発想で力づけてくれる者が
周りに一人でもいるってことは本当にうれしいことです・・
なんか自分がもう一人いるみたいです(笑)。

そんなぼくに、日本人闘牛士の出場絶望を報じた
新聞社とライバル関係にある新聞社が、
救いの手を差し伸べてくれるのでした。
その新聞社の闘牛番の記者で、闘牛評論家でもあるD氏は、

「ただちにセビリアへ行くんだ!
 私の友人であり、
 ラ・メルセ闘牛場の医師であるヒメネス氏に会うんだ。
 彼が君の試合出場可能である旨を記した
 診断書を書いてくれる。
 既に連絡はとってあるから、すぐに行くんだ!」


15日の午後、下宿先の主人であるホアキンと彼の兄弟、
そしてぼくの3人はとるものもとらずに
セビリアへ駆けつけました。
ぼくは右腕をガムテープみたいので釣ったままの姿。
袖なんて通せないもんだから、
ホアキンに借りた真っ赤なカーデイガンを
じかに羽織ってました。

ヒメネス医師のクリニックに到着し、
早速先生のところへ通されますと、

「うん。この怪我は珍しくはないんだよ、
 闘牛士の職業病みたいなものだ。
 そうか、明後日試合に出るのか。
 時間は全然ないね・・。
 手術すると出っ張った骨は元の位置に戻るけれど、
 大手術だしリハビリ期間も半年位かかってしまうんだ。
 手術なんてしなくて良いよ。

 そりゃ一生右肩から骨は出っ張ったままになるけれど・・
 痛みは数ヶ月も経てば自然に消えるし、
 日常生活にも闘牛活動にも支障はなくなるはずだ。
 君はどうしても試合に出たいのだね?

 試合当日、入場行進後に
 医務室へ来なさい。
 痛み止めの注射をちゃんと用意しておく。
 注射を打てば、右腕は動くはずだ・・」


前日にかつぎ込まれた救急病院の一般医との、
この違いは一体何でしょうか?
さすが闘牛士専門のお医者様!(笑)。

ヒメネス医師の書いてくれた診断書を
ウエルバに持ち帰ったぼくらでしたが、
もうウエルバでは試合の主催者側はもちろん
世間一般の声までが、ぼくの試合出場にたいして
かなり否定的な見方が支配していたのです。

試合主催者側では、他の者に連絡を取ったとのこと、
ぼくの代わりとして出場させる為に・・
「診断書」って、何それ?
今更遅いよ・・とでもいうかのように。

眠れぬ夜を過ごす・・
一体試合に出れるのか、出れないのか?
さらに鎮痛剤飲んでるのに消えない右肩の激しい痛み。
右腕を釣ったままの状態で
眠ることを余儀なくされていたものですから、
なんか30分間隔位で痺れが来てしまい、
そのたびに腹筋運動よろしく
上半身を起こさずにはいられないみたいな。

苦しいし眠れないし、これじゃ拷問じゃないですか・・・

16日土曜日の午前中に、
ホアキンと奥さんのドロレスがラ・メルセ闘牛場へ
最終交渉に向かいます。
ぼくには外出禁止令が出ていたのです(笑)。
「腕なんか釣ったままの姿で人前に出たら、
 もう絶対明日の試合になんか出れなくなるぞ!」
という訳。

「タイラの事は残念だけれど・・無理ですよ。
 大体、怪我してなくても
 まともに演技出来るかどうか分からないような者を、
 こんな状態で試合になんか出せませんよ!
 彼が努力してきたことは私たちも分かってますが・・
 こうなってしまった以上、
 他の者にもチャンスを与えなければいけないんですよ!」

と主催者側。

まさに正論、なのでしょう。
彼らは何も間違ったことは言ってないし、
正しい判断であることも明らかでした。
客観的にみるのならば、客観的に・・

しかし、奥さんのドロレスはそんな彼らの
「正論」に屈するような人ではありませんでした・・
13人兄弟姉妹の長女として田舎に生まれ、
子供の時から学校にも通わず、家計を助けてきた
肝っ玉ドロレスは、ありとあらゆる場をくぐってきた
強かな彼女は、そんな当たり前の事なんかに
納得したりはしないのです。
「正論」であるかどうかよりも、
彼女の気持ちの方が断然大事なのです。

彼女が自身の心に照らしてみて、
理不尽であると感じたならば
それは大声で非難しなければならないし、
徹底的にそれを主張しなければならない!
のです(笑)。

彼女はぼくの試合出場を心から望んでくれていたし、
その為に今日まで赤の他人であるぼくを、まるで息子・・
のように助けてきてくれたのだから。

「タイラ以外の他の皆だって、
 一生懸命頑張って練習してるし、
 闘牛に夢中になっていることは私にも分かる。
 でもね・・言わせてもらえるなら、
 私の知る限りこのウエルバであの子以上に
 必死になっている者はいない、って事なのよ。

 昨晩だって未明に、バルコニーで
 変な物音がするから泥棒かと思って覗いてみると、
 タイラが真っ暗闇の中でムレタ振ってんのよ。
 右腕釣ったまま左腕だけでね。
 この期に及んでまだ練習してんのよ!
 どう考えても明日の試合に出場するのは、
 タイラ以上にふさわしい者はいない!

 プロモーション試合なんでしょう?
 タイラが出来るって言ってるんだから、
 あんたたちは黙って試合に出してあげれば良いのよ。
 もしタイラが最後まで演技続けられないと見るなら、
 代わりの者でも待機させときゃ良いのよ。
 タイラには出来るところまででも
 やらせてあげなきゃ駄目よ!

 そうでなければこの私は許さない。
 たとえどんなビルヘン(聖母)が
 口出ししたり命令したって、
 この私は決して許したりはしないわよ!」


最後の難関をのり越え・・
ぼくたちはデビュー戦前夜にして
ようやく試合出場OKの確認を済ますことが出来たのです。
最後の最後でぼくたちに試合出場権利を与えてくれたのは
ヒメネス医師の診断書ではなく、もしかしたら・・・
ドロレスによる感情むき出しな一途な声
だったのかも知れません。

今やぼくたちの「目先の目的」は、
日曜日に砂場に立つこと。
闘牛士の正装である
「光の衣装」を身にまとって砂場に立つ・・そこまで!
試合や肝心の演技の事、
もちろんその後のことも一切考えないし、その必要もない。
砂場に立つこと・・それだけ!

あらゆる「雑念」が消えました。
正直に言って、デビュー戦が決定してからそれまで、
試合の事を考えては
演技がちゃんとこなせるかどうかなど、
不安に感じたり迷ったりすることがありました。
逆説的ではありますが、この追いつめられた状態において、
ぼくは異常な集中力を得ることに成功したのです。
某有名柔道家がオリンピックの直前に
予期せぬ大怪我を負ってしまった、まさにその瞬間、
「金メダル取得を確信した」と聞いたことがありますが、
それに似たものがあったのかも知れません。

周りの人たちの一致団結した協力が、そう、
このぼくを闘牛場へ送り込もうとしてくれる気持ちが・・
予期せぬ怪我によって
打ちのめされたはずのぼくを奮い立たせてくれたのです。
なんかもう、ほんの一瞬でも油断すると・・
「感激の涙!」でもこぼれ落ちてしまいそうな、
そんな張り詰めた状態が試合まで続いていたのです。

ぼくは大袈裟でなく爪先から髪の毛の1本先まで
「激しい充実感」を感じていました。
おそらくこのような状況においては、
理想的な精神状態にあったのではないかと思います。


こうしてぼくたちはデビュー戦の勝利を確信したのです。

10月17日、日曜日を迎える・・試合は昼の12時開始。

朝7時に起きたぼくは・・例の「腹筋運動」で
ほとんど寝てなかったけれど(笑)・・
ホアキン、そして日本から駆けつけてくれた親友と共に
車でホテルへ向かいました。

あいにく、お天気には恵まれず雨が降り続いている・・
せっかくのデビュー戦は雨のおまけつきか。
この雨はぼくたちの悔し涙となるか、
喜びの涙となるか・・神のみぞ知る?!

到着したホテルの部屋で、
ぼくは右腕を釣ったガムテープをはがして
恐る恐る右腕を伸ばす。やはりほとんど動かせない・・
無理に動かすと思わず呻き声がもれてしまう・・
頼みの綱はヒメネス先生の痛み止めしかないな、これは。
続いてビクトルも剣係の人
(闘牛士の着替えを手伝ったり雑用を済ます人のこと)
といっしょに到着。
剣係の人、パコさんは
ウエルバから100キロ離れた山の中の町
アルモナステールから、
ぼくのデビューの為にやってきてくれたのです。
「タイラのデビューの時は絶対、この俺が剣係をやるんだ!」
と2年位前から言ってくれていた彼。
その日が来ましたよ・・
よろしくお願いします・・

右肩がこんな状態だから、衣装を着るのも一仕事。
パコさんの容赦ない着付けに
時折叫ぶ声あげてしまう情けないぼく。
まったくもって先行き不安なこんな状態でありながらも、
始終冗談や笑い声の絶えない陽気なぼくら!
この明るさの秘密は一体どこにあるのでしょうか(笑)。

着替えが終わり、いよいよ闘牛場へ向かう時間がきました。
さあ、もうぼくたちはやれることはすべてやった。
後は試合で全力を尽くし、幸運を祈るのみ。
ホテルの部屋を出る直前に、ビクトルが一言。

「セニョーレス!今こそぼくらの日本人がデビューする!
 第二級格式のラ・メルセ闘牛場から。
 この日を迎える為にどれだけの犠牲を払ってきたのか、
 様々な困難をのり越えて獲得した、
 ついにやって来たこの今日という日を
 ぼくらはいつまでも覚えていよう。
 そして共に幸運を祈ろう。神の助けがあることを!!」


彼の音頭の後、皆で記念写真を一枚撮るのでした。

闘牛場へと向かう車に乗り込んだ途端、
いきなりラジオからルイス・ミゲルの
「O tu o ninguna -あなた以外は欲しくない-」
というロマンチックなバラードが流れ出す・・
当時ぼくが好きでよく聴いていた曲なのですが、
実にグッドなタイミング。

とても素敵な気分で
試合開始前のひとときを過ごすことが出来ました。
あなた以外は・・「相手」は闘牛だったのかも・・
ぼくにとって。
曲がエンデイングを迎える頃ちょうどに闘牛場の裏口、
闘牛士たちの入場口へぼくらを乗せた車は到着しました。

マスコミの人たちを始め、
友人や知り合いの人たちが
大勢ぼくたちを待っていてくれます。
「おめでとう!」「幸運を!」「がんばって!」・・
抱擁と握手、そしていっぱいの祝福。

入場行進の準備をしながら観客席の方を覗くと、
残念ながらかなり客入りは悪い・・
このラ・メルセ闘牛場は収容7000人以上可能な
大闘牛場なのですが、この日は悪天候にみまわれてしまい、
せいぜい1500人から2000人程度の入りか。
でもそんなことは問題じゃありませんでした。
お隣りのセビリアからは日本人の応援団が
10人位もやって来てくれました。
彼女たちはぼくの負傷を承知でウエルバまで
応援に来てくれたのです。

「たとえ怪我で彼が何も出来なくても、
 たとえ入場行進しか出来なくても、皆で応援に行こう!」
なんか胸が熱くなるような・・

すべてのお膳立ては整いました!


(明日掲載の最終回に、つづきます!)


最終回 わがウェルバには川がある。

降りしきる雨の中、
午後12時に入場行進の曲が華やかに演奏されます。
そしてぼくと他の4人のライバルたちが
砂場へと姿を現すのでした。
観客たちの拍手がぼくたち闘牛士の心を掻きたてます。

念願かなって闘牛場の砂場に立った瞬間に
ぼくが思ったことは、
観客たちはぼくを観に来てくれたのだ。
雨に打たれながらも
ぼくの闘牛を楽しみにしてくれているのだ。

こうして砂場に立つことが出来て本当によかった。
最後の最後まで諦めずにいて本当によかった。

闘牛士なんて星の数程いる・・
でもこの日、この瞬間、この場所に、
このぼくの代わりを勤められる闘牛士なんて
世界中のどこにもいないのだ。
観客は日本生まれの闘牛士、
このぼくを観に集まって来てくれたのだから。

そう思うと圧倒的な誇りと決意が沸いてきたのです。

ぼくの出番は4頭目の牛。
入場行進を終えると直ちにホアキンと共に
ヒメネス医師の待つ医務室へと向かいました。
そして痛み止めの注射を右肩に2、3発!
注射後しばらくすると、あーら不思議!
痛みが急激に消えていきます。
多少痺れのような違和感は残りましたが、
右腕は不自由なく動きます!よーし!

ぼくが再び砂場に姿を現すと同時に観客たちから、
応援のリズムを刻む手拍手が。
皆さん、お待たせしました・・いきます!

その午後4頭目の牛・・ぼくの出番が回ってきました。
嘘みたいな事なのですが・・ぼくの演技開始直前に、
それまで降り続いていた雨が突然降り止んだかと思うと、
青空とまではいきませんが、うっすらとした
明るい光が闘牛場上空にあらわれるのでした。
まるでぼくのデビューを祝福するかのように・・

だから・・ぼくはカポテ(ピンク色の大きな布)を抱えると
牛の飛び出してくる扉に向かって歩き出すのでした。
闘牛学校校長の
「おーい!タイラどこへ行くんだー?!
 戻ってこーい!何するつもりだー!?」

という叫び声が背後に聞こえています。
皆の見守る中、砂場を横切って扉へと近づいてゆくぼくに、
観客は拍手とそして驚きにも似た声援をもって
応えてくれるのでした。

「ポルタ・ガジョーラ」・・
この日の闘牛でこの大技に挑んだのはぼく一人だけ。
前日の試合でそれに挑んだのも、
ぼくの友人でありライバルでもあった
ヘスス・マルケスの一人だけでした。

「ポルタ・ガジョーラ」はテクニックよりも
度胸一発な危険度の高い大技。
闘牛士が勇敢さや決意を誇示する際に
オープニング・セレモニーよろしく、
行われることの多い技。

牛の飛び出してくる扉の前、
数メートルの所で地面に
両膝を着いたまま牛を待ち受け、
荒々しく飛び出して来る牛の動きに応じて
右か左に瞬時に牛を流すのです。

もちろん両膝は地面に着けたまま行わなければならない・・
成功すると、その派手さもあり大変な演出効果が!
逆にタイミングを間違えたらア・ウ・ト。
・・正面衝突となるとかなり悲惨なのです!

きっとその日、ぼくの親しい人たち、
そしてライバルたちの誰一人として
負傷したぼくがそれに挑むとは
考えすらしなかったでしょう。

でも・・ぼくは今日まで草闘牛だろうがなんだろうが、
いつだってこの「ポルタ・ガジョーラ」から
演技を開始してきた。
だからこの状況においても、ぼくが
「ポルタ・ガジョーラ」から演技を開始するのは
自然なことだったのです。

好もうが好まかろうが、
それがぼくの闘牛スタイルなのだから。

飛び出してくる黒い肉の塊、
そしてポルタ・ガジョーラ炸裂!
ぼくはそれを怪我を負っている右腕でやってみせたのです。
見事成功!
「ランセ」と呼ばれるカポテの技をみせる場、
そしてバンデリージャ(銛打ち)の場が終わり、
いよいよぼくの演技のクライマックス、
最大の見せ場となる「ファエナ」
(ムレタと呼ばれる赤い布と剣を用いて行う場)
が始まろうとしています。

この「ファエナ」の前に、
時として闘牛士たちは観客全員もしくは
特定の個人へと牛を捧げることがある・・

ずっと以前から・・ぼくにとっての初めての牛は
ホアキンに捧げようと固く心に決めていました。
このスペインで彼程ぼくを助けてくれた人はいなかった。
親友のビクトルだって他の誰よりもぼくを助けてくれた。
でもホアキンがいなかったら、
ぼくは闘牛士免許を取得出来なかったし、
今日というデビューの日を迎えることも
決して出来なかっただろうから。

皆の見守る中、ホアキンに牛を献呈すると
ぼくは「ファエナ」を開始しました。
・・演技中2、3回は牛による
派手な「引っかけ」にもあいました。
地面に強く叩きつけられたり、
とんぼ返りまでさせられたり。

それでも当時のぼくが持っていた
能力の限界まで攻め続け、必死の演技を続けたのです・・
そして牛を仕留めるまでの間、
ほんの短い時間ながらも、闘牛場の観客たちと
一体になった充足感・幸福感を感じることが出来ました。


演技終了後、ぼくは「牛の耳」を獲得しました。
闘牛士が良い演技、観客の心を掴む感動的な闘牛を行うと、
勝利の証として「牛の耳」が闘牛士に贈られるのです。
二日間に渡り、合計10人の闘牛士によって行われた
今回の闘牛で、この「牛の耳」を与えられた者は
ぼくを含めて4人だけでした。

今思えば・・その午後、
ぼくの演技自体は技術的・経験的にみて、
ひどいものであったことは否定出来ません。
しかし、もっと大切な・・
観客の心を掴んだという点において、
きっとぼく以上の者はいなかった、と。


ぼくは贈られた「牛の耳」を握り締めて、
勝利の場内行進を行います。
雨が・・また降りはじめてくる。
観客たちの温かい声援と喝采の中、
雨に打たれながら砂場を行進するぼく。
闘牛場の楽隊は、ぼくを勝利者として称える
パソ・ドブレ(闘牛用の二拍子の音楽)を演奏します。

あ、この「曲」は・・・

このスペイン闘牛界において、
闘牛収入だけで生計を立てられる
剣士(主役の闘牛士・マタドール)は、
スペイン全土でも数十人程度であるといわれます。
闘牛士は大勢いるけれど・・
闘牛の試合数には限りがあります。

よって試合に出るのは
大変な競争とならざるを得ないのです。
だからほとんどの闘牛士はお金を払って
試合出場機会を購入することになるのです。
そうして試合に出て才能を発揮し、
いつの日か有力な
闘牛代理人(兼パトロンであることも)の
目に留まることを夢みながら・・

見習闘牛士から始めて、
正闘牛士であるマタドール・デ・トロスに到達するまで、
少なくとも3500万円位の
経費がかかるといわれています。
しかも正闘牛士になって
ある程度活躍出来るようになるまで、
ギャラなんてほとんど入らない。

それだけのお金を工面出来たとしても・・
自力でか闘牛代理人の援助によってかはともかくも・・
正闘牛士に到達後、数多くの試合出場に恵まれなければ、
生活すら成り立たないのがこの世界の現実なのです。

もちろん、いわゆるスーパースターと呼ばれる人たちは
大変なお金を稼ぎ出しますけど・・
そんなのはほんの一握りの者だけ。

正闘牛士になるのは、大変な犠牲と幸運、
そして闘牛への献身が求められます。
しかし、真の闘牛士・・つまりお金を稼げる
真のプロフェッショナルとなることは・・
限りなく困難な事なのです。
大金を稼ぎだすスーパースターとなることは・・
ほとんど「奇跡」に近い事・・・

「この闘牛界は俺達みたいに
 気持ちだけで頑張っている者を肥やしにして、
 ほんの僅かな連中だけが甘い汁を吸うんだよ。
 だから・・スター闘牛士たちは異常に輝いているんだ。
 まるで、あだ花のようにね・・」

これは元見習闘牛士である友人の言葉です。

1999年10月17日のデビュー後、
ぼくは右肩の負傷もあって
翌年2000年のシーズンを
棒に振らざるを得ませんでした。
続く2001年のシーズンはヨーロッパ全土を襲った
「狂牛病」がスペイン闘牛界にまで猛威をふるい、
ぼくが出るような小さな町での
見習闘牛の開催数がスペイン中で激減。
出場が予定されていたぼくの試合も
そのすべてが開催中止となるのでした。

現在のぼくは・・闘牛代理人はいない。
お金はまったくない。
この状態で試合出場機会を得ることは、
スペイン人の若者であっても
かなり厳しいものがあるのです。

このスペインで、
ぼくは農場の日雇労働者として働いては、
なんとか生計を立てているのですが、
闘牛活動資金を稼ぎ出すことは事実上の不能状態。
毎日の農作業と練習、そして試合出場チャンスを待つ・・
来る日も来る年も。

闘牛ひとすじに生きてるつもりなのですが、
なかなかこれが報われないものなのです(笑)。

そして2002年・・デビューして3年、
その後1試合すら
出場機会を得ることが出来ないでいたぼくは・・
完全に忘れ去られたぼくは起死回生を図って
「命懸けの売名行為」に挑戦するのでした。

「飛び入り」とは、闘牛の試合中に
観客席からムレタ(闘牛に使う赤い布)を持って
砂場に飛び降りて、強引に牛を奪って演技すること。
もちろん御法度な行為ですし、
それに大変危険な行為でもあるのです。
しかし、ものすごく低い可能性ではあるけれども、
有力な闘牛代理人の目に
留まることが出来るかもしれない・・
そのほんのわずかな可能性の為に文字通り全てを懸ける・・
ある意味でとんでもない行為なのです。

ひと昔前にはほとんど「流行」のごとく、盛んに
この「飛び入り」が行われた時代もあったそうですが、
現代では年に1、2回あるかないかの希有な出来事。
ある意味においてこの「飛び入り」は、
ぼくのような環境に置かれた者にとって
当然の帰結であったのかもしれません。

日本人のぼくがそれをやってしまった・・
それも両膝を地面に着いたまま牛をパセするという、
思い切り派手なやり方で。
東洋人であるぼくの「飛び入り」事件はスペイン闘牛史上、
前代未聞の出来事となり、
スペイン中のマス・メデイアが
連日盛んにぼくのニュースを取り上げるのでした。

しかし、それも束の間の出来事・・肝心の
闘牛代理人候補と出会うことの出来なかったぼくは、
この大チャンスを失うことを、
指を咥えたまま見逃すほかなかったのです。
でも、チャンスはまた来ると思っています。
ぼくがそれを望み、
諦めずに常に前進を心掛けている限り、
きっとまた必ず。


今、ぼくは・・今年の夏(来月?)に
ウエルバ県内の某町で行われる
闘牛フェステイバル試合へ出場することが
濃厚となっています。
ぼくの友人ビクトルが6年前の1997年・・
ぼくが初めてスペインに来た年なのだけれど・・
にデビューし大成功を収めたのがこの町の試合。

この試合、出される牛は1頭・闘牛士(主役の剣士)も
一人だけという異色のフェステイバル試合なのです。
その町の1年間の豊饒を祈願して・・
毎年、伝統的な行事として行われている
闘牛フェステイバル。

試合の日、その町に到着した闘牛士は
トラへ・コルトと呼ばれる
上着の短いアンダルシア風乗馬服を身にまとい、
2名の銛打ち士(助手)を引き連れ、
まず町の教会へと向かいビルへン(聖母)に
無事と試合の成功を祈ります。
その後、町の人たちと闘牛場まで歩いていくのですが、
後ろからは闘牛場の楽隊が華やかな音楽を奏でながら
ついてくる・・最初から最後まで実に美しい1日。

ぼくはこの試合への出場を実に6年間待っていて・・
ついに今年その夢に手が届こうとしています。
山の中の小さな町、入場料無料のフェステイバル試合で
闘牛場の観客収容可能数はせいぜい800人程度・・
それでもぼくにとっては
セビリアやマドリッドの格式高き大闘牛場に出場するのと
同じくらい・・ひょっとしたら心情的には
もっと大事なのかも・・意味のあることなのです。

ぼくはそれを大いに楽しんでやりたいと思っています。

あの日、デビュー戦の時もぼくは大いに楽しんだものです。
演技終了後、贈られた「牛の耳」を握り締め、
場内を行進するぼくに闘牛場の楽隊が音楽を演奏する。

この曲は・・
「Mi Huelva tiene una ria 我がウエルバには川がある」
だ・・ウエルバ産の
パソ・ドブレで、ウエルバで最も人気があり、
また最も有名な曲でもある。
普段この曲はウエルバ出身の闘牛士を称える為に、
このウエルバの闘牛場で演奏されるものだ。

この曲がウエルバ出身の若者たちを差し置いて、
このぼくを称える為に演奏されたってこと・・
これはちょっと自慢したって
良いことなんじゃないだろうか?
・・・

誰に頼まれた訳でも、期待された訳でもなく、
ただ思い込みだけで
スペインへやって来て闘牛を始めてしまったぼく。
元々、ぼくが闘牛士になる
何の必然性がある訳でもないし・・
スペイン闘牛界は日本人闘牛士なんかいなくても、
ちゃんとやってゆけるのだ(笑)。
ぼくなりに・・様々な事を犠牲にして
闘牛士を目指しているのは、
ぼくが自分で勝手に好きでやっていることであって、
それ以外の何物でもない。
簡単に達成出来るものだったら、
きっとぼくはこんなにも夢中にならなかっただろうし、
負け惜しみでは決してなく・・
どうせなら嬉しいことも辛いことも、
全部ひっくるめて楽しみたいものですよね。

けれども・・
「なかなか試合にも出れないし、ド貧乏なだけの
 毎日だけれど好きな事やって生きてるから、
 ぼくはとってもハッピーなのさ♪」
なんて言うつもりはこれっぽちもありません(笑)。

今、ぼくのがやっている事を
他の何物とも取り替えるつもりは
もちろんないけれど・・現状に満足してはいませんし、
満足してもいけないと思っています。
それでは決して上に上がれないから。
あくまで「過渡期」なのだ、ぼくの置かれている現状は・・
それにしてはいささか長いのだけれども(笑)。

知り合いの正闘牛士の言葉なのですが、
「この世界、この闘牛界では現実に金を稼ぐことだけが
 唯一の真実なんだ。それ以外の事は全部嘘っぱちなんだ。
 たとえどんなきれい事を言ってみたところでね・・」
ぼく自身、この言葉に反発する部分もありましたが、
今ではこの言葉を正しいものと受けとめています。
決してお金の為に始めたことじゃないけれど・・
この世界で生きていく以上、どうしても
お金を稼げるプロフェッショナルになりたい。

それでもいつの日か・・
ぼくが資金難その他の問題を解決し、
史上初の日本人正闘牛士・・・スペイン人であっても
到達困難であるマタドール・デ・トロスへとなる日が
来るのならば・・ひとりの、ごく普通の・・
宿でシャワーのお湯すら
出せなかったこのぼくがですよ?(笑)
・・一個人の限りなき可能性のようなものを
考えてみた場合、それはそれでまた
充分素晴らしいことなのではないかと思っています。


(おわりです。ご愛読、ありがとうございました!)