荒俣宏、インターネット荒野への旅

(雑誌『編集会議』の連載対談まるごと版)

第8回 多重人格と、商品以前の企画。


(※インターネット論になってきたところで、
  ネット社会で人が何をするかというような
  パソコン雑誌のよろこびそうな話題になるよ。
  だけども、やっぱりこのふたりなので、
  先端技術の成り行きというよりは、
  生き方の方向に話が進んでいくのです。
  どうぞ、おたのしみくださいませ)

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荒俣 IT革命が革命かどうかは別にして、
ぼくが見る限りでは少なくとも最近の変化は、
人間の業のごく自然なプロセスであって、
もうこういう方向に行くのは、2000年くらい前から
あらかじめわかっているという感じがします。
最初は、みんな文字が読めなかったですよね。

しかも、文字を読めても、その意味や
昔の格言だとかソクラテスが誰かがわからないと
読んでいても意味がないので、そうなると
当時の1億人もいなかった人類のうちで
本なんてものが必要だったのは、
たぶん10人か20人くらいじゃないでしょうか。
糸井 うん。
荒俣 だから当時は粘土版でよかったわけです。

それがだんだん、印刷でコピーを取るようになって
字を読みたくなる奴が多くなった。
でももともと根本的に必要なアイテムではないから、
本を読むのに動機やこだわりが要ることになる。

「知恵を得るためには読書だ」
みたいなところで、みんな勢いをつけて
要らないはずの読書に携わったのだけども、
その勢いをもう少しうまくやる方法が、
本の幻想の低下によって
出てきたんじゃないかとぼくは思います。

ネットくらいになると幻想がないから、
エネルギーの使い方がずっとうまくなった。
切り貼り自由というようなことは、
昔の本のルールからすると反則だったのだから。

我々は、
人間の業の最終レベルの一歩手前くらいまで
辿りついているというような感じがします。
糸井 辿りついてますよね。
荒俣 この辿りつきかたというのが、
我々人間にとって本当に幸せなのかどうかは
なかなかむつかしいところです。
そこそこ業が深いのはいいのだけれども、
あまりにも深すぎると自滅してしまう。
最後の一歩はどこなんだろうというところが
次のステップなのではないかと思います。
糸井 つまり、何もかもが解放されちゃった時に
自分が生きてるところがわからなくなるような、
そうなる予感は、もうすでにありますよね。
荒俣 ええ。
糸井 「トゥルーマンショー」を見て
ぼくらは笑うけれども、
見ているという意味では
すでにそれと同じ世界を体験しているわけで、
どこまでが「最後の一歩手前」なのかは
判断がなかなかむつかしいです。
荒俣 今は、ハード面の
メモリやディスクの容量をでかくしたり、
機械の速度を早めることを進めているけれども、
人間がそれを超える量を使いたがりますよね。
だから、これはだめだ、次のコンピュータ、
というようにうまい具合に幻滅せずにすむけれど、
たぶんそのうち、人間の知識をすべてつめて、
いろんな人のホクロやワキの下の毛などを
みんな集めても、それでもまだまだ
容量がたくさんあまっているようになったら、
人間が進んでいい最終レベルの時だと思うんです。
・・・その時が来たら、
自分のパーツから提供できるものが
なくなってしまうのではないかという気がします。
糸井 自分のパーツが出せなくなる時期が来るというのは、
けっこうインターネットをやった人は、
みんな考えているところですよね・・・。

つまり、情報を出し入れしている以外の時間に、
自分が何を求めているのかを、それぞれの人が
本気で考えなければいけなくなってきますもん。

幸せ観とか世界観とか人間観とかいった、
高校の倫理の先生が言うようなことを
自分で一から組み立て直す必要が出てきたというか。
それぞれで、生きるためのプライオリティを
どっかのところで曲がりなりにも決めていくのが、
避けられない自分自治なんだろうなあと思います。
荒俣 パーツで言うと、インターネットには
いろいろな個人のパーツが出ているんだけど、
このパーツがほんとかどうかが
実際には分からない・・・。
ただ、一つは言えるのは
インターネットに出てきたものは
嘘であろうが本当であろうがデマであろうが、
まあ情報であることには違いないわけです。

この雑多な情報を組みあわせて
嘘どうしでつなげたものが、もしかしたら
パーツとしては嘘かもしれないけれども、
トータルとしては何も嘘ではないものが
できてくる可能性があります。
それがおもしろい。
糸井 覆面レスラーの登場みたいなもので。
荒俣 インターネットができて、
使う人にとっておもしろいのは、
自分で覆面レスラーになれるところですよね?
糸井 そうですね。
荒俣 もっと言うとマリリンモンローにさえなれる、
つまり、ネットの中での自分を作れる・・・。

ここ10年くらい、
自分好みの女子高生を育てるゲームが、
よく流行ったじゃないですか。
ファイナルファンタジーにしてもやはり、
自分の好きなキャラを設定して、
その点数をあげて、バーチャルな中での
主人公を育てるゲームだったんだけども、
これからネットの中では、いろいろなかたちで
自分を育てることになるんですよね。
それはたぶん、嘘の自分でもいいわけです。
そうすると、自分が2倍になる。
糸井 自分で自分を編集していくんですよね。
荒俣 裏自分と表自分というか、
プリティ自分とダーティー自分みたいなものが
どんどんできてきますよね。

さっき、パーツが尽きるとぼくは言いましたが、
それは本当の自分という点でなので、尽きた時に
今度は自分パート2を出せば、それを出しただけで
自分のフェイズを変えることが可能になります。
この「リアリティではない」というところが
非常に重要なポイントになると思うんですよ。
糸井 なるほど。
ただ、実は言うとぼくは、インターネットで
発信しはじめたのが98年の6月なのですけれども、
そこで自分なりには、休まないと決めたんです。
休まないことの恐ろしさは、
多少ともものをつくって来た人間には
もう充分わかっていることですよね?

だからぼくも可能ではないということも
考えにいれていたんです。可能じゃない時には
たとえ1行だけ「今日の朝飯」を書いてでも、
とにかく多少なりとも更新してみようと考えました。
それがいつ果てるかと思いながらやってるけど、
これが・・・果てない。

怖かったんだけど、
「できなかったからやめました」
と書くことも含めてスタートしてみたら、
実は、書けなくなることがなかったんです。

今は2年半ですけれども、
たぶん、100年でも続けられますよ。
だって、その時々の俺がやっていることや
俺の考えていることって、
何かしら違ってきますから。
荒俣 昨日の自分と今日の自分で、
もうバージョンが変わるわけですか。
おなじことを書いても、違うわけですね。
糸井 そうなんです。
そこで、カラになることの恐怖から
ぼくは解脱できると思いました。
荒俣 みんな、それで苦労してるもんね(笑)。
糸井 そう!(笑)
荒俣 みんな、文章を書く人たちは、ネタと称して
いろいろ仕入れなきゃいけないと思ってますから。
糸井 そうそう。
ネタを仕入れて自分を工場にして
そのサービスを商品化して発信するという
これまでの考えそのものが、
工業化社会的な発想の表れなんじゃないかなあ。
荒俣 まさにそうですね。
糸井 仕入れに対する怖れはなくしたところで
何かをするという時の気持ちが、
これはもう一つ別の恐ろしさや楽しさを
味わえるという気がします。
そこが、ネットのすごいところで。

ぼくは自分自身が進化したとは思わないけれど、
ネットで毎日吐き出していくことで変わったのは、
さっき「本は一行でいいです」とおっしゃっていた
その「1行の本」が、山ほど増えていったことです。
人にひとり会うごとに、また本が一冊増える。
荒俣 1日1行1冊書いてるようなもんだ。
糸井 そうですね。
実際、人に会うことが随分おもしろくなったし、
ちょっと危なく見える仕事でも
引きうけちゃったほうが自分で楽しめるぞ、
と思えるようになっちゃっていました。

「ここで俺のネタの何を出そうか」
というような考えかたを昔はしていましたが。
荒俣 だいたい、若い時にはそんなものですよね。
糸井 何かを人と人とのあいだでひっぱりあっていれば、
そのひっぱりあいだけでも充分に注目される。
今までは商品のかたちをしていないものが
迷惑がられていたけれども、
これからは、それもそのまま出せるんです。
荒俣 それ重要だなあ。
さっきの書物と人格の問題につながると思いますが、
つまり、完成品を発売する必要が
なくなってきたんですよね。

(つづきます)

インパクはこちら。

2001-01-08-MON

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