信頼の時代を語る。
山岸俊男さんの研究を学ぼう。

第5回 しあわせな社会って、実は、何だろう?


(※「利己的な人間だけど、実は、
   信頼したほうがうまくいくの?」
  「正直なほうが、楽しくやれるの?」
  そんな研究をしている社会心理学者の
  山岸俊男さんと、darlingの対談です。

  今回は、直球です。
  「進化の過程で発達させていく社会が、
   実際にはどのようになっているか」
  の状態は、もしかしたら、人間の脳には、
  幸せを生まないのかもしれないぞ、
  というところも含めての話です。
  ・・・「しあわせ」って、何だろう?)

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山岸 私が以前「信頼の構造」に書いた社会は、
色々な制約がなくて、かなり自由に
好きなことができるわけですから、
今の我々からは望ましい社会かもしれません。
ところが、これが本当に、人間にとって
幸せな社会なのかどうかということに対しては、
私は、ものすごく強い疑問を持っています・・・。
つまり、人間の脳は、
そういう環境で幸せになるようには、
たぶん、できていないと思うんですよ。
糸井 それ、おもしろいなあ。
おもしろいし、怖いなぁ。
山岸 そこのところは、
私自身が抱えている、ものすごいジレンマです。
つまり、たぶん人間は500万年の歴史の中で
たぶん99.9%位は集団主義の社会だったわけで、
人間は、そういう集団主義の社会の中で
行動していると幸せになるように作られている。

だけども、その昔のままの仕組みでは、
今の社会の運営はできなくなって、そこで、
今の社会を運営させる仕組みがあるだろうと・
・・・そう考えてみると、妥当なのが、
ある種の知性を働かせて、
信頼を生み出していくような社会で・・・。
だけど、ほんとうにそういうところで
人にとって幸せな社会になるかどうかは、
まったくわからない。 
糸井 そのジレンマは大きいですよね。
山岸 だから、私自身は
害悪を流すような研究をしているのではないか?
という気が、しなくもないですね。
糸井 そこで早急に答えを出そうとしてしまうと、
相当に乱暴なことを言わないといけなくなるし。
山岸 だから短期的な予測には使えないんです。
糸井 とすると、今の視点は
ジレンマとして仮にとっておくにしても、
自分の命が限りあることを指標にして考えると、
できることならばこうしたいもんだ、という、
別の話が生まれてきますよね。

少なくとも、今のかたちで固定されているよりは、
寝がえりをうっていたいというような、
個人としての情熱みたいなものが、
また、別にありますよね・・・。
そのへんは、また、どうなのでしょうか?
山岸 それは、研究に入る動機について、ですか?
とにかく今は、謎解きというのがおもしろいです。
糸井 前にぼくは、いつ地球が滅ぶのかを、
人類は全員が知っておいたほうがいい、
と思った時があって、天文台の人に聞いて
「ほぼ日」に掲載したことがあるんです。
そしたら、50億年で。

いろいろなものごとが、
あたかも永遠に続くと見なしている幻想が、
今を我慢させるという不自由を、
人にものすごく強いているように思えるから。
ともすれば、その永遠のために今を犠牲にして
エコロジーやその他のものに対して、
何かと奉仕しなければいけない状態というのは
ぼくは、すごく嫌だから、それに対して
「でも、地球だって、終わるんだよ!」
と宣伝したい時がありました。

そのへんで言うと、
非常にクールで科学的なお話とは別に、
「俺は今うまいものが食いたいんだ」
「今、友達とたのしくやりたい」
というようなことと研究とのせめぎあいは、
やっぱりあるのですか?
山岸 私自身ずいぶんわがままな人間ですし、
勝手なことをやってきていますし、ある意味で、
世間の常識とはずいぶんずれた生活をしています。
そういう意味では、やりたいことは
それはあると思うんですけど、
でも私はやはり、研究していくことが、
なにものにも代えられず楽しいわけです。
どうしてこんなに楽しいのか、わからないんです。
そんなに研究を楽しんでいることに対して
不思議だと言われれば不思議でしょうけども、
研究って、いろいろな楽しさがあるんですよね。

ひとつはすごく単純なゲームとしての楽しさ。
他の人よりうまくやったという、
戦国時代の武将が
「やあやあ、我こそは・・・」
と言うような楽しさですよ。
あとの楽しさは、もうひとつ、
本当に自分にとって意味のある問題を見つけて、
たぶん、解答なんて見つからないんですけど、
納得できる解決に向けて
近づいていっているという感覚だと思います。

私が研究をしていて一番おもしろいことは、
新しい考え方を作り出して、常識的なものの見方を
変えさせていくというところにあると思います。
そういう意味では、科学と文学は、
そんなに違わないかなという気がしています。

私も若い頃には
文学をやりたいなあと思ったものですから、
文学で何かを作るということを、
文学の才能がなかったものですから、
別の手段でやっているんだと思っています。
ですから、今、時間がたくさん与えられたら
あなたは何をやりたいですか?と聞かれれば、
私は、やはり研究をしたい。
すごく変な態度かもしれませんけれど。
糸井 なるほど!
研究自体がそれだけ楽しいので、
そこからいろいろなことを生んでいるわけですね。
実験の方法も、昔に比べたら、システムが
とても高度になっていくわけでしょうし。
山岸 実験というのは、ほんとうに職人仕事です。
研究のおもしろさの一つでもあると思います。
つまり、実験の結果を外から見ると、
その方法がとても何気なく目に映るのですが、
実はそこに至るまでの、方法を選ぶまでの
ものすごい試行錯誤が含まれているんですね。
そこがすべて研究者の手作りで、
学生は、そこのところを、ほとんど徒弟のように
先生のやっていることを見ながら
「こういうところを気をつけなければ」
というように学んでいるので、実験には
ほとんど文学作品を作るような楽しさがあります。
糸井 へえ〜。
はじめてお会いした時に思うんですけど、
まるでウィトゲンシュタインみたいですよね。
社会的事象の一つ一つというものは、
山岸さんの興味の対象から外れているんですか?
山岸 いや、そういうものでもないのですが、
今見ているものの見方だけではなくて、
もう一回突っ込んでみたら、どう見えてくるのか、
そこに一番興味があります。
糸井 時事に則して何かを考えることはあります(笑)?
山岸 ははは(笑)。それはしますよ。
糸井 いやあ、おもしろいなあ。
話を聞いていると、まるでUFOから
地球を見ている方のような気がしたから。
そこがまた、聞いていて
気が遠くなるたのしさがあるんですけど。

ぼくのレベルで言うと、
まずは社会に対して、いちいち何か感じますよね。
そしてその感じたものが、今までの枠組みの中で
簡単に解説されているのをどこかでぼくが見たり、
今までの枠のままで怒っている人を見かけたり、
あるいは工夫している人を見たりしますが、
そんな中で、
「でも、そういうのって、もう前に
 さんざんやり尽くしたじゃないか?」
と感じて、取り残されたりします。
ものを考えることは、
必ず取り残されることのようで・・・。
そんなぼくが山岸さんの話を聞いていて
すごくおもしろいのは、ものすごい遠くのほうで
星を見ているように人を見ているんですよね。
山岸 (笑)いやあ、まあ、
そうなんだと思いますけどね。
糸井 その星の部分があって、
でも、例えば山岸さんも、ふだん、
「何を食べたい」
とかいうような話もするんですよね。
そのふたつの間を往復している・・・
そこに非常に個人的に興味がありますよ。
ぼくは、そうやって往復すること自体が楽しい。
自分はたぶん根っこに商人の感性があると思う。
ぼくにとっては、
交流だとか交易のそれ自体が楽しいんです。
山岸さんが研究を楽しいとおっしゃるように。
(※次回掲載の対談に、つづきます。
  それにしても「研究が一番楽しいです」と、
  言った時の山岸さん、きっぱりしてたなあ)

2000-11-27-MON

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