MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

『あの日、以来』

あの日以来、たくさんのことを考えてきたはずなのに、
少しずつ忘れてしまいそうになる。
もう一度、あの日のことを思い出してみた。

あの日は、管理会社の人が
ベランダの屋根を調べにくる日だった。
彼らは入念に塗装の剥がれ、ヒビなどを調べ、
写真を撮って帰って行った。

僕はベランダにいて、ぼんやりと外を眺めていた。
開けっ放しの引き戸のガラスがカタカタと鳴り始めた。
「うん? なんだろう?」
始めは地震だとは思わなかったが、
すぐにベランダの揺れに気付いた。
その時点では、
「地震かぁ」
くらいにしか思わず、ゆっくりと部屋に戻った。

リビングに戻ってすぐ、ものすごい揺れがやってきた。
これまで経験したことのない揺れに、
僕は何もできずにしゃがみ込んだ。
それでも、前後にグラングランと揺れて
今にも倒れそうなテレビを右手で押さえ、
左手で食器棚を押さえていた。
食器棚の横を、テーブルが滑るように
行ったりきたりしていた。

向かいのマンションから、女性の悲鳴、
泣き叫ぶような声が聞こえてきた。
見ると、赤いセーターを着た女性がベランダに出て、
悲痛な声で泣いているのだった。

その声を聞いて、姿を見て、
少し我に返ったのかもしれない。
「テレビや食器棚を押さえていているより、
 テーブルの下にでももぐった方がいいかも」
もぐってはみたが、強い揺れは続いていた。
「あぁ、これで終わりかなぁ」
これが、心が折れるという状況なのだろうか。
諦めるとか観念するというより、
まさに心がポキンと音を立てて折れたような感じだった。

心が折れたからか妙に冷静になって、
誰かにせめて電話でお別れをしようと
ポケットから携帯を取り出した。
だが、携帯電話は使えなかった。
どういう状況で使えなかったか、思い出せないでいる。
使えないというアナウンスがあったのか、
ただボタンを押しても反応がなかったのか。

使えない携帯電話の明るい画面を見ながら、
独り言のように
「どうも、申し訳ないけど、こんなことになって、
 どうやらお終いみたいなので、
 ありがとうございました」
などと心の中でつぶやいていた。

はて、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
揺れは収まり、僕は怪我もないままテーブルの下にいた。
周りを見ると、テレビも食器棚も無事だった。
ただ、キッチンの上や棚に置かれたグラスなどは
床に落ちて割れていた。
以前から言われていることだが、
高いグラスは粉々に割れるが
安いものは落ちても傷さえないのだった。

僕はベランダに出た。
あの赤いセーターの女性はもういなかった。
ほうきとチリ取りを持ち、
サンダルのまま部屋に入って割れた
ガラスを片付け始めた。
缶ビールが入っていた段ボール箱にゴミ袋をセットして、
そこにガラス片を入れた。
ガラス片の入った段ボール箱が2個になった。

やっと、喉が渇いているのに気付いた。
キッチン戸棚のグラスを取ろうと開けた瞬間、
中のグラスがダム決壊のように落ちてきた。
また再び、ほうきとチリ取りを手にガラス片を片付けた。
今度は紙袋にガラス片を詰めた。

廊下に出て、隣の部屋、ベッドルーム、玄関を見てみた。
それでやっと、リビングがいちばん無事だったと気付いた。
部屋は本棚が倒れ、ベッドルームは
洋服ダンスが入り口を塞いで中に入れず、
様子さえ見ることができなかった。
玄関に横に置いてあった大きな鏡が斜めに倒れていて、
その下をくぐって玄関を出るしかなかった。

夕方以降の記憶は、曖昧のままだ。
緊急用のリュックを作り、
ソファーで洋服を着たまま眠ったのは覚えている。
ビールとかワインとか飲んだのだろうか。
眠れたのかどうか。

翌日、友人が訪ねてきた。
彼女の実家は福島の楢葉町で、
家族とまだ連絡がつかないでいた。
何も喉を通らず、水さえも飲まないという状況だった。
そこで、僕たちがお茶や食べ物を用意したのだった。

彼女はテレビ画面に映る惨状を見つめ、
離さず持った携帯で家族に連絡をし続けた。
僕らは言葉もなく、ただ見守るしかなかった。
肉親の安否が分からないと、
人は寝食を忘れてしまうのだと知った。
涙も出ず、押し寄せる黒雲のような不安に
潰されそうになっていた。

後日、彼女はやっと実家の家族と連絡が取れ、
全員の無事を確認できた。
今も大変な状況であるのは変わらないものの、
家族それぞれが前に進み始めているらしい。
お兄さんは介護士で、楢葉町の施設から
老人たちと千葉県に避難している。
老人たちと作った歌を
一緒に歌う取り組みをしているお兄さんが、
『復興歌集 さとう』というCDを出した。

生まれ育った故郷、あの日、あの日以来、
そして今、その全部がぎっしり詰め込まれたような
5曲の歌。
折れても少しも不思議じゃないのに、
折れなかった心が聴こえてくる。

大切にしていた物は壊れてしまい、
あれこれ見失いなくしてしまった僕のところに、
温かな歌が届いた。

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2012-03-25-SUN
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