MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

『不安を消すマジック?』

大学教授のHさんと、
次回の東北訪問の打ち合わせをした。
いつものように話は多岐に渡り、時間を忘れて話し合う。
私は先生に打ち明けた。

「実はね、僕はあの日以来、漠然とした不安感に
 襲われてるんですよ」

あの日、私は自宅にいた。
まったくの偶然なのだが、あの日の午後は
自宅マンションのベランダの外壁などに
ひび割れがあるかどうか、
管理会社がチェックする日だったのだ。
地震の後にする外壁のひび割れのチェックを、
地震の直前にやっていたのだ。
私は、男性ふたりが壁をコンコンと軽く叩きながら
音を聴く作業をぼんやりと見ていた。
「別に、問題箇所はありませんでした」
彼らは部屋を出て行き、私はベランダに戻って
植物の水やりを始めた。

しばらくすると、ガラス窓がガタガタと音を立て始めた。
「あれっ、地震かなぁ」
そう思い、部屋に戻った。
その直後、大きく、これまでに経験したことのない揺れが
始まったのだった。
テレビが前後に揺さぶられて倒れそうになり、
慌てて押さえた。
横にある食器棚は左手で押さえた。
テレビも食器棚も、私の体も激しく揺れた。
重いテーブルが、リビングを滑るように
行ったり来たりした。
色々な物が落ちる音に混じって、
隣のマンションのベランダで
泣き叫ぶ女性の声が聞こえた。
女性は誰かに助けを求めるように泣き叫び、
私はその声を聞きながらおろおろとテーブルの下に潜った。
「あぁ、これでお終いか」
そう、覚悟さえした。

「あたしはねぇ、大学の自分の部屋にいたのね。
 初めて、本が凶器になるって分かった。
 本当に、本棚から飛び出して来るのよ」

互いに怪我もなく無事でなによりなのだが、
やはり精神的なショックは消えていない。
そのショックは、漠とした不安となって時々蘇るのだ。

「これはね、あたしの友人が言ってたんだけどね。
 まず、朝起きたら、
 今日起きるかもしれない最悪の事態を考える。
 想定外、なんてことのないよう、
 最悪の事態を想像してみる。
 それでね、その後は、
 『うん、どうやら大丈夫かな。いいかもしれないなぁ』
 みたいに明るく考えながら一日を過ごす、と言うのよ。
 そうすれば、漠然とした不安を感じないと言うの。

 きっとね、誰だって最悪の事態なんか考えたくない。
 でも、地震のことを完全に忘れるなんてないから、
 時々不安になるでしょ。
 だから、まず最悪を考えて、
 そこから一日をスタートさせるのよ」

毒には毒をもって制する、ということだろうか。
悪夢のような経験を忘れようとするのではなく、
むしろ強く意識する。
それでこそ日々の平穏を確かに実感できて、
明るく前向きに生きられるということなのだろう。

私は大いに合点した。

芸人たるもの、常に楽天的でなければならない。
「もし、ウケなかったらどうしよう」
「失敗して、客の選んだトランプが
 分からなかったら・・・」
などと悲観的に考えていたら、
とても舞台に笑顔で登場などできないのだ。
「はっはっは、なんとかなるさぁ。
 トランプが何だか分からなかったら、
 必ず僕が謝ります。あはははは」
長年の楽観主義はすっかり身に付いて、
舞台や高座、ステージには不安のカケラもない。
だが、芸人の人生も舞台と高座とステージで
成り立っているわけではない。
むしろ、それ以外の時間の方が圧倒的に多いのだ。

H教授のありがたい個人授業は更に続いて、

「『人間は考える葦である』って言うでしょ。
 宇宙から見れば人間も葦も変わらない、小ちゃな存在。
 だけど、人間の頭脳は宇宙の果てまで
 際限なく考えられるわけでしょ。
 だから、変なことも考えてしまうんだけどね。

 でもまぁ、今は宇宙まで考えなくて、
 東北のことを考えましょ。
 近々、一緒に行きましょ。
 笑いこそ、みんなの不安を打ち消す
 最良の方法なんだから」

H先生はコーヒーを飲み干して、

「あたしもね、最悪を想定してね、
 対策を常に考えるようにしてる。
 想定外なんて、あってはいけないんだから」

レストランを出て、駅に向かうことにした。
すると、

「あれ? 駅ってどっちだっけ? あれ?
 出口が違うと分からなくなっちゃうわね。
 ねぇ、どっち?」

想定外の事態に、たちまち不安に陥るH先生であった。

このページへの感想などは、メールの表題に
「マジックを読んで」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-10-09-SUN
BACK
戻る