MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

『続・幻想美術館』


久美子は、彼女のために用意された椅子に座っていた。
椅子の前には『冷たい花火』と題された絵画があった。

細く、長いグラスの底に、
シルバーの指輪が沈んでいる。

グラスにはシャンパンが注がれていて、
小さく繊細な泡が表面に向かって浮かんでは消えている。
グラスの横に灯るキャンドルの赤い炎に照らされて、
シャンパンの泡はまるで花火のよう。

「グラスの中の指輪は、
 好きになった女性にプレゼントするはずだったんですね。
 ところが、女性は別の人を好きになって、
 彼のもとを去ってしまった。

 彼はふと、一緒に飲むつもりだったシャンパンのグラスに
 その指輪を沈めてしまった。

 すると、指輪から小さな泡が浮かんでは消えるのですね。
 彼にはその泡が、花火のように見えたのですね。
 大きな音とともに、燃え上がるように美しく熱い花火。
 そんな花火とは違って、はじける小さな音。
 それに、決して燃え上がることのない、
 グラスの中の冷たい花火。

 とても美しい絵なのに、
 冷たい寂しさに満ちてますよね」

老人は、ある哀しい恋を物語るように
この絵画の秘密を解説してくれている。
久美子はスワンチェアーに深く身を沈めて、
恋の物語に耳を傾けていた。

「さぁ、ちょっと冷え過ぎかもしれないけれど、
 どうぞ」

スワンチェアーの久美子に、細く長いグラスが渡された。
絵の中のグラスと同様に、
小さな泡が花火のように浮き上がっている。
グラス越しに絵を見ると、絵の中の泡とグラスの泡が
混じり合っているかのようだ。

「本当にね、この絵を見ると、
 シャンパンが欲しくなるのですよ。
 お昼に、この絵を見ていてね。
 その時には、なぜかそう思わないのに、
 店を閉めて、照明を落とそうとすると、
 絵が話しかけてくる。
 『お願いだ、今夜もシャンパンを1杯だけ』
 そんな風にね」

久美子はスワンチェアーから立ち上がり、絵に近づいた。
グラスを、絵と乾杯をするように掲げた。
老人も、久美子と絵に向かってグラスを掲げた。

「さて、何に乾杯しますかね。
 今宵の、静かな夜に、ですかな」

シャンパンの冷たい泡とともに、
仕事をしている中で刻まれてしまう様々な記憶が
温度を失い、消えて行くよう。
今までだって、何度もシャンパンを飲むことはあった。
でも、それはほとんどが
お仕着せのパーティの席でのこと。
グラスの中の小さな泡立ちなんて、
いつも気に留めさえしなかった。

「さて、今宵は変な料理をこさえてみましたよ。
 白ワインも開けたし、さぁ、こちらでどうぞ」

老人が、とても嬉しそうにポール・ケアホルムの椅子に
手招きをしてくれている。

白ワインのグラスの横の白いお皿に、
白身魚のカルパッチョのように見える料理が盛られている。
本当に、老人が作るお料理は絵画のようだ。
白いお皿のカンバスに、淡い白や鮮やかな黄、
濃い緑の色が点描のように描かれている。

「これも、私のまかない、ですが。
 さて、今夜はカルパッチョが食べたくてね。
 魚屋さんを巡ったのですが、魚が高い。

 で、ちょっと珍しい、自己流のカルパッチョを
 こさえてみましたよ」

白身魚のように見えたものは、
もちもちとした歯触りがする。
淡白な味わいなのだけれど、
オリーブオイルとルッコラの苦さの中で、
このもちもちとした味わいが勝ち残るよう。

「ふふふ、タネ明かしをしましょうか。
 実はね、この白身は鳥のささ身なのですよ。
 そいつをね、
 薄くなるまで包丁の背で叩き伸ばしてね。
 あとは普通のオリーブオイルと野菜でおめかしを」

不思議な味わいの残るもちもち感は、ささ身だったのだ。

テーブルに、もう一皿が運ばれてきた。
今度は、何だろう?
見た目は、イタリア料理のフリットのようだ。
お皿から香ばしい香りが漂ってきて、
ほのかにチーズの香りもする。

「ふふふ、これはね、
 かまぼこをフリットにしてみました。
 かまぼこを細く切って適当に束ねて、
 パン粉にはパルメジャーノをすり入れてみましたよ」

このフリットも、もちもちした食感が美味しい。
確かに、この歯触りはかまぼこ。

「あまのじゃく、なのかな。
 自分で作るとなると普通じゃつまらない。
 ちょっと変わったものを、こしらえてみようと」

「私は、このギャラリーの管理人でして。
 オーナーではないのです」

老人は、白ワインを飲みながら久美子の問いに応え始めた。

以前、ふらりと立ち寄ったこの店の
オーナー夫婦に気に入られ、
ギャラリーの運営を任されたとのこと。
以来、オーナー夫妻が亡くなった後も
ギャラリーを守ってきたのだという。

夫妻には娘さんがいるのだが、やんちゃな性格で
親と仲違いして海外へ移住してしまった。

「でもね、こうして時々、
 美味しいワインを送ってくれるのですよ。
 本当は優しいお嬢さんなのにね、
 やっぱりへそ曲がりなのかなぁ、
 お父さんお母さんの前になるとすごく反発してね。
 絵画を観る目だって、親譲りなのに。
 人間て、本当に不思議なものですよねぇ」

親子で反目し合うことはあっても、
このギャラリーに飾るべき絵画は
夫妻もお嬢さんも意見が一致しているという。
人間て、本当に不思議。

「昨日、貴女を窓の外に見た時、本当に驚きましたよ。
 ヨーロッパに行ったきりのお嬢さんが
 帰ってきたのかと思って。
 すぐに、違うとは気付きましたが、
 本当に雰囲気が似ていらして。
 それで、ついついお誘いをしてしまいましたよ。
 このギャラリーは日曜日だけお休みしていますが、
 私は年中無休でここにおります。
 気が向いたら、いつでもこの絵画と、
 私のまかないを味見にお越し下さいね」

久美子は、初めて自分の容姿を喜ばしく思った。
どんなお嬢さんなのかは分からなくても、
この老人にも、当然だけれどご両親にも愛されている女性。
そんな女性に似ているという、私。

その夜、久美子は不思議な夢を見た。

老人は、額の中で1枚の絵画になっている。
逆に、絵の中のマジシャンは生身の人間になっていて、
ポール・ケアホルムのテーブルにトランプを広げている。

久美子はスワンチェアーに体を沈めて、
絵に向かって話しかけた。

「今夜は、何を作るのですか? 」

絵の中の老人は、ただ黙って微笑んでいる。

                  (つづく)

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2011-08-14-SUN
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