MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

『奇妙な一日』


夕刻、いつもの店でビールでも呑もうと出掛けた。
葉山で穫れた新鮮な魚が自慢で、
特に生しらすが美味い店だ。
ところが、いつもの店はシャッターが半分降りている。
シャッターをくぐって、二階へと続く階段を見ると、
薄暗く電気が点いていた。
今日が定休日のはずはない、私はそのまま階段を昇った。

店の入り口の引き戸に手をかけると、
扉はあっさりと開いた。
「あぁ、いらっしゃい」
カウンターの奥に数人のお客がいて、
酔っぱらいつつ、何やら真剣に話し込んでいる。
私は、いつもの入り口近くの席に座った。
店主が小さい声で、
「すいませんねぇ。
 最近ちょっと、こんな状態ですが、
 普通にやっているんで」
私は、生しらすと納豆の和え物、小イカのさっと茹で、
メジのカルパッチョ風を頼んだ。
どれも美味しく、ビールとワインによく合った。

再び店主がやってきて、
「実は、この建物が建て替えになるんですよ。
 それで、この店の営業を先月までで
 終えなければならなくなってねぇ。
 でもねぇ、そうなると
 売り上げがゼロってことになるんで。
 それで、こうやって知ってる人だけ
 来てもらってるんですよ」
なるほど、それで店内も薄暗くして、
窓を布で覆っているのか。
「でもねぇ、こんな風に営業し始めてからの方が、
 お客さんが多いんですよ」
店主は苦笑いを浮かべた。
確かに、閉まりかけたシャッターをくぐり、
暗い階段を昇って入る居酒屋などというのも面白いものだ。
薄暗いカウンターで呑み食べすると、
いつもの味も一層味わいが増すように感じられる。
いつものように酔っぱらった私は、
暗い階段を慎重になってそろりと降りた。
いつもの店なのに、
いつもとはまるで違う世界に迷い込んだような、
不思議な余韻が残った。

幹線道路に出て、タクシーに乗った。
「◯◯を過ぎたら右です。
 で、◯◯を左。
 信号ふたつ目で降ります」
始めに道のりを告げてしまえば、
途中で眠ってしまっても大丈夫だ。
しばらくすると、タクシーの後ろを走っていたトラックが、
激しくクラクションを鳴らし始めた。
トラックは相当急いでいるらしく、
追い越し車線を走っているタクシーに、
道を空けろと迫っているようだ。
私は、すぐにタクシーが道を譲ると思っていた。
ところが、タクシーの運転手さんは道を譲らなかった。
どんなにクラクションを鳴らされても、
追い越し車線をキープして走り続けたのだ。
前の信号が赤になって、タクシーが止まった。
すると、後ろのトラックの運転手が、
タクシーの運転手側のガラスを叩き始めたではないか。
信号が青になって、タクシーは再び走り始めた。
私は、今度こそタクシーが道を譲ると思っていた。
トラックが真後ろに迫ってきた。
いまにも追突しそうな勢いだ。
しかし、タクシーは断じて道を譲ろうとはしなかった。
どうやら、このタクシーの運転手さんは
闘うドライバーだったのだ。
再びクラクション攻撃が始まった。
「お客さん、大丈夫ですよ。
 なぁに、すぐ、まいちゃいますから」
タクシーが右折車線に入ると、トラックも着いてきた。
すると、タクシーは赤信号を無視して
急に左折し始めたではないか。
なんと、トラックも急左折して着いてきた。
その後、左から右、右から左とタクシーは走り、
狭い路地へ入って停止した。
ヘッドライトが消え、辺りは暗くなり、
トラックの音も聞こえなくなった。
「まいたようですねぇ。もう大丈夫でしょう」
タクシーは路地を抜けて、ようやく目的地に着いた。
「すいませんでしたねぇ。で、料金は千円でいいです」
私は千円を払い、走り去るタクシーを見つめ続けた。
まずは無事でよかったのだが、
私は生まれて初めてカー・チェイスなるもの、
それもかなりハードな激走を経験してしまったのだった。

今日は、奇妙な居酒屋で呑み、
闘うタクシーに乗ってしまった。
すっかり酔いの冷めてしまった頭で、
私は今日一日の夢のような出来事を思い返していた。

このページへの感想などは、メールの表題に
「マジックを読んで」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2008-03-02-SUN
BACK
戻る