MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

私たちがプロ・マジシャンの世界へ飛び込んだ時、
目の前には様々な壁があった。
それらの古く重く厚い壁を、
はたして私たちは超えることができたのだろうか。
低く薄い壁の隙間を、
少しはこじ開けたような気がするけれど、
越えられなかった壁は今でも目の前にあるような‥‥。


『壁を越えるマジシャン』


かつて、手品師は寄席の色物、というのが
芸能界および一般の認識であった。
色物とは、落語家が続く寄席の途中で
色変わりとして出演する、
漫才師や曲芸師や手品師のことである。
初代・引田天功は、
これまでの多くの先輩手品師と同様に
寄席の色物として存在することに満足出来なかった
マジシャンであった。
彼の想いは芸能界の歌手や俳優と
同様の存在になることであった。
そのため彼は大物芸能人と交流し、
リサイタルではいつも大物芸能人をゲストに招き、
彼自身の大物ぶりをアピールした。
田園調布に住み、高級外国車を乗り回し、
一流レストランで食事をした。
また、有名女性芸能人と浮き名を流したりもした。
初代・引田天功の知名度は、
テレビ出演の大成功と相まって急速に高まり、
手品界に収まらないスターとなった。
彼の出世のお陰で、
マジシャンへの評価も急速に高まって行った。
初代・引田天功のお陰で、
他のマジシャンたちのギャラも
10倍に跳ね上がったとさえ言われている。
初代・引田天功は色物という世界から飛び出し、
手品師という壁をも越えたマジシャンとなったのだ。

島田晴夫は、初代・引田天功の弟弟子であった。
子どもの頃から、
天才マジシャンとして将来を嘱望されていた。
島田晴夫はすぐに日本を飛び出し、
勇躍オーストラリアへと渡った。
まだ飛行機ではなく、船に乗っての旅立ちであった。
オーストラリアの各地のシアターを廻り、
そのサムライ風の風貌とマジックで、
島田晴夫はたちまちミスター・シマダとなった。
更にオーストラリア人ダンサー、ディアナという
アシスタントを得て、
シマダはスター・マジシャンとなっていった。
その後アメリカに渡り数々のテレビに出演、
ついにマジシャンの夢の舞台である
ラスベガスのシアターにも出演した。
また、ロサンゼルスにある
マジック・キャッスル
(会員制のシアター・レストランで、
 ここに出演することが世界中のマジシャンの夢、
 目標となっている)にも招かれ、正会員となった。
アフリカ系アメリカンのマジシャン、
ゴールドフィンガーさんは言う。
「彼がマジック・キャッスルの扉を開けてくれたんだ。
 シマダが出演するまで、
 僕たち有色人種はマジック・キャッスルに
 出演できなかったんだよ」
ミスター・シマダ、島田晴夫は
軽やかに日本の壁、有色人種の壁を越えていった。

八田カズオはフランスのパリに渡った。
島田晴夫がオーストラリアに渡ったのと
時を前後しての渡航であった。
今では都内にフレンチ・レストランを出店、
美食家に絶賛されているシェフのS氏が
八田カズオとの思い出を語ってくれた。
「お互いに若くてさ、
 彼が金が無くてひもじかったろう時、
 僕が習いたてのフランス料理を食べさせたりしたよ。
 僕は一流のシェフを目指し、
 八田君はヨーロッパで認められる
 マジシャンを目指してね、
 あれこれ夢物語を話したもんさ」
後年、八田カズオはオランピア劇場の舞台にいた。
ヨーロッパの各都市で
3年に1度開催される
世界最大のマジックの祭典のゲストとして招かれ、
八田ムーブ(独特の技と、個性的なスタイル)で
会場総立ちの賞賛を得ていた。
八田カズオもまた、
ヨーロッパという遠い遠い壁を越えていった。

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2006-10-31-TUE

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