MAGIC
ライフ・イズ・マジック
種ありの人生と、種なしの人生と。

僕が東京に住みはじめた頃は、
畳1枚が千円くらいだった。
6畳なら六千円、
3畳でガマンすれば三千円でアパートが借りられた。

夏の暑い日、窓を開けはなして昼寝してたら、
大家さんの犬が入ってきて
命より大切な(本人談)食糧を食べられた先輩や、
隙間風で外より寒い(なんせ吐く息が白かった)部屋なのに
風邪ひとつひかない丈夫な同級生、
3畳一間に住みながら流行作家をめざしていた奴
(ペンネームは3畳一間をシャレて、
「三条一間(さんじょう かずま)」と決めていた)
がいた。

車はおろか電話さえも夢のまた夢の時代。
でも、4畳半に住んで6畳を羨むこともない、
皆一様に貧乏な時代。
ビールの空きビンを持っていくと
20円くらいもらえると知って、
みんなで探し歩いたりした。
やたら大量に集めるので問いつめると、
「酒屋の裏に落ちてた」
などとひらき直る奴がいたりした。
いくら時が過ぎても、
ちっとも美しくならない思い出。
さて今回、そんな昔の大して面白くもない話ですが、

「あっちこっちで暮らしてた」

大学生活をスタートさせたのは、
二子新地にあった(今もあるのだろうか)学生寮。
8畳くらいの広さ、
Sさんという先輩との2人部屋であった。
色々な大学、学年の、様々な人々がいた。
駒大のTさんは、
定期券を買ったら損になったという程、
学校に行かない人であった。
早稲田のKさんはパチンコばかりしていて、
ためたタバコを寮内で売って暮していた。
エロ漫画が得意なMさんは、
登場人物を寮内の友人知人にして
困らせるのを喜びとしていた。

初めてのキャンパス・ライフは、
とても刺激的な環境でスタートした。
寮は5階建てで、
1階に銭湯のように大きいお風呂場、広い食堂があった。
トイレは各階にあり、
部屋はベッドと机だけの質素なものだった。
先輩たちが大量に餃子を作ってくれたり、
近くの多摩川の河川敷で草野球をしたり、
幸福な日々だった。

それでも、一人暮らしに憧れて生田に引っ越した。
6畳、小さなキッチンが付いた新しいアパート、
嬉しいような寂しいような。
ソニーのラジオを
大きなボリュームで聴けるのが嬉しかった。
ごはんを炊くと、
大家さんがみそ汁を持ってきてくれるという、
のどかな時代でありました。

次に引っ越したのが、
矢野口という南武線沿線の小さな
(今はどうなってるんだろう? )駅。
アパートも小さかった。
電車に飛び乗ったら、
あいにく足をドアに挟まれてしまった。
まぁいいや次の駅までのガマン、
なんて思ってたら次の中の島では反対側のドアが開いた。

経堂に越した。
今までで最悪の思い出しかない。
なんせ日が当たらない。
一日中真っ暗、そのせいで良く眠ることはできたが、
隣が青果市場で5時ごろから大声が聞こえた。
太陽に当たらない日々のせいか、
風邪ばかりひいた。
弱気になっているところへ、田舎から旧友が来てくれた。
嬉しくて涙が出た。
ところがその旧友が
「明日、選挙があるよな。で、○○に入れてよ」
なんのことはない、目的は選挙だったのだ。
自分が哀れで涙が出た。

たまらず向が丘遊園に引っ越した。
とにかく陽当たりの良いところだけを探した。
太陽サンサンの6畳が見つかった。
近所にダイエーがあって、
貧乏な学生に安い自社ブランドの衣料を提供してくれた。
すべて順調に過ぎつつあったある日、
大家さんがひょっこり訪ねてきた。
「あのね、実は神様のお告げがあって、
 別のアパートに越してほしいんだよ」
大家さんは熱心な宗教家で、
お告げは絶対のものだという。
大家さん所有の別のアパートに、
大家さんのトラックに荷物を積んで移動した。
このお告げがけっこうひんぱんにあって、
向が丘遊園の周辺をあっちこっちに移動し続けた。
「今度は登戸の方がいいっすねぇ」
などと、半ば引っ越しを楽しみにしてたりした。
面倒なので住所変更を実家に知らせないままでいると、
大学の掲示板に呼び出し状が張り出されていた。
両親が、音信不通のバカ息子の
捜索願いを大学に出していたのだ。

まったく、どうにも恥ずかしい暮らしばかり。
とにかく何もない、
家財道具もホンのわずか、
夢だって希望だってありゃしない、
まぁ実にサッパリとしたものでありました。

時が過ぎ、残念ながら良き大人になりそこねた僕は、
せめて良きマジシャンとなるよう願いつつ
暮している。

2002-05-09-THU
BACK
戻る