糸井重里のコラム
2026-08-04
生身のわたしは、なにが好きで
なにがしたいの?

・一部の昆虫やら、動物たちは、道具を使っているようだ。それほど複雑な使い方はしていないにしても、「生まれて育ってそのまま」の身体ではできないことを、木の枝だとか、ちぎった葉っぱだとかを使ってやっている。 おサルは、土器も石器もつくらないけれど、きっと「落ちていたら使う」ことくらいはするだろう。これだけでもたいしたことにちがいない。ところが人間は、もう、道具だらけのなかに生きている。動くこと、料理すること、遊ぶこと、つくること、さらには道具をつくるための道具もつくる。そこに、ことばをつかって考えることが加わって、もう、とんでもなくなんでもできるような気になっている。考えたら、考えたものがつくれちゃうんだからすごい。これはもう、サルにもカラスにも追いつきようがない。そこにさらに「生成AI」が加わったのだから、もう、もともとの人間はなにができたのかさえ、忘れそうな時代がやってきつつある。

しかし、忘れちゃいけないし、忘れたくない。人間、生身でどれくらいのことができるんだっけ?道具や機械にすっかりたよって生きているけれど、じぶんの手でできることって、どれくらいなんだろうとか。いままでに知ってきたこと、やってきたことを活かして、どのくらいまでなにができるんだろうとか(スポーツとかでは、そういうことやってるかもね)。他の人の助けを借りないとしたら、なにができるのかとか。絶対にやりたくないことは、なんなのかとか。いつでも守りたいものがあるとしたら、なんなのかとか。大好きなものって、なんなのかとか。ふだん、だれにも問われていないし、あえて聞かれる理由もないことなのだけれど、「そういう問いと、その答えと、考えるプロセス」が、「他ならぬわたし」ってやつだと思うんだ。

道具と機械がなんでもやってくれるようになったけど、「なにがしてほしいのか?」や「どうありたいのか?」は「他ならぬわたし」が決めるものなんだよね。すべてを忘れてしまわないうちに、思い出しておきたい。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。じぶんにインタビューするって、毎日やってみてもいいかも。

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