糸井重里のコラム
2026-02-04
「こころ」って、あるよね。

・子どものころから、ちょっと考えたり、考えなかったり、本気で考えたり、いやいやすっかり忘れていたり、思えばとても大事にしていたり、そんなものほんとにあるのかと冷たく言ってみたりした。それは「こころ」というものについてだ。

「こころ」をどこにあるのか見せてくれと言われたら、人は心臓のあたりに手を当てたりもするだろう。頭をさして、頭蓋骨のなかの脳だと答える人もいる。そこにあるのかと、さらに訊かれても、確信を持って答えられるわけでもなさそうだ。ふだん、ごくあたりまえに暮らしていて、空気の存在を意識していないのに空気があるように、「こころ」について、あると思いながら生きている。「こころ」なんてものはない、ことは、逆に、どうにも説明のしようがなくなってしまうのだ。だって、人が死んじゃったら、 あきらかに「こころ」も無くなることはたしかだ。生きている間は、そうだね「我思うゆえに我あり」じゃないけど、ずっと「こころ」がなにかを思っている。

ここまでの文を書いているのも、ぼくの「こころ」で、読んできたのも、あなたの「こころ」だ。生きてるから書いたし、生きてるから読んだ。「こころ」のやりとりが、ここにあった。

「こころ」そのものは見せられもしないけれど、「こころ」の動いた跡は、いろんなふうに見せられる。にっこり笑顔だって、「こころ」の動きのあらわれだ。しゃべったことばも、書いたことばも、絵も、書も、踊りも、歌も、走りだって歩きだって、「こころ」の表現であり軌跡であるだろう。さらには、書いているせいで、踊っているせいで、歌っているせいで「こころ」が動き出すこともある。「こころ」を傷めつけるようなこともあるし、「こころ」を元気にするようなこともあるはずで、ときには、「こころ」も温泉に入りたかったりする。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。人工知能はどんどん進化するけど、「こころ」はどうなる?

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