2018-11-12

・絵を描く人が、たとえば、オレンジ色が見えている夕日のようなところに、ちょっとだけ青い絵の具の筆跡を加えていたりする。え、そんな色があったのか、と見た人は思うのだけれど、それがなかったら、きっと絵はちがって見えたはずだ。 そんなふうなことはよくあるもので、たのしいことがあるときに、ほんのちょっぴりでも、悲しいことがなかったら、こころに残りにくい。それは、あきれるばかりに明るく見えている赤塚不二夫さんのマンガなんかにもあるわけだし、落語のなかにも暗さや切なさが混じっている。

仔犬の写真をたくさん撮っていると、かわいいばかりでない表情がそれなりに混じってくる。うちの犬の目は、まわりが黒くなっているものだから、ふつうに見ているとパンダと同じかわいらしさに見える。でも、見る角度や距離によっては、猛禽類の鷹の目のようにも見えるのである。どっちがほんとうということではない、パンダであり、猛禽類であり、仔犬なのである。

まだなにか邪なことを企んでいるはずもない生まれたばかりの赤ん坊にしたって、ただあどけないだけだと思ったら大まちがいで、いのちを止めてしまわないように、休みなく心臓の太鼓を打っているし、血管の網の目は赤い血を走り回らせている。両親のどちらに似ているにしても、そのことが背負っているうれしさも悲しさもまるごと引き受けて生きているはずだ。

ひと色のものなんかない。そのことを否定するかのように、例えばブルーナの「うさこちゃん」たちはシンプルな原色で、世界を表現して見せるのだけれど、それは、ほんとうはすでに悲しみを知っている大人による、ひとつの夢の描き方なのである。

花という文字を見て悲しくなる人もいる、その花を、わたしたちは、またちがう目で見ている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。今日から中国。ほぼ日手帳の「お礼行脚」に行ってきます。

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