2024-04-24

・「こころ」ということばを、論理的に説明せよと言われたら、かなり困ってしまう。「こころとは何か?」というようなテーマの研究も、本も、いままでにものすごくたくさんある。ささっと「こういうものだよ」と言えないようなもので、しかも、なんとか「こういうものだ」とわかりたいから、研究はいつまでも続いているのだろう。だいたい、いま、ぼくがここでこうして「こころ」ということばについて書き出しているのも、それが説明できないけれど、とても大切にしたいもので、いつまでも消失しないでほしいと思っているからだ。

・先日、ぼくは、「文章を読んで『いいなぁ』と思えるのは、その文の中に、書いた人の『ほんとの気持ち』が入っているときだよね」と言った。広告のコピー(文)などは、商品を売るため伝えるための「道具」だというふうに考えられている。だけど、そういうただの「道具」のはずの文のなかに、「ほんとの気持ち」が見つかったりすると、読む人は「いいなぁ」と思ってしまったりもするのだ。これは、ちゃわんやら、鉛筆やら、カナヅチやらの「道具」にも言えることのように思う。なにも「作者が表現した芸術です」とか息巻かなくても、「道具」としての椅子にだって、クルマにだって、たくさん売れますようにとつくられた流行歌にだって、つくり手の「ほんとの気持ち」が入り込んでいるものは、「いいなぁ」と、人びとを感動させたりする。

「ほんとの気持ち」という言い方は、先日、ふと思いついて使い出したことばだ。このことばは、ぼくの「ほんとの気持ち」が生み出した。だから、伝わる人には伝わっちゃうのではないか。 同じことばにしても、文じゃなくて、声がメディアになっている場合には、もっとすごい。恋人たちが交わす「ただの用事」のようなことばは、すぐに「ほんとの気持ち」になる。「げんき?」「日曜日空いてる?」だけなのに。

「ほんとの気持ち」ということばが、ぼくにとっての「こころ」ということばの翻訳であるような気がしている。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。 「こころはどこにある?」どこだかわからないところにある。

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