第3回 ビールに飛び込む人たち。
[糸井]
アルコールをからだに入れることですから、危険な仕事をしてるってわかってるんですよ。
ああ、いい話だねぇ。
アサヒビールで斎藤さんはビールの営業をしてたんですか?
[斎藤]
いえ、最初は営業だったんですけど、事業開発の部署に移って新規事業開発をしました。
そうこうしているうちに90年代に入りバブルがはじけました。
アサヒビールもいろんな事業から撤退をすることになり、それからは事業のリストラみたいなことをやりました。
もう、いろんな経験をさせていただきました。
[糸井]
斎藤さんは、人のふんどしでさんざん試合してきたのね。
[斎藤]
ええ(笑)。
しかも、1991年に、ぼくはアサヒビールの人事部にいた人と結婚しました。
[糸井]
会社で嫁までもらったんですか!
[斎藤]
そうなんです(笑)。
それから3年後、1994年になって、ぼくは34歳になりました。
やっぱりカエルの子はカエルなんでしょうか、実家が代々事業をやっていたので、やっぱり自分で商売をやりたいな、という思いがあったんでしょう。
[糸井]
そこで徳島の家業を継ごうというとになったんですね。
[斎藤]
ええ。今だったら企画書を書いてベンチャーキャピタルの人を騙して(笑)、お金を出してもらうとか、いろんな方法があります。
だけど、当時のぼくは、とりあえず徳島に帰ろう、と考えました。
斎徳は、本当にちっちゃな社員20人ぐらいの問屋でした。
そこの一国一城の主になりました。
[糸井]
そのときも、砂糖専門の問屋さんだったんですか。
[斎藤]
基本的には砂糖ですが、小麦粉やお菓子の材料なんかも販売していました。
[糸井]
もう今の「クオカ」の気配はあったんですね。
[斎藤]
そうですね。
でも、ぼくのいまの商売が現在のかたちになるもともとの気配は、アサヒビールの事業開発をやってところにあるんじゃないかなと思うんです。
[糸井]
というと?
[斎藤]
アサヒビールの事業開発で外食産業をいくつかやらせてもらってたんです。
そのときに、自分は食いしん坊だから、食べものに関わる仕事を生業にしていくんだろうなと思いはじめました。
まぁ、アサヒビールに入ったときから食べものに関わるのってたのしいな、とは思っていたんです。
目の前でお客さんがスーパードライを
「おいしい」って飲んでくれるし、食べ物屋さんの開発の仕事でも、やっぱり「これおいしいよね」ってみんなが目の前で食べてくれる。
だからきっとぼくは板前さんになってもよかったんだろうと思います。
[糸井]
うん、うん。
(つづきます)
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