そろそろ恋バナとかしたいな(6月16日)
・気仙沼から帰ってきた友人のメールに、こんなことが書いてありました。
<気仙沼の夜の飲み会で、隣りに座ったAさんの娘さんと話をしていた時、僕が「今、何をしたい?」と何気なく聞いたところ、「そろそろ、コーヒーでもゆっくり飲みながら、女友だちと恋バナとか、したいな」という話をされていたのが、生々しく、そして、なんだか、ぐっと来たのを覚えています。>
友人がぐっと来たように、ぼくにもぐっと来ました。ご本人の気持ちだから、想像するしかないのですが、どれだけ明るくやってきていても、どんなに前向きにやっていて、手応えを感じていても、やっぱり、被災地では、「なにか役に立ちそうなこと」が優先されていて、「日常のあたりまえのことなんだけれど、 後まわしにされてしまうこと」は、ちょっとずつ後回しになってしまうものでしょう。
そういうものなんだとわかっているけれど、「コーヒーでもゆっくり飲みながら、恋の話でも‥‥」ということを、地元の人たちは、どうでもいいことだとは思っていない。大事なことだと思ってるんだ、という旋律が、このなにげない会話のなかに、響いています。
ちょっとおしゃれをすることだとか、しょうもないことで笑うことだとか、誰かに知られちゃ困るような気持ちを持つことだとか、大事なはずの時間をむだに使うことだとか、後回しにされてしまうことのなかにこそ、人間がとても愛してきた「生きること」のエッセンスが入っているように、ぼくも思います。それは先日ここで言った「寛容」とか「ユーモア」とか、そういうものと同じ種類の大切なものです、きっと。ぼくらも、そう思いながら、ゆっくりコーヒーでも飲みながら、恋の話でもする?
今日も「ほぼ日」に来てくれて、ありがとうございます。どこへでも、道がつながっていることの、うれしさを知る。
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