クマちゃんからの便り

春を灼く

地方巡りから戻る日に合わせて山の個室に本を送る。
ヒトに会わないまま一週間から一〇日間ほどを
読書三昧で過ごすのだ。
夜明け前の甲斐駒が、
朝日で輝き始める白い頂を
双眼鏡で眺めることが一日の始まりである。

レンズの中の山が這入りこんできて、
オレは山と一体になったような不思議な一瞬を体験する。
引きこもるジカンからの大切な贈り物である。
なんとも浮遊感に充ちた美しいジカンだ。

間もなくヤマガラの連れがテラスの凍った睡蓮鉢に来て、
脚を滑らせながら氷を虚しく突く。
前夜撒いておいた農林四八号の玄米を突き出す。
『そうだ、まず米だ! 水は余所で探せ』。

全部喰わずに飛び立ったヤマガラの次は、
スズメが数匹。米を一粒残らず喰う。
睡蓮鉢の氷が解ける昼過ぎ、
忙しない尾っぽのセキレイだ。
ヒカリの粒か波動なのかを受けながら、
オレは壁の一部になりきり鳥等と一緒の空間にいて、
小鳥の脚の鱗と爪の関係を間近で観察する。
こんなに健気で美しいとは知らなかった。

いつかオレの頭蓋に留り、
あの鋭く曲がった爪の先を皮膚で感じたいものだが
『まだ修行が足りん…』。

夕方、アカマツの枝を燃していた。

「どうです、いっぱいやりますか」

停まった車の声だ。
二〇分ほど上流に住んでいる
東京からのリタイヤ老人である。
たまにはヒトの気配も悪くない。

「温かいから、あとで歩いていくよ」

老人のリタイヤ仲間の数人と呑む。
少し酔ってきたし、目新しいテーマもないし
ボチボチ帰ろうとした。
フィリピン人のヨメを連れた老人の三男坊が入ってきた。
近くに住んでるらしい。
抱かれていた四ヶ月の赤ん坊がオレの顔を見て笑った。

「そろそろ離乳食かい?」

「そうなんですけどまだなんです」

三男坊が答えるとヨメが頷いた。

「ヨシッ、何かの縁だ。
 この世の最初の食い物をオレが作ってやろう」

残っていたマグロ切り身一切れを湯通し、
炊きたての飯と一緒に
匙の背でよく磨り潰し粥状にした。

小皿をヨメさんに渡す。

「少しづつだぞ」

彼女は小さな匙でゆっくり小さな生き物の口に運ぶ。
なんと歯のない口を動かして喰うじゃないか。
しかも、ちょっと匙が遅れると催促にギャーと泣く。

「腹八分目」

言い残して満月を眺めながら、
川縁の道をブラブラと下る。

<ひと月以上、非日常の論理の世界に浸って
 論文を書いています>

プロフェッサー・藁谷から久しぶりのメールだ。
相変わらず数学者も優雅なマイペースである。

エッシャーについての原稿を送ってくれるという。
早く読んでみたい。

 
そ そ け 髪 灼 く 音 が し て 
黄 蝶 か な

春 の 雷 百 千 の 割 る 槍 ぶ す ま

クマさんへの激励や感想などを、
メールの表題に「クマさんへ」と書いて
postman@1101.comに送ろう。

2007-03-06-TUE
KUMA
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