クマちゃんからの便り

美しい数列

慌ただしい旅支度の途中で、
二の腕の内側に、ボールペンで数字の列を書き込んだ。

『自然の美しさは<対数>だけでは
 説明がつかないことを示していて、
 万が一、ヒマなおりに
 次の数字の関係を考えてみませんか』

プロフェッサー・WARAWAIからの
お誘いメールだった。

とっさに直感もなにも働かず、関係が分からないまま
旅の<お呪い>のように、腕に刻んで
<NARABALL>の仕上げに向かったのだった。

集めた間伐材は約六トンになった。
ひと月前から奈良の山岳地帯、
上北山村や、万葉の森、大宇陀など、
それぞれの集落で、細かい部分を払った雑木の枝を、
ハッカーを使い結束線で繋ぎ合わせ、
少しずつ直径を変えた円盤を作り、
それを重ねては大小六個の球体に組み上げてきたのだ。

徐々に準備をしてきて、
二メートル径と一メートル径の五個は
何とか間に合いそうだったが、
奈良の都へ運び込む前日になって問題が発生した。
覚悟はしているが不測の事態である。
県境の山奥でひとり奮闘していたピッカリ君から、
三メートルのモノは自重で崩れて
なかなかカタチにならないとの連絡だ。

枝のまま現場に運んでみんなで組み立てることにした。
翌早朝、すっかりハッカー使いがうまくなった
KORYA君はじめ、
プロジェクト・スタッフが文化会館の森に集合。





スタッフといっても
何人かリクルートした役人も加え十人足らずだ。
それでも三メートルのBALLを組み揚げ、
他のボールも次々と設置し終わった。
徹夜も覚悟していたが夕方には完了した。

<燈華会>で賑わう文化会館の人工の森に降り立った
<NARABALL>は、つかの間、<燈火>と戯れた。
<BALL#1>に
マツボックリを飾って遊んでいる弟を、
やさしく見ている浴衣の少女は美しい。

2006第3弾<NARABALL>
#1、#2、#3、#4、#5、#6は
またあちこちの山岳の森に戻っていき、
カボチャや瓜やアケビの蔓に覆われ
たわわに実らせるBALLになるのである。
森を移動し変幻するオブジェは、
やがて冬のスノウボールになり、
グリーンボールになる春を待つのだろう。

猛暑での制作も何とか終わり、
KORYA君が持ってきた西瓜を喰い、
打ち上げの酒も控えめにして宿に戻る。
袖口を捲って美しい関係を探ろうと思ったあの数列が、
肌にわずかな赤い筆跡だけを残して
消えているではないか。
しかもアキレス腱の辺りに痛みが走っていた。

間伐材を集めに入った山岳で、
キコリさんとの雑談してるうちに、
自分も激痛で通うという
<奈良で唯一の痛風専門医>を紹介されたのも
何かの<縁>だった。
二〇年前の厄年に激痛の発作で救急病院に運ばれて以来、
モンゴル草原、サハラ砂漠、フィンランドの湖畔、
カナダ・インディアンの居留地などでの
ゲージツ行の仕上げは、いつも激痛だった。
その都度、<痛み止め>の錠剤で
凌いできたオレだったが、ついに年貢の納め時か。

さっそくDR.樋上に会いに行くことにした。
医者にかかることも稀だったが、
<痛風>の専門医というのも初めてである。
若いドクトルだったが<痛風治療>に対する
強い意志を放っていた。
生真面目な顔での質問は、オレの不養生を指摘し
それを、オレの口から答えさせるのである。
薬でも出してもらえたらと思っている
オレを見透かすように、
「このままだと死にまっせぇ!」と叫んだ。
「しかも苦しんでぇ」。

もう十数年経つが、心臓病での入院を見舞ったおりに、
「いつ死んでもいいと覚悟はしていても、
 いざ心臓の発作が始まれば
 『助けてくれぇ!』と医者にすがってしまう
 自分が情けない」と呟いていた
深沢七郎親方を思いだした。
親方の最後は、ラブミー農場のど真ん中に置いた
床屋の椅子の上で、
日向ぼっこでを楽しみながら睡るように逝った。
見事な消滅だった。

ココロの奥底に潜むショードーと、
世界にすでにあって未だ姿を見せない
美しいモノとは何かをもう少し探るオレには、
痛風の激痛なぞに翻弄されているジカンはない。
ドクトルの言いつけに従い、
水も食餌も制限しての再検査を受けた。

結果が出る前に次の旅にむかった。



ホームページの内容が大充実にリニューアル。
充実した作品群をお楽しみください。
http://www.kuma-3.com/

クマさんへの激励や感想などを、
メールの表題に「クマさんへ」と書いて
postman@1101.comに送ろう。

2006-08-23-WED
KUMA
戻る