KINDER
ガキの頃は、バカだったなぁ。

(6月28日)

高校生の時のことです。
 なぜかわがクラスだけ体育の授業でやった
 フォークダンスが大ブーム。
 どんなときにも
 手をつないで輪になって踊っていました。
 極めつけは修学旅行の時、
 夜のホテルの駐車場でフォークダンス。

 まったく知らない人たちにとっては
 不気味に見えたことでしょうね・・・。
 (MT)

小学生のころ、
 席替えが悲しくて前日に布団の中で泣きました。
 その頃はすごく仲良しな人ばかりで構成された
 班(班も席順に基づいていた)だったので
 その布団のなかで3班の歌を作りました。
 内容は
 「○○ちゃんは漢字をよく知ってるぅ〜♪
  △△くんはサッカーのシュートがうまい〜♪」
 といった、班員をこの上なく讃えるものだったのですが、
 ちょっと前にケンカしていた××くんの部分だけは、
 「××くんは走るのが『ちょっと』早い〜♪」
 と控えめにしてありました。
 結局、恥ずかしくて誰にも言えませんでした。
 (M)

幼稚園の頃、
 「アントニオ猪木」の「猪木」がなんのことかわからず、
 自分のボキャブラリーの中に(かろうじて)あった
 「いのち」のことだろうと思い、
 いつも「アントニオいのち」と言っていた。
 そして誰かが「猪木」という度に「いのち、だろ」と
 心の中で訂正しつつ、やりすごしていた。
 (はなび)

私が子どもの頃、
 田宮二郎が出てくるシリアスな病院ものの
 ドラマがはやっていて、
 当時幼稚園児だった私が最も注目していたのは
 手術のシーンでした。
 近所の幼なじみとの「ごっこ遊び」のなかで
 その場面を再現する時は、私がドクターの役で
 「メス!・・・メス!・・・オス!・・・メス!・・・」
 と真面目に時々メスのなかにオスを織り交ぜて
 言っていました。
 (U)

私もばかでした。
 幼稚園の頃、お姫様ごっこにはまってたのですが、
 ある日、もっとリアルにお姫様になろう!
 って話が決まり・・・お姫様=ドレスって思った私達は
 お母さんならきっと結婚式のドレスを持ってる!と思い、
 翌日はお母さんのドレスを着て
 集合することになったのです。
 その日、いさんで家に帰り、
 母に貸してくれと頼んだところ、
 「私は和式だったからないわよ」の言葉。
 すご〜く泣きました。
 もう私はお姫様ごっこはできないんだーって
 絶望したのを今でも覚えています。
 さて翌日。幼稚園から帰ると、なんと ドレスが!!
 なんでも、
 「親戚のやえちゃんが洋式だったから、
  やえちゃんに借りた」そうで。
 さっそく喜び勇んで、遊びにいきました。
 み〜んな とってもきれいなドレスを着ていました。
 その時の光景、今もよーく覚えてるのですが、
 今思うと、あれはどう見てもペティコートでした。
 みんなが それぞれの母親のペティコートをはいて、
 すっかりその気になってくるくる回って・・・。
 おめでたいことでした。
 ちなみに、うちの母が和式だったからって
 頑なに言って
 自分のペティコートを貸してくれなかったのは
 訳はとても簡単。おデブだったからです。
 と、今の私にはわかります。
 親戚のやえちゃんにまで借りてくれて、
 あの時はどうもありがとう!の心境です。
 (ティーちゃん)

「できるかな」のノッポさんは番組の中で
 一言も口を利かないので、私は
 「この人は生まれつき喋れない人で、
  そのかわり手先がとても器用だったから、
  NHKが雇ってくれているんだ」
 と子供心にもそう思っていた。
 しかし番組最終回の日、ノッポさんは喋った。
 (しまちゃん)

デリバリー版の
 「自分から蜘蛛の糸がでているみたいで・・・」
 に共感。私も同じ風に思っていました!
 4人兄弟の3番目ってことで要領はよかったので
 同じ場所を戻るようなことはせず、
 何日かに一回思い立って、寝る前に
 自分のお尻のあたりで糸をくるくる巻き取る仕草を
 しばらく続けて、気が済むと
 (よし、糸をリセットしたぞ)
 と、安心して眠りについていたのでした。
 ちょっとズルいかも。
 (ぼんち)

私も、お腹が空くとすぐに舐める
 食品がありました。
 それは、「ニド」というコーヒーに入れる
 ミルクの粉で、ほんのーり甘い味が大好きでした。
 ツバで指をしめらせてから、瓶に指をつっこんで
 ベローンと舐めるんです。
 これが不思議なことに、スプーンで舐めても、
 全く美味しくないんですね。
 もちろん見つかると、お母さんには怒られるし、
 お父さんには呆れられました。
 でも、私とお父さんの意見が一致するのは
 「ニド」でないとだめなんです。

 お母さんはどれでもいいらしく、
 その時の気分で適当に「マリーム」や
 「クリープ」なんかを買ってくると、
 二人でかなりのクレームをつけていました。
 今は、コーヒーに入れて飲むので、
 特にこだわりはないです。
 (いち)

小学校1年の頃幼稚園児の妹と
 チンドン屋さんのあとをついて歩きました。
 どんどん友達がいなくなりやがて二人に。
 お弁当を食べるチンドン屋さんの横で
 途方にくれていると近所の捜索隊のお兄ちゃんが
 自転車で探しに来てくれました。
 ホッとしたチンドン屋さんと
 私たち(妹はお弁当の味見もしていた)
 家に帰ったとたんワーワー泣けて泣けて驚いた。
 あれから40年以上たつけれど、方向音痴は治らない。
 (はや)

通学路の途中でよく道草を食っていました。
 比喩的な意味ではなく、ほんとに草をかじってた。
 赤っぽい草で、
 酸っぱい味がお気に入り
だったのですが、
 それを先生に言ったら
 「犬のおしっこがかかってるかもしれないから、
  やめなさい」と言われました。
 (ひとみ)

うちのダンナの話しです。
 小学校1年生の時に
 配られる《算数セット》の中の
 コインがあるんですが、
 あのコインがお菓子屋の
 ガチャガチャ(今で云うガチャポン)に入り、
 オモチャが出てくる事を発見したらしいのです。
 その時もっていた《算数セット》の中の
 コイン全てでオモチャにしたそうです。
 そして、しばらくするとお母さんがそのコインを持って
 モーレツにダンナを怒ったらしいのです。
 そのコインには全部名前が書いてあり、
 お菓子屋のオバサンから
 お母さんが呼び出しをされ怒られたそうです。
 当たり前ですよね。1年生なんだから..。
 (と)

小学校低学年頃の話。
 今にして思うと不潔な気がするのですが、
 自分はアスファルトの路上に平気で座り込んだり、
 時には寝そべったりして遊ぶ子供でした。
 そして、自宅前の道で横になり、
 そこにあるマンホールのフタに耳を付けた時に
 聞こえてくる“下水の流れる音”を、
 どういうわけか『地球が回る音』だと
 思い込んでいたのでした。

 (おそろしゴリラ)

子供の頃、母がデパートに洋服を買いに行くのに
 連れていかれ、母が「あーでもないこーでもない」と
 悩んでいてほったらかされて退屈で仕方が無い時に
 私がやってた馬鹿な遊び(?)は、
 洋服を掛けてあるラックの下を匍匐前進しつつ、
 ハンガーについてる「S, M, L」の表示を書いた
 色とりどりのプラステックのビーズの様な物が
 床に落下しているのを収集するという行為でした。
 デパートの床は広いし、
 意外な程このビーズの様な物は床に落ちてるんですよ!
 一時かなりはまってやってました。
 今考えると変な子供だったな〜。
 因みに収集した物を後どうしたかは思い出せません。
 (はに)

小学生のときにはまっていたのは落とし穴作りでした。
 住んでる所が、都会だったので掘れる所が限られていて
 いつも公園の砂場に落とし穴を作りに行き、
 小さい子を遊ばせるお母さん達に白い目で見られながら、
 穴を掘り、木を渡してふたを作り、
 葉っぱや砂をのせてカモフラージュする
 というのをひたすらやっていました。
 ふたが丈夫すぎて踏んでも落ちない時までありました。
 で、最後は「ちゃんと埋めて帰ってね」という
 周りのおばさん達の言う通りに埋めて
 帰っていました。
 まあ、自分が主婦になった今は
 そんな子供は確かに迷惑だっただろうと思います。
 (n)

うちの弟や妹はどんなに寒い日でも
 制服の半袖、半パンで学校にいっていた。
 病み上がりの日などは
 母に言われしぶしぶ「ベスト」を
 着るときもありましたが
 「セーター」は断固として拒んでいた。

 そのこだわりはどこからきてたんやろ。
 (りんご)

小学校の時幼なじみと、くしゃみをすると誰かが
 自分のウワサをしていると言うけどそれは本当なのか
 確かめてみよう、ということになり、何時何分から
 何分間は彼女が私のウワサをし、そのあと
 私が彼女のウワサをすることになりました。
 家で突然私が彼女のウワサや悪口を言い出したので
 家族は何ごとかとびっくりしていましたが、
 理由を聞いて大笑いしていました。
 結果は私も彼女も一度もくしゃみをしなかったので、
 「誰かにウワサされるとくしゃみが出る」
 というのはウソだと証明されました。
 (アリス)

私は「クマ」、それも「ヒグマ」に襲われるのが
 とっても怖かったんです。
 夜、暗い窓の方を見るとそこに・・・みたいな。
 夜中にトイレに行くときは恐怖でした。
 明かりをつけまくっても
 窓ガラスを破って入ってくるヒグマを想像する。怖っ。
 テレビ番組で見たんでしょうね、きっと。
 ありえない、と判っていたので誰にも相談できず
 恐ろしい思いで毎日を送っていました。

 (トントン)

小学2年生の時、
 教室の黒板の上に掲げてあった標語。
 1.先生の質問には、元気よく「はい」と手を挙げよう。
 2.わからないときは「わかりません」と返事をしよう。
 挙手は、正誤はともかく自分なりの
 解答を有している者がとる能動的な行為。
 一方「わかりません」とは、
 先生がみんなに挙手を求めず、
 直接一生徒を指名した際にとる受動的な行為。
 標語に隠されたそんな暗黙の了解なんぞ知らなかった、
 バカな私。
 毎日、標語を自分なりに忠実に守って、
 たとえ先生の質問内容がわからずとも、
 やみくもに手を挙げ続けておりました。
 そんなある日、不幸は突然訪れました。
 手を挙げている大勢の生徒の中から先生が私を指名、
 起立した私の答えは、当然、「わかりません」
 当惑し、哀れむような表情の先生と大爆笑の級友たち。
 (北国育ちの九州人)

正月の笑いのネタになることですが、
 私の弟が、4歳くらいのときのお正月のことで、
 親戚のおじさんたち(飲んべぃ揃い)のおつまみで、
 ビーフジャーキーがあり、おじさんが弟に勧めたところ、
 「ぼくは騙されない、ぼくは知っている、
  それは、タブ(私の愛犬)のおやつだもん!」
 と半泣きで怒り、渡されたジャーキーを投げた瞬間、
 バランスを崩して、
 テレビ台で右の頭をぶつけて切ってしまいました。
 大事には至りませんでしたが、
 次の日、さっさと1人で起きて、
 左の頭に絆創膏を張っていました。
 右は、見るのも無残な血の塊ができていたのに。
 しかも、痛くないはずの左の頭を触ると、
 「痛いじゃないか!」と、怒りました。
 (ちょ)

「味の素を隠れて食べる」
 という事で思い出したのですが、
 私の場合は「クリ−プ」でした。
 スプーンですくって食べるあの美味しさといったら!
 格別でした。
 ちなみにスジャータを3個いっぺんに
 口に入れて味わうことにも一時期はまっていました。
 ポイントは飲み込まずに
 一個づつパックをあけて急いで流し込むのです。

 母に似ず、コーヒーは大人になった今でも苦手なので
 大きくなってからはこの習慣もなくなりました。
 (Y)

3歳のときに、ほんの出来心で
 おばあちゃんからもらった100円玉を
 「飲み込んでみたらどうなるのだろう」
 と飲み込んでしまい、
 母親があわてて病院に駆け込み、
 あわや割腹か!という話まで進んだのですが、
 「自然に出てくるまで待ってみましょう」
 ということでとっくにオムツが外れて普通に
 トイレを使っていたのにおまるに逆戻り。
 …出てきた100円玉は
 未だに母親が保存しているそうです。捨てて欲しい…
 (k)


(ミニコメント)

今回は、小学生の頃のガキばなしが多かったけど、
一番最初の修学旅行の思い出のような、
「高校生の頃」っていうのも、とんでもなかったよなぁ。
ほんとに意味不明なことは、何も起きないんだけれども、
ものの見方が、限定された情報から来ているせいか、
とんでもなく、偏った力強い行動をしちゃったりして…。
ただ、高校生には、小学生ほどの、
「ほんとに妙な趣味」ってのは、ないかもしれないですね。

あなたや、あなたのまわりの「ガキばなし」は
postman@1101.com
こちらまで、件名を「ガキ」として、
どんどん、おおくりくださいませー!!!
       

あなたや、あなたのまわりのガキばなしを、
件名に「ガキ」と書いて、
postman@1101.comに送ってくださいね!

2003-06-28-SAT
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