娯楽映画の運命。
真夏の深夜の『キリクと魔女』座談会より。

8月8日の「『キリクと魔女』を深夜に観る会」座談会は、
高畑勲さん、大貫妙子さん、鈴木敏夫さん、糸井重里と、
参加者が4人とも「なんでもあり」な面々だったせいか、
かなり盛りあがりました。その様子を、まるごとおとどけ!

アニメ映画は、歴史的にパトロンなしではありえなかった?
ハリウッド映画でも、芸術映画でもない「娯楽映画」とは?
『キリクと魔女』から見える映画界を、おたのしみください。



第1回 娯楽ってなんだろう?


糸井 こういう集まりのときに、
鈴木さんとぼくが同席すると、なぜか
ぼくが司会をするという不文律があるようで、
かならず鈴木さんが安心しはじめちゃうんです。

でも、映画のプロデューサーという
役割でもあるので、
今日はぜひ、鈴木さんに言い出しっぺを。
鈴木 (力強く)糸井さん、おねがいいたします!
糸井 (笑)……じゃ、まぁ、この映画を
ジブリで扱うようになったきっかけを、
高畑さんから、教えていただけますでしょうか。

高畑 去年の3月、
『キリクと魔女』が
日仏会館というところで上映されて、
オスロ監督が日本に来ていたんです。
その上映会のトークの相手役になれ、と、
ぼくがなぜか呼ばれまして。

ぼくのほうは、
まだ、オスロ監督の作品を
見たことがなかったんですよ。
むこうはけっこう見てくれている。
それなら、こちらもとにかく
見せてもらわなければということで、
ビデオを見せていただいたんです。

そしたら、びっくりしちゃったんです。
すごい傑作だ、と思ったんです。
それなら、お話を聞いても
おもしろいのではないかと、
その日仏会館のイベントに当日行きまして、
お話を聞いて、さらにスクリーンの
大きな画面で見て、ますます、
「これは、なんとかしたい」
という感じがした。

それで、オスロさんに
スタジオジブリに行ってもらったと。
なんとかならないだろうか、
あるいは協力できないだろうか、と。
何しろ、98年にできた映画なのに、
これまで、日本ではどこでも
配給をしなかったんですね。

糸井 98年ごろ、ニュースとしても、
まだ入ってこなかったんですか?
鈴木 実はこの映画、
フランスで大ヒットしたんですよ。
フランスで作られたアニメーションとしては、
120万人が見たということで、フランスでの
今までのアニメーションの記録なんですね。

その後、世界中のいろいろな国で
公開されたということがあって、
当然、ずいぶん前から、
作品は日本にも紹介はされていたんですよ。
日本の興業関係者、配給関係者は、
実は、全員、この映画をすでに見ていた。

ところが、映画界っていうのは、実は
いろんなジンクスっていうのがありまして、
「世界中でうまくいった作品は、
 どうしても日本ではうまくいかない」

……聞いた話なので、
どこまでかはわかりませんが、端的には、
「アフリカが舞台で、
 アフリカの人が主人公の映画というのは、
 なかなか日本ではうまくいかない」

と言われていたわけです。

それでみなさん、映画関係者は
引き受けることをやめた、二の足を踏んだと、
ぼくが、以前に聞いていた話は、
そういうことだけだったんですけど。

糸井 映画界は、知っていたということですね。
高畑 そうです。
興業界と、それから一部のファンも
知っていたと思うんです。
広島に、
アニメーションフェスティバルというのが
あるんですけど、そこでもちゃんと
上映されていたんです。
糸井 ただ、高畑さんは、見ていなかった。
アニメ作家どうしの
情報のやりとりがあるわけではないんですか?
高畑 やりとり、ある人たちもいるんですけど、
要するに、世界に
アニメーションの団体があるんですが、
それは短編を中心とした、こないだですと、
アヌシー国際アニメーションフェスティバルを
受賞した『頭山』とか、ああいう世界の
アニメーション作家たちの団体はあるんです。

オスロさんも、その会長をしてたことが
あったらしいんですけど、
われわれ、娯楽アニメをやっている
日本の団体というのは、そういうものに
ほとんど参加していないんですね。
ですから、何も知らないでやっているという。
糸井 いま、高畑さんがいみじくも
「娯楽アニメ」という
おっしゃられかたをしたんですけど、
「娯楽」について、お話していただけますか?
ぼくも、『キリクと魔女』は、
芸術作品としてではなく、娯楽作品として、
たのしんでもらいたいんですけど。
高畑 ぼくも、『キリクと魔女』は
娯楽アニメとして見てもらいたかったんです。
これは、いい娯楽のアニメーションであって、
決してアート系とか何とかじゃないんだ、と。

もちろん、新鮮な視点はあるんですけど、
基本的には、みんなに見てもらおうと思って
『キリク』は作っているわけですから、
それを大事にしたいと思っていますけどね。

鈴木 現に、フランスではこの映画は
映画がヒットしたのみならず、
それにまつわる出版物だとかゲームが売れた、
と聞いています。
糸井 え、『キリク』のゲームがあるんだ?
鈴木 あるんですよ。
キャラクター商品が非常に人気があって、
またオスロ監督というのが、
キャラクターがとても好きで、
そういうのに対しても、
非常に大きな感心を持っていて、
グッズにも非常に関わっているみたいです。
糸井 へぇー。

……あのう、わざわざ
平均的にしゃべらすように
仕組むわけじゃないんですけど、
話の前後として、大貫さんに振るのが、
ずっと後になっちゃうのもさみしいので。
大貫 (笑)
糸井 今のうちにまず
しゃべってほしいこともあるんです。
ぼくら、この映画について話しあっていて、
大貫さんのことをすぐに思いついたんです。
それで、テーマソングをお願いしたんだけど、
まぁ、なんで思いついたのかも、
大貫さんは、想像がつくだろうけど……。
大貫 「アフリカ」と「フランス」でしょ?
糸井 はい。
それと、重々しい人が
ほめるのが、こわかったんです。
「人間の哲学的ななんとか」だとか、
日本に来たこういう映画には、かならず
太鼓判みたいなのを押したがるヤツが
いるじゃないですか。
だから、大貫さんが歌って、
あの声で音楽を流すと、
いいなぁ、と思っていました。
大貫 重々しくないというなら、
もっと軽めの方のほうがよかったのでは?
糸井 大貫さんがよかったんですよ。
『キリク』を見たときの
感想を、思い出していただけますか?
大貫 さっき、「娯楽」ということを
おっしゃったんですけど、
わたしは、アニメーションの
「娯楽」と「娯楽でないもの」との
区別がわからない
ので、
娯楽な感じでは、見なかったんですよ。

やっぱり、
何か考えさせられて見ていたので。

糸井 高畑さんに、そのへんの話を
してもらいましょうか。
高畑 映画っていうのは、もともとみんな、
娯楽として見ていたんですね。
娯楽として見ているうちに、
考えさせられたりもするじゃないですか。
それが『キリクと魔女』です。

ところが、そういう傾向の映画って、
昔はいっぱいあったのに、
今、日本や当たるアニメやハリウッド映画は、
その中でも、ある傾向に
しぼられてきてしまっている。

それが、気になっていたんですよ。

大貫さんがおっしゃるとおり、
この映画も考えさせられますし、それこそ
そういった内容について、今ここで
しゃべりたいくらいですけど、ぼくは、
「こういうのも、娯楽として
 おもしろいんじゃないですか」
と言いたいんです。
『キリク』の作中で歌われている曲なんかも、
非常にいいですし。
大貫 いいですよね。
高畑 ほんとに、たのしめますよね。
糸井 ぼくもさっき「娯楽」という言葉を、
高畑さんがおっしゃったのと
非常に近い意味で言っていたつもりです。

もともと、画面が動くからおもしろい、
というところではじまった映画なのに、
その中の一部分の芸術映画のようなものを
志す人たちがいたり、それとは逆に
ある一定のおもしろさだけを
全面に出すのが娯楽とされていたり……。


そういう傾向が、
ずっと続いていましたよね。
小説なんかでも、わからないまま
「純文学」だとか固定されちゃう。

娯楽としての質の高さがあったからこそ、
見ていてたのしかったことになるのに、
「ああ、考えさせられたなぁ」
だけが残ってしまう映画は、
嫌だなぁと思っていました。

だから、「娯楽」と言いたかったんです。


(つづきます!)


第2回
「批判がない仕事」は気持ちいい

糸井 大貫さん、『キリク』を見て、
まず最初は、どういうことを思いましたか?
大貫 最初から、
「このお仕事をするかもしれない」
という気持ちで見てしまったから、
そうすると、
見方がちょっと違うじゃないですか。

うちでふつうの映画を見る時は、
ひっくり返ったままで
見ちゃおうとか(笑)
だから、あまりうちでは映画みないんです。
やっぱり、映画館に足を運びます。

それに、うちで見る時には、
途中でやめちゃうこともあるのですが、
この映画は、最初から、
そういうものではぜんぜんなくて。

とにかく最後までちゃんと見て、
どういうことが言いたいのかなって
まず考えなければならなかったから、
もう、何度も何度も真剣に見ました。
糸井 「何度も」はすごいなぁ。
大貫 何度も見ないと、
曲、書けないです。
糸井 ぼくは、
何度も何度もは見ないですよ。
耳が痛い話だなぁ……。
大貫 糸井さんは、
インスピレーションを、一回で
ガッと掴めるからいいんじゃないですか。
糸井 よわったなぁ。
大貫 わたしは何ども何ども見ますね。
物語を追うなら一度でもいいと思いますけど
その、テーマは
ユッスーがすでに書いているので。
糸井 そういうのは、
人によって違うんですかね、鈴木さん。
鈴木 ぼくなんかは、実は何しろ
この映画を見るっていう時に、
前もって、高畑さんの方から、
「これはすばらしい映画なんだ」
と洗脳された上で見るわけですから、
だいたい見る時に
動機が不純になってくるというか……。

高畑さんは、さっき
この映画をやることになった経緯を
非常に品よくおっしゃったんですけど、
実は、ぼくのところに
「これ、配給してください」
と高畑さんがいらした時、何しろ
その隣には、オスロ監督がいるわけですよね。
あとで考えると、
ほとんど脅迫だったんじゃないか(笑)、
っていう気がするんですけど、ぼくとしては、
性格がよわいものですから、
すぐに、「はい」なんて言っちゃって、
引き受けてしまうんですけど。

ぼくの場合、どちらかと言うと、
『キリク』は何度も見ていくうちに
自分をとりもどして、
この映画のたのしさがわかってきたんです。

糸井 何度も見るんですね、鈴木さんも。
鈴木 今回の映画をジブリでやるという時は、
「何しろ、高畑さんが
 やりたいと言ったんだから、
 責任をぜんぶ持ってくださいよ」と。
翻訳から、吹き替えから、
ぜんぶやっていただこう、と。
ついでに宣伝もやってもらうだとか、
いきさつが、ありました。
糸井 高畑さん、実際は
たいへんな仕事をされたわけですよね。
高畑 吹き替えでは、
一斉に集まって録るんじゃなくて、
今回、ひとりずつ録ったものですから、
時間もうんとかかって、
お金もかかったを言われているんですよ。
確かに、お金は、
ふつうに比べれば、かかっていまして。

だけど、こちらの仕事が
たいへんだったかと言うと、
そうでもなかったように思うんです。
吹き替え版をご覧になった方には、
原版もぜひ見ていただきたいというほど
オリジナルのものが非常にいいんです。
そこでしゃべられているフランス語は、
フランス人ではない人たちが、セネガルの
ダカールに集まって録音したんですね。
だから、Rの発音なんかぜんぜん違っていて、
アフリカのフランス語なんですよ。

もちろん、
ちゃんとした内容の言葉ですが、
発音の仕方が違うわけで、
そういうことに興味のある方は、
字幕も見ていただきたいほどなのですが、
そのやりかたというのが、
非常によかったんですよ。

よかった、ということは、
こちらに批判がないわけですから、
やる人間としては、それをできるだけ忠実に、
原版が与えようとしているものを出すために
努力をすればいいわけでしょう?
ひたすら打ち込めばいいわけです。
そんなにたいへんだったわけでも
ないんですね。


鈴木 だいたい、高畑さんって、
仕事のときはたのしそうにやってますよ。
いつも、あまり苦しまないんです。
ものすごいたのしそうにやってました。
糸井 時間はかかったんですよね?
鈴木 時間はかかりますし、
お金もかかりました。
……品のない言いかたになってしまいましたが、
実は、ふつう、吹き替え版を作る時には、
だいたい役者さんを呼んで、
一日でできるっていうんですよね。
しかし、今回、声を入れることに対して
非常に丁寧だったので、十日ぐらいかかって。
それが結果として、
この作品に、厚みを加えたと思いますけどね。
高畑 この映画のフランス語は、
フランス人が聞いたとしても
変わったフランス語なんですよ。
「母さん、ぼくを生んで!」
というセリフがありますよね。
あれは、
「母よ、ぼくを子ども化せよ」
という言い方になっている。
ぶっきらぼうで、
不思議なフランス語です。

そういう意味では、日本語でも、
「なのよね」とか「だぞ」とか、
いろいろ味をつけることを
排除しようとしたんですよ。
それは努力しました。
糸井 魔女もお母さんも、
非常にぶっきらぼうというか、
クールなセリフまわしですよね。
高畑 セネガルのお母さん役の人も
非常におさえた声でやっていたし、
それでも日本語だから、どうしようと、
確かに、いろいろ
考えちゃいましたけどね、いざやると。
鈴木 吹き替えた台本のシナリオも、
言葉が倒置法を使っていたりと、
日本語では非常に珍しい方法を
取っているんですよね。
高畑 日本語ですと、たとえば、
「わたしはキリクを殺す」
という言葉があっても、フランス語では、
「わたしは殺すキリクを」
となっているわけです。だから、
「キリクを」という時に顔が映っていたら、
フランス語版に合わせたいじゃないですか、
自分が演出家だったら。

そしたら、倒置法の方がいいだろう、と。
ぼくなんか、もともと日本語もヘタですから、
しょっちゅう倒置法を使う方ですし……。
ふつうの日本語よりも、むしろ倒置法を多用する
直訳のかたちが、この作品には、
向いているのではないかと思いますけどね。
鈴木 通常、字幕版の印象と
吹き替え版の印象とでは、
見る側の感想が違うと言うんですね。

これは高畑さんが横にいるから
言っているわけではないんですけど、
この作品での吹き替え版は、
直接に監督の語りたかったものごとが
伝わってくるというような気がしました。

(つづきます!)


第3回
和解できる発想ってなんだろう?

糸井 同じ職業の人が
「いいな」と言う時には、いろいろなことを
いっぺんに見ているのだと思うんです。
今は主に物語について
話してくださったのですが、画面の効果、
これについても、お話をいただけますか?
高畑 画面でご覧になったらわかるように、
オスロさんというのは、
平面でやっている人なんです。

この映画の前に
オスロさんが作ったものはもっとそうで、
シルエットを利用して、
かなりのものを作ったりしてたんですけど、
そういうものを、じつにうまく生かす。

画面の中でも、非常にいい画面が
いっぱいあったように思うんですけど、
ものによっては、自分も職業人だから、
「違うほうがよかったんじゃないか」
と思うところは、ないわけではないですね。
やっぱり自分も作り手ですから。

だけど、平面的で装飾的な美しさとか、
そういうものが持っている力とかが、日本では、
すっかり忘れられてしまっているんです。


みんな、すごいリアルに
なっちゃっているでしょう。まるで、
一生懸命、写真に近づけているように。
もちろん、日本のアニメがそうなったのには、
それなりに理由があるんですけれど。
糸井 いま、高畑さんがおっしゃったように、
日本で、アニメーションが
リアルになっている理由って、なんですか?
高畑 日本では、それは宮崎作品も含めて、
画面の中に有無を言わさず
人を連れこむことによって、
作り手は「どうだい?」と言うわけです。

しかし、『キリク』のような作品は、
キリクのほうに、
こちらから入っていかなければならない。
向こうが押し寄せてくるわけではない。
見る側は、キリクとともに世界に入って、
ハラハラして、うまくいくんだろうかと
思いながら、映画を経験するんですね。

ぼくは、ハラハラとドキドキは、
いつも違うものだと思うんですよ。
日本のアニメが、今絶頂に達しているのが、
「ドキドキ」のほうでしょう。
主人公のすぐそばにいって、
どうなるかわからない、
シチュエーションもわからない、

闇の中を主人公と一緒に進むと、
突然、敵がやってくる。
一瞬、びっくりするんですけど、
見事に倒してしまったりする……。
これが、日本のアニメーションですし、
流行っていて、今、強く人に
アピールしているものなんです。
ドキドキしっぱなし。



『キリク』の画面は、
全部が平面的で、
断面図が映っているじゃないですか。
だから、すべてを把握できているし、
ドキドキはない。
ところが、
「キリクは、魔女をうまくかわして
 やっていけるのだろうか」
という「ハラハラ」は、味わえると思うんですね。
ハラハラしているというのは、
まだ判断力が働いている証拠ですから。
「ドキドキ」は、どこから何が来るか
わからないわけですからね。

『キリク』の平面性は、
人をちょっと突き放しますから、
中に、有無を言わさず連れていかれることはない。
狙いは、そこにあると思うんです。
考える余地を、
ちょっと観客の側に残すから。
糸井 だから、追っている魔女の方の気持ちも、
わかりながら見られるんだ。
高畑 そうですね。
そのほうが、一方的にはならない。
糸井 つまり、アメリカ映画を見ていると、
敵は無限に悪いヤツになるわけで。
ところが、『キリク』の場合は、
落ち着いて見られるかわりに、
両方の痛さが見えてくるんですね。
それは、平面的な構成のせいということも、
大いにあったわけですか……。
高畑 はい。
日本のアニメーションは、
基本的には、「ドキドキ」で
最高峰になっていったわけです。
連れこんでしまって、見る人に
主人公と同じような気持ちを味わせる。

そうなると、背景は
どんどんリアルにならざるをえないんです。
「客観的に、おもしろいね」
だなんて言っていられないですよ。
そこにいないといけないわけだし、
その目で世界を見せるわけですから、
リアルにならざるをえないじゃないですか。


それでどんどん、
日本のアニメというのは、
リアルになっていったんです。
糸井 日本で言うと絵巻物の伝統なんかに、
近い発想ですね、『キリク』の手法は。
高畑 ええ。
『キリクと魔女』には、
「この種類のおもしろさは、日本になかった」
というたのしみがあるんだと思うんですね。
「こういう、違う娯楽が、あったんだ」と、
見終わった人は感じるのではないでしょうか。

たとえば、映画のなかで、
キリクに対して、魔女が意地悪をする。
キリクはお母さんに聞くんですね。
「なぜ、魔女は意地悪をするの?」
お母さんは、
「意地悪するのは魔女だけじゃないよ」
と答えるんですね。ここがおもしろい。

「世の中、火が燃えたり
 水がぬらしたりするのと同じように、
 こっちが悪いことをしないのに
 意地の悪いことをする人はいるもんだ。
 そうやって覚えておきなさい」

お母さん、徹底して現実主義なんですよ。
「意地悪も、計算に入れておけよ」と。

あの人はすごい、なんて思ってつきあって、
挫折するより、ずっといいと思うんです。



「ぼくは行ける!」とキリクが言いだしても、
「ダメだね」とお母さんは返事する。
キリクが、「こういったらどう?」と
いくら考えて言っても、ぜんぶダメだと言う。
あのシーンは、
お母さんの「ダメだ」で終わるんです。
「子どもなら、とことん考えさせればいい。
 それで、必要だったら助けをだす」
そういう考えなんですよ。

魔女の謎かけも、おもしろいですよね。
世の中が難しくなりすぎているものだから、
今は、因果関係、
原因があって結果がある、
ということを忘れていて、
アニメーションの制作者なんかでも、
複雑怪奇な様相を
作品の中でも作りたがっていまして……。
ものすごく、世界を複雑にしてしまうんです。

ところが、キリクの世界はすごく単純ですよね。
かならず、原因があって、結果がある。
魔女の意地悪にも原因があるから、
それをとりのぞけば、魔女じゃなくなる……。
そういう発想って、和解できる発想ですよね。
あるいは、許すことができる考え。

(つづきます)


第4回
アフリカのよさってなんだろう?

糸井 高畑さんがおっしゃった
『キリクと魔女』の味わいは、
大貫さんの作る音楽に、
共通して聞こえたんだけど。
大貫 え?
今、お話を聞いていて、
そっちに頭がグワッと行ってました。
糸井 要するに、大貫さんの歌は、
「わたし、恋をしてるわ」
というだけではないですよね。

いま、
ふつうに流れている音楽の多くは、
「わたしの気持ち」に「あなた」を重ねて、
「一緒に叫びましょう」のかたちを、
取っているけれど。
大貫 ほとんどが、その音楽ですよね。
わたしの音楽は、けっこう
『キリク』的です。客観的に……。
高畑 オスロ監督は、大貫さんの曲を聴いて、
「ほんとうによかった」と言っているんです。
それはこの場を借りて、
ご報告しておきたいことなんですけど。
大貫 オスロ監督からのお手紙は、
メールで送っていただきました。
高畑 よかった。
オスロ監督が
「よかった」と言いたい気持ちは、
ぼくにも、すごくよくわかるんです。

あの映像に、原版の音楽担当の
ユッスー・ンドゥールの音楽は、
やはりすごいですよね。
自然発生的な、アフリカに今でもあるような。
あれは、もちろん、すばらしい。

人を歓迎するとなると、パーッと突然
歌と踊りになってしまったりして、
うらやましいなぁって感じの音楽……。
しかし、今まであの映画には、歌としては、
あの音楽しかなかったんですね。
そこを、大貫さんの歌が、
気分としては、補ってくれたと思うんです。

イメージソングが、
映画にまつわる一体のものとして
考えてもらえば、やっぱり、
大貫さんに音楽を作っていただいて、
とてもよかったんです。
大貫 ユッスーの場合は
「ほんもの」じゃないですか。
アフリカですからね。
だけど、映画を見るわたしたちは
日本人なので、やはりまた違うわけです。

わたしが作る音楽の中にも
アフリカの「ほんもの」を入れようかと、
一瞬、考えたんですけどね。
いくら、イメージソングとは言えども。
アフリカの音を入れるのだったら、
セネガルまで行って、録ってこようか
と、少しは思ったんです。



ところが、まず時間が限られていたことと、
「ほんもの」を持ってきてしまうと、
イメージソングの意味、
つまり求められているものと、
なんかちがうなあ、と感じました。

もちろん、「ほんもの」のパーカッションも
いれているんですけどね。
ある程度はコンピュータで作りこんで、
まぜています。
アフリカの民族楽器のかわりに
ハープを使ってみたり。
そのくらいで、ちょうどいい感じだったんです。
糸井 その判断は大正解だったと思いましたね。
大貫 アフリカの民族衣装って
色がとてもきれいじゃないですか。
原色のブルーとか赤とか緑とか、

実際、アフリカの方って、
『キリク』みたいな色の服を着ていますよね。
キリクは裸だけど。たとえば魔女の服のような。
学校の制服のブルーとかも、
眩しいくらいのブルー。ほんとうにきれい。
あれがそのまま映画になっていた。

ああいう感じも、日本人からするとなじみがない。

アフリカの太陽みたいなものが
日本にはないので、だから、そういう色を
出しつつも、日本の風が曲間を吹いていくことで
全体がイメージできればいいなあと……。
糸井 日本にいたら、比べようがないですからね。
大貫 アフリカと日本では、
ぜんぜん、環境が違いますもの。
糸井 いま、ここにいるなかで、
いちばんアフリカを知ってるのが
大貫さんなんで……。
当然、高畑さんもアフリカに関して
詳しいわけじゃないですよね?
高畑 ぜんぜん。
糸井 『キリク』を作った
オスロ監督なんかは詳しいわけですよね?
高畑 オスロ監督は、
ギニア湾沿いに
お父さんがいて、小さい頃に
アフリカに暮らしていたんです。
それが非常に大事な思い出として、
アフリカに対する敬意がある、という……。

ただ、『キリク』はお話は神話風ですが、
「自分で生まれてくる」という以外は、
みんなオスロさんのオリジナルですよ。
糸井 大貫さん、
ずいぶんアフリカにいたんですよね。
大貫 はい。
のべで1年ぐらいはアフリカにいました。
わたしのいたところは、
野生動物のまっただなかみたいな所だったので、
人に会うことも殆どなかったんですけど、
そのかわり、太陽とか風とか、
自然のアフリカに流れている時間みたいなものは
嫌というほど染みこんでいます。



キリクでも、キリクはこんな子で、
ということを説明するよりは、もっと
そういう全体的な空気のようなものを、
音楽にできたらなって思いましたけど。
そうかんたんには
……できないんですけどね。

できないんですけど、そういう命を
こめたいなという気持ちで作りました。
『キリク』のビデオを、ずっと流しながら、
スタジオでも、ずっと見ながら、作りました。
糸井 のべ1年ぐらいのアフリカ暮らしというのは、
やっぱり大貫妙子を変えたんですか?
大貫 どこに行くにしても、興味がなかったら、
まず、1年も行っていないと思うんです。
ということは、そこで変わったのではなくて、
もう、行くことになっていたからじゃないですか?
たぶん、小さい時から、「そうなっていた」。

なんか、自分の中にずっと求めている
答えのようなものがあって、
それを追いかけていたらアフリカに行っていた。

変わったのではなくて、ますます、
自分の知りたい何かに近づいているという
ことじゃないですかね。

(つづきます!)


第5回 大きい音楽ってなんだろう?

糸井 このあいだ、NHKで、大貫さんが、
アフリカのハイエナについて力説するのを
見ていたんだけど、あれはよかったなぁ。
ぜひ、今日も語ってほしいくらいです。
高畑 ぼくも、動物番組とかで、
そのへんの事情をよく見てるんですけど、
ぜひ、それは聞いてみたいです。
糸井 あの話、してよ!
大貫 いやぁ……。
糸井 大貫さんが自分で思っている以上に、
すごくおもしろいよ。
大貫 うーん。
ハイエナは、ほんとに忌み嫌われていて、
どうしていつも悪者になっているのかと
思っているんですけど。
糸井 「ゴミを漁って笑ってる」みたいな
イメージで、語られてますよね。
鈴木 無茶苦茶ですよね、あれは。
大貫 そもそも、どうして動物を
悪いやつといいやつにするのかというのが
ありますけど。
それはそれとして。

ライオンは確かに、
人間ぐらいしか天敵がいないから、
ふだんも、足をこんなに開いて、
お腹を出して寝てますけど、
ハイエナのために、ぜひ言いたいのは、
「自分で狩りをしないで
 落っこちているものだけを
 食べているような生きもの」
ではぜんぜんない!ということです。

どちらかと言うと、ライオンが、
ハイエナの倒したものを横取りするというのが、
半分ぐらいはあります。

それで、ライオンもうまく生きていける。
ハイエナがいるから、
ライオンも生きていられるんですね。

ハイエナは、写真家や研究者の間で、
ほんとうに人気が高いんです。
ものすごく変わった動物なんです。
言えないようなこともいっぱいあるけど。
糸井 それ、何?
あとで教えてね(笑)。
大貫 たとえば、
オスとメスを見分ける場合、
体の部分では、ある1カ所ですよね。
ところがハイエナの場合
メスにも見た目は、同じものが付いている。

子どもを生んだ時、乳房が大きくなって、
それでメスだとわかるんですけど。
でも、メスの方が体が大きいので、
それもひとつの目安ですが。



それから、とにかく
においの動物で、
においをおたがいに嗅ぎまくるのは、
ほんとにすごい。
とにかくおもしろいんです。


どうして、
ハイエナに興味を持ったかというと、
その前に、ライオンをずっと
観察していたんですけれど、
ライオンとハイエナはとにかく仲が悪いんです。
ハイエナのことをきちんと見ないと、
ライオンのことはわからないので、
次の仕事の時は
ハイエナをぜひ観察させてほしいと、たのみました。
そしたら、ハマってしまって。
糸井 (笑)いいなぁ、この話。
高畑 音楽家としては、
ハイエナって、声悪いですよね。
大貫 声、いいですよ。
ものすごく色っぽいです。
エッチに近いですね、ハイエナの声は。
声の表現の種類がとにかく多いんです。
少なくとも、30種類以上の声がある。
それが、色っぽく感じるんですよね。
糸井 (笑)そうなんですか?
大貫 ライオンよりも、ずっと色っぽいです。
夜のアフリカは真っ暗じゃないですか。
その夜に、ハイエナの
「キッキッキ!」というような声が
遠くから聞こえてくると、
なんか、ゾッとして、いい感じです。
糸井 (笑)
大貫 だから、じっと、聞いてるんです。
闇の中の声を、耳をとぎすませて。
他にないんですから、たのしみが(笑)。


狩りをすると、ハイエナは、とにかく、
興奮して、キーキーうるさいんですよ。
あまりによろこびすぎて、
その声でライオンが来ちゃうの。
糸井 (笑)ハイエナって大きい?
大貫 大きいですよ。
オスは体長110センチくらい。
メスは120センチ。
メスのほうが大きくて強い。
メスが実権を握っているんです。
いちばん強いメスから生まれた子どもが、
群れの中ではいちばん位が高いので、
成獣のオスよりも、その子どものほうが、
ちっちゃくても地位は上なんです。
糸井 それだけ詳しいのは、すごいなぁ。
ハイエナだけでも、こんなにあるんだよ。
これは、大貫さんに、
音楽、頼みたくなるじゃないですか。



やっぱり、大貫さんに頼んでよかった。
このハイエナの向こうに
広がる景色だとか、光だとか、
それを見た人と見てない人には、
すごい差があると思うよ。
大貫 今回のイメージソングは
いろいろ制約もあったので、
さらに時間があれば、
もっとできたと思うけれども
いまこれを
アフリカに持っていって聴いても、
少なくとも違和感のあるものではない、

っていう風に思っています。

アフリカには、いっぱい、
いろいろな音楽を持っていったんです。
CD、かけてみるの。
……合わないのが、あるんですね。
糸井 ある、ある!
大貫 東京だったら、すごくいいのに、
アフリカの平原では、
見事に合わない曲が、あります。
すごくダサく聴こえたり、とか。
やっぱり、音楽の内包しているものが
大きいものじゃないとダメみたいですね。


それがなんか、アフリカで聴いて
「いいな」と思える作品の共通項じゃないかなぁ。

ちょっと、しゃべりすぎちゃった。
『キリク』の話を、してください(笑)。

(つづきます!)


第6回 パトロンってなんだろう?

(※会話は二転三転して、最終的には、
  韓国やフランスのように、国によって
  映画産業が支援されているかたちはどうか?
  という話題になりました。興味深かったので、
  最終回に、その部分をまとめておとどけです)


糸井 「そんな話をしてもしょうがない」
という気もするのですが、敢えて言えば、
韓国も、フランスも、グローバルから
自国の映画を保護する法律を作るよりも、
勝つ映画を作るほうがいいと思うんですね。

つまり、「昔からあるものはいいんだ」と
主張するのは、すごく難しい戦いになる
というか。
保護貿易は、大変だと思うんです。
作る立場として、鈴木さんはどう思いますか?

鈴木 たとえば、
ディズニーのアニメーションが、
フランスのような国で
受け入れられるのかというと、
最近のディズニー映画は、フランスでも、
十分に受け入れられるようになったんです。
以前は、「フランスだけはそうじゃない」と
言われていたんですけどね、
現実は、そういうことが起きています。

フランスでは、日本のアニメーションも
人気がありますが、国会で
締め出されることがありましたね。
高畑 今は、フランスの法律が
どうなっているかというと、
パーセンテージを決めているんですね。
放送するアニメのうちの
この程度は、フランス製で、と……。

以前は、日本のアニメが、すごい
パーセンテージを占めていたんですが、
国内製、EU製、それ以外、と
パーセンテージが決められているから、
だから、日本のアニメーションの市場は
失われているかもしれないですね。
糸井 「パーセンテージ」って、
いかにも、フランスですよね。
高畑 ところが、フランスでは、
非常にマイナーに見える映画でも、
映画館でちゃんとやっていますよ。

日本みたいに、
同じような映画ばかりが
やっているというよりは、
単館ががんばっている印象があります。
それから、去年、おもしろいなぁ、
と思ったことは、外国映画であっても、
フランス国内で賞を受賞すると、
配給会社に対して、助成金が出るんですよ。
ああいう制度は、すばらしいです。

自国を守るだけじゃなくて、
いい映画だったら、自国の中で
評価したなら、見せようじゃないかと。

糸井 フランスのように、
税金の使い道として、
文化を、水やガスと同じように
ちゃんと考えられるところまで行くのは、
大負けした歴史とか、
そういうのが、要るんですかね?
大貫 フランスでは、
音楽でも援助が出ますよね。
ミュージシャンが、
「何時間、音楽活動をした」と提出すると、
国からお金を、もらえるんですよね。
それがいいかどうか、わからないですけど。
糸井 「援助したからグズになった」
という言い方もあるだろうし、
「そういうのがあるからこそ、
 こぼれているものが成り立てる」
とも言えるし、わからないですね。
大貫 難しいね。
鈴木 ええ。
糸井 落語は、
保護されているも同然ですが、
やっぱり、つまんなくなって
競争力がなくなってきていますよね。
でも、放っておいたら、
ほんとになくなってしまうというか。
鈴木 韓国の人が来た時に、
こないだちょっと話をしたんだけど、
盧泰愚の時代に、特に
映像に対して予算を補助しましたよね。
財閥に話をしてお金を出させた。
ぼくが気になっていたのは、
「国がしゃしゃり出ると、
 作り手は、嫌になるんじゃないか」
ということでした。そこを聞いてみたんです。

そうしたら、
「ひとつの映画に
 どれだけの助成金が払われたかは、
 シークレット扱いにされる」

ということだそうです。
それを聞いて、なるほどと思ったんですけどね。

糸井 高畑さんは、どうですか?
アニメだって、ほんとはめちゃくちゃ、
お金も時間もかかりますよね。
高畑 何らかのかたちで、
助成金みたいなものは、
合っているんじゃないか、アニメは
そういう側面を持っているのではないか、
と思うんですけどね。

実は、この世界では、歴史的に、
非常にすばらしいアニメーションを
作りだしてきたのは、
ソ連であったりとか、チェコであったり、
いわゆる資本主義国の中では、
カナダだったりするんですよね。
カナダは、アメリカの隣だから
保護政策を取ってきたわけです。

しかも、そういったところの
アニメーションが政治的かというと
そういうことはないわけで、やはり、
そういう力はもらったほうがいいんじゃないか、
という気はしますよね。
ぜんぶそれでやれ、ってことじゃないんですけど。
鈴木 映画ってことで言うと、
ぼくもあるレポートで読んだんですが、
世界の中で、映画に国が助成していないのは
日本だけなんだそうですよ。
すでに、日本以外では、
助成するかたちに、なっている、と。

ぼくらの場合、
東京都がアニメーション関係の
イベントをするようなところで、
逆に参加する費用を取られているんですよね。

商業主義で映画を作るのも
おもしろいとは思うんですけど、一方で、
パトロンがいてお金を出すというのが
おもしろい、という話もあるし……。
大貫 昔は、音楽でも絵でも、
パトロンがいて、その人のために
作っていたわけじゃないですか。
実は、パトロンのために作ろうという行為が、
非常に個人的なために、
ものすごくいいものができたんだとも
思うんですね。
今は、誰のために作っているのか
わからないから、グッとこないというか。
鈴木 それ、すごくわかります。
高畑 いまの話、ものすごくおもしろいですね。
大貫 捧げたい対象が、あるかないかでは
作る側としては、
大きな違いがあると思うんです。

でも、パトロンがいなくても、結局そういう
作りかたをしている、とは思いますが。
糸井 ただ、パトロンがいた時代でも、
パトロンが他の人たちに自慢できないと、
作らせる意味がないから、
自慢できるということは、
美の共通概念や、共通性にも
関わることだとは、思うんですけどね。
一見、一対一の関係だけど、結果的には、
時代の要請が、作品に影を落とす……。
今も、ほんとは同じなんだと思うんですよ。

ただ、今、
企業が映画にお金を出すことって、
日本では、簡単に言うと、
株主総会を超えられないんですよ。
でも、ほんとは、人気のない会社ってダメだから、
会社を存続させるためには、映画への投資も、
一年ごとの事業計画の構造とは別のところで、
考えられて、いいことだと思うんですけどね。
夢は、実は投資の対象になるんだから。