第8回 アーヴィングが見せるアメリカという国のこと。

川上 男女に限らず、
「理不尽なものがあって、でも、逃げない」
ということが大切だと思います。
糸井 でも、実は‥‥逃げたいですよ。
川上 逃げたいですね。
糸井 どこかで「まあ、いいか」の部分がないと
生きていけないです。でも、
ほんとうは違うんだよな、と思っていたい。
川上 逃げると悔しいということも、
思っていたいです。
結局最後は、意地になっちゃうんですけどね。
殿山泰司さんの『三文役者あなあきい伝』は、
逃げつづけているように書いているけど、
ぜんぜん逃げていません。
糸井 すべて逃げているということになっていますが、
そうじゃないね。
川上 「俺は逃げて、あっちの女からこっちの女へ」と
いうように書いてあるけど、逃げていないのが
行間からだんだんわかってくる。
女の人と、
地面を一緒に歩いている感じがあるんです。
糸井 マニュアルのない世界と、時代に身を置いて、
自分で発見するということのすごさが
あそこには、あります。
暗闇をいっしょに発見しながら歩くということの
はじっこのほうに、たとえば
クマちゃん(篠原勝之さん)とかが、いるんです。
クマちゃんには、ひとつ、
おもしろいエピソードがあるんです。

ある寒い夜、クマちゃんたちが、
仲間で酒を酌み交わし、
おもしろい話をしていた。
そこに、黙って飲んでいる酔っ払いが、
ひとりいたらしいんです。
「黙っていたら、タダ飲みだ、
 そんなやつは不届きだから」
という理屈で、クマちゃんたちは、
そいつを雪の中に放り出した。
だけど、あんまりかわいそうだから、
上から自転車をかけてやった、
と言うんです。
川上 (笑)。
そういえば、
小さいころ読んだキュリー夫人の伝記に、
とても好きな部分があったのを思い出しました。
キュリー夫人が
ソルボンヌ大学で勉強しているときに、
暖房もなくてすごく寒かったんです。
服をありったけ
ベッドのふとんの上にのせたけど、
まだ寒くて、
しょうがないから、
最後にいすをのせた、という話がありました。
同じ発想ですね、キュリー夫人と(笑)。
糸井 何もわからなくなったときにやることというのが、
「その人」ですからね。
殿山泰司のぶらぶらしている歩き方の中には、
その発見があります。
こんな本をみんなが読むようになってほしいな。
川上 これが絶版はでなく、ちゃんとあるのがうれしい。
いまは筑摩文庫で出ています。
糸井 筑摩、意外と拾うんですよね。えらいんです。
川上さんは、このほかにジョン・アーヴィングの
『ガープの世界』を挙げていますね。
川上 最初に『ガープの世界』を読んだときには、
びっくりしました。
ガルシア・マルケスなどを読んだときの
驚きと一緒かな。
糸井 アメリカという国について、
僕たちはニュースで伝わってくる姿ばかりを
見てしまいます。
「商売になれば何でもいいのかな、
 でも、うまいな、その商売が」
などという印象のアメリカばかりを
追っている頭で、
こんな小説を読んじゃうと、
かなりショックですよ。
アメリカに人間が暮らしていて、
しかもそこには
真剣に何かをじっと見ている人がいる。
そういうことを、
ジョン・アーヴィングは教えてくれました。
あの国の、底力を感じます。

アーヴィングの本への引き込まれ方は
ミステリーを読んでいるときと
全く同じだし、
こんなことを書く日本人はいただろうかと思うと、
いないような気もするし。
川上 これを読むとまねしたくなるんです。
糸井 危険ですね。
まねしたくなるというのは、
アーヴィングの小説の、ある意味、欠点です。
川上 学生時代に読んで、
こういう、ひとりの人の一代記を書こうと思って、
2枚ぐらいで挫折したことがあります。
『楡家の人びと』も、
同じようなところがあって。
糸井 あれは、三代記ですよね?
川上 斎藤茂吉と義理のお父さん、その子ども。
4代ぐらいは出てくるのかな。
これは、歌人としての茂吉じゃなくて、
お医者さんとしての茂吉の面を
とにかく愉快に描いています。
ものすごく愉快で、おまけにこれ、
北杜夫さんが40代のときに書いていらっしゃる。
今の私より若いんだ、作者は、と思って、
嫌になっちゃいました。
糸井 こういう作品を書く人は、
こらえ性があるんですよ。
川上 すごい集中力と、
「書かねば」という気持ちがあったんだろうなあ。
糸井 しかし、我々が選んだ本には、
笑わせる部分があるものが多いですね。
川上 笑いは、余裕ですよね。
引きの余裕、というか。
私は、書くときには、笑いの部分が
いちばん難しいと思っています。
くすっと笑わせるためじゃなく、
くすっと笑うような瞬間の、
その場面の周りを書きたいと思うんです。
糸井 作家って因果な商売ですね。
自分の中の天然性というのは
絶対にあるわけです。
ところが、私の天然はおもしろかったと
思わない限りは書くことはできない。
これは嫌な仕事です。

(つづきます)

2006-01-25-WED
写真提供:活字文化推進会議
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