第2回 言葉の並びだけで 伝えようとすること。

糸井 僕は先日、「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」
というイベントに行ってきたんです。
それは、人工的につくった暗闇の空間を、
グループで歩く、というイベントなんです。
川上 善光寺などにある、胎内めぐりのような?
糸井 それに近いです。
水が流れていたり、
落ち葉が敷き詰められていたり、
バーのカウンターがあったりするんです。
あるいは、プラットフォームがあって、
電車が来るから危ないということあらわすような
音がしたりする。
川上 暗闇の中では、怖いですね。
糸井 そういった、ひじょうに簡単なフィールドが
真っ暗闇の中にあるんです。
そこで、白杖と呼ばれる
目の不自由な方が使う杖を受け取り、
グループ5〜6人が名乗り合って、
暗闇の中を出発するんです。
「川上と申します」
「糸井と申します」
「じゃあ、参りましょう」
川上 なるほど。
糸井 グループを案内するリーダーが全盲の方なんです。
「では、前に進んでください」と言われても、
まずは、進めない。
でも、目に見えない世界をずっと行くことで、
触感やさまざまな感覚が
どんどん研ぎ澄まされてくるんです。
「木の切り株があったぞ、
 その切り株の真ん中に穴があいていて、
 水がたまっている!」
水たまりを探りあてた人が、
手に水をつけて、みんなに振りまいたりするわけ。
普段だったら「やめろよ」ということでも、
すごくうれしいんです。
そして、わらのようなものに手が触れたときに
「あっ、わらだ!」とうれしくなって、
ポケットに2、3本入れたりしました。
あとで「これにじーんと来たのか」と
思いたかったんです。
川上 それを外で見たとき、どうでした?
糸井 ぜんぜん違いました。
暗闇にいるときのほうが、
わらを大きいものとして感じていました。
わらにさわっただけで、ふかふかした大きなものを
イメージしていたんです。
「俺、持ってきたんだ」と言って、
外でみんなに自慢気に見せたら、それは
しょぼしょぼした、ただのわらだったんです。
川上 (笑)なるほど。
糸井 暗いことで、自分の能力が
活きてくるのがわかったんですが、
そこで、頼りになるのは、
やっぱり言葉だったんですよ。
階段をのぼるとき、
リーダーの人が
「石段がそこに3つあります」
と言ってくれるんです。
手で探ったら、階段があることはわかるんですが、
リーダの、その「3つ」という言葉を
信じ切れないとのぼれない。
川上 暗いわけですから、
ほんとうに、そうでしょうね。
糸井 その中では、うそをついてないということを
お互いに前提として、
共同作業をしているんです。
なのに、僕はすごいことをやっちゃってね。
川上 なんですか?
糸井 ちょっと声色を変えて、
「ヤマザキです」と言ってみたんです。
もちろん、その場にそんなやつはいないんです。
そうしたら、そこにいた、
普段僕がうそをつくのを
よく知っているような人たちが、
「えっ、いまのは誰?」って
不安そうに言い出した(笑)。
僕も引っ込みがつかなくなっちゃって
「誰だよ? いまのは」と、調子を合わせて。
怖くなっちゃったので、
ヤマザキは、二度と声を出せなくなりました。
川上 ものすごく怖い話ですよ。
一度だけ声を出したヤマザキ。
糸井 外に出てから、
「あれは俺がやったんだ」と言ったら、
「ほんとですか?」と、みんなが驚くんです。
うその言葉というのは、社会や人間を
実はめちゃくちゃにしちゃうものなんです。
でも、僕らはいま、
ものすごいうそに囲まれていても、
平気で生きていられる社会に住んでいます。
川上さんがやっていらっしゃることも、
ほんとうとうその区別がどっちだか
わからない、ということを扱っていますね。
川上 本には、そういうところが
あるかもしれませんね。

今日、最初に読み上げた文の中に、私は
「自由」という言葉を使いました。
言葉だけしか使えない、という特徴が、
本にはあります。
自分という人間すら関係なく、
ただ言葉の並び方だけで
何かを伝えようとします。

例えば映画であれば、
音もあるし、画面もあるし、いろいろあります。
だいたいのことが1種類の伝達手段だけでは
成り立っていなくて、
いくつかの手がかりがあるものなんです。

暗闇の中でものにさわったり、
声を聞いたりするだけで
何かを感じとるという、
その不自由なフィールドと同じようなものが、
言葉であらわされている本にはある。
ただ、それが反対に、
自由さにつながるかな、と思うんです。
その自由さは何かというと、
わらをさわったときにすごいふかふかと感じる、
というようなことなんです。
それは、普段なら感じられません。
糸井 そうですね。
川上 目で見た情報とそれまで知っている情報、
いろいろなものに、私たちは
反対に縛られている。
本においては、
文字の意味は知っていますけど、
その意味をどう使うかも
書き手にゆだねられているので、
何でも創造できちゃう世界が
あるのかなと思ったりします。
糸井 ものごとと自分との関係が
一期一会になるということも、ありますね。
川上さんが例えば「私はある花を見た」と
書いたときに、
何回見ても同じ言葉なんだけれども、
書いたときの「私」「花」「見た」、
というのは、二度と来ない。
川上 来ないですね。書き手にとっては来ないし、
読み手にも、同じものは来ない。
自分の書いたものを読み返して推敲しても、
違う花になっちゃっているんです。
ほかの人の書いた小説でも
昨日読んだのと今日読んだのでは、
同じものでも違っちゃいます。
糸井 それが、自由である、と。
川上 ほんとうは、そんなふうに
自由に感じられるというのは、
幸運なことなんです。
体力がなくなっていたりすると、
一度読んだものは、
前読んだとおりにしか受け取れないことも多い。
糸井 前にさわったときに象の形をしていたから、
あの話は象だろうといって
おしまいにしちゃうんだね。
川上 面倒くさいというところもあって、
すぐ象だと決めたがるんです。
糸井 二度目はきっと、
その象の形じゃなく見えるかもしれないのに、
変わってほしくないという保守的な思いが
じゃまをするんですね。
川上 違うところに行くことって、怖いんですよ。
最近「本ばなれ」などと言われますけれども、
そこにひとつの
原因のようなものがあるんじゃないかな。
「相手が差し出す形のまま受け取っていればいいか」
というふうに思えちゃう場合も
確かにあるわけです。
もちろんつくり手のほうは
そう考えていないかもしれないんですけれども、
そういうもののほうが楽。だから、
限りなく自由に読んでいいんだよと言われる、
怖いことは、なんとなく敬遠されてしまう。

(つづきます)

2006-01-17-TUE
写真提供:活字文化推進会議
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