会社はこれからどうなるのか?
「むつかしかったはず」の岩井克人さんの新刊。
『会社はこれからどうなるのか』(岩井克人/平凡社)
これは、いま読むべき、とても重要な本だと思います。
経済学のプロ中のプロが持っている重要な知識を、
1冊で「素人の知識」として受け取ることができるから。

「会社」を経営する人も、「会社」で働いている人も、
「会社」からモノやサービスを買う人も、
「会社」って何で、「会社」をどうしたいのか、
どうつきあっていくか、考えてもいい時期だと思うのです。

あまりにもおもしろい本だったので、
岩井克人さんに、興奮気味に、いろいろ訊いてきましたよ!
インタビュアーは、「ほぼ日」スタッフの木村俊介です。


第1回 悩みは無知から生まれる


『会社はこれからどうなるのか』
(岩井克人/平凡社)

「行政職は向いてないんです」
東京大学経済学部長の
岩井克人さんですよ!
ほぼ日 『会社はこれからどうなるのか』は、
岩井さんの本としては異例の、
インタビューを下地にして
書き下ろされた単行本です。

「わたしはインタビューという形式の
 自由さに誘われて、
 最初から文字を書き連ねていたならば
 けっして取り上げなかったであろう話題に、
 何度も脱線しています。
 全体の議論の運び方も、
 ゆっくりとしているはずです」

「出自がインタビューであったということが、
 かえって
 この本を読みやすいものにしたのではないか、
 とひそかにわたしは思っているのです」

「インタビューされることによって、
 それまで考えてきたいくつかのテーマの間に
 思いがけないつながりがあることに気づかされ、
 次の仕事のおおきな足がかりになった……」

岩井さんご本人も、
あとがきで、そう語られているように、
今回の本は、従来の学問的な本とは
ずいぶん違う目的で書かれたと思います。

『会社はこれからどうなるのか』は、
どんな読者に手に取ってもらいたい単行本ですか?
岩井 わたしにとって、「この本の読者」は、
具体的には、実際に会社で働いている
ビジネス・サラリーマン、
サラリーウーマン、それから、これから
会社へ入ろうかどうか検討している学生です。

今までのわたしの本って、だいたい、
書店では、経済学や
人文科学の棚で売られていましたが
今回は、ビジネス書としても読まれるように、
実際に働いている人を意識して書きました。

世界経済も動いてますし、
特に日本経済は
「失われた10年」ということで、
サラリーマン、サラリーウーマン、
それから、これから就職する学生も、
会社で働くということについて、
いろいろな「不安」を抱えていると思うんです。

「不安」って、どういうものかというと。

まず、
「日本的経営はもうダメになったといわれ、
 一方でグローバル化しているから、
 もっと国際的にならなくちゃならない」
という不安が、ありますね。

それと、アメリカもつい最近までは
株式市場の値上がりが続き、景気も良かったから、
よく世間でいわれていたように
「アメリカが大繁栄していて、
 今はすべての国際標準がアメリカに倣う」
ということへの不安も、ありますね。

そして、一方でIT革命が起こって、
「技術が全ての世界を制覇する、支配する」
という大きな不安も、出てきます。

それから、
「金融市場がどんどんど新しくなって、
 いろんな金融商品ができて、
 デリィバティブだとか、一般の人から見ると、
 わけのわからないものが登場してくる」
ということへの不安もあります。

そういういろんな情報が錯綜しているので……。

「その中で、いったいどういうかたちで
 自分がいまの会社の中で
 仕事をしていくのか?」

「会社を選ぼうとしている自分は、
 どういうかたちでどんな会社に
 入っていけばいいのだろうか?」

会社に関わっている人、
もしくはこれから関わろうという人たちは
そんな風に、悩んでいると思うんですね。

そういう人たちに対して、わたしの試みは、
「錯綜した情報を、
 ある程度は現状の理解ができるように
 まとまった枠組みを提供してあげたい」

ということですね。

もちろん、わたしの本が
みなさんの持っている悩みに
解決を与えるわけじゃないんです。
「解決」っていうのは、それぞれ
本人が見つけるしかしょうがないわけで。

だけど、すくなくとも、
不安の源になっていることに関して、
解決を探る糸口が見つけられるような、
そういうヒントを、
この本では提供しようと思っています。

独断と偏見はなるべく省いて、
「会社という仕組みには基本原理があるんです」
というところから、解きほぐそうと考えました。
つまり、学問的に、理路整然と、
理解を積みあげていくという試みです。

インタビューをもとにしたので、
話がわき道に逸れることもあったのですが、
その「議論のゆっくりした動き」や
「くりかえしがあるところ」があるゆえに、
逆に、わたしがふだん書く本よりも、
わかりやすくなったのではないかと思うんです。
ほぼ日 インタビュアーは、
平凡社の編集者の西田裕一さんですが、
今回、どんな取材をされたのですか?
西田 ロングインタビューをしまして、
それをまとめてみましたら、
400字詰原稿用紙でいうと
1000枚近い原稿が、まず、できました。
岩井 14時間の長いインタビューです。
西田さんから、
A4で4〜5枚の質問集をいただいて、
それをもとにインタビューをすすめました。
夏に、汗だくになってやったんです。

ちょうど夏休み中の土日だったので、
学校の冷房が止まっちゃっていまして……。
ほんとにもうしわけないぐらい暑い中で、
西田さんと、それから
テープ起こしをしてくださった
脇坂さんという方と一緒に、
話をしていったんですけど。
西田 その1000枚近い原稿を、
なんとか短い本にしようと思って、
無理矢理まとめたんです。
それを見ていただいたところ、
「これじゃいかん」と岩井さんが思われて。
岩井 (笑)
西田 それで、手を入れていただいたんです。
ほとんど原形をとどめていないですし、
ほぼ書きおろし状態になるまで、
岩井さんの直しが入っていますから、
わたしたち取材者のしたことは、
本の「あらすじ」を作ったようなものです。
岩井 いや、そう言うけども、
たぶん西田くんの章だてが
あってこその本だと思うけど。

ぼくは、西田くんのインタビューを受けて
考えをまとめていくことで、
自分がこれまで専門でやってきた資本主義論と
この10年来の研究テーマである法人論とが、
自分の中で結びついてきたというのが、
すごく大きかったんですよ。
西田 わたし自身が会社員でして、
非常に不安定な会社につとめていますので(笑)
「これから
 会社というところでどう働けばいいのか、
 岩井さんからいろんなヒントをいただきたい」
というのが、この本の企画のモチーフでした。
だから、素朴な疑問も含め、
会社に関する質問をいっぱいしたんです。

はじめから、岩井先生には
「答えなどはありません」
と言われていましたし、
普通は「自分で考えなさい」と
言われるべき問題なんですけども、
ともかく何かヒントをいただきたいっていう
気持ちが強かった……。

そういうことだけは、
読者を代表している振りをして、
ずいぶんしつこくうかがった
という気がします。
ぼくがやったのは、それだけです。

あとはもう、本の構造にしても、
岩井さん独自の論の運びかたで、
推理小説のようにも
読めるようにしていただいて。
すごくおもしろいものになりました。

だからそういう意味では、
やはり答えをいただいたなぁ、
という感じがしています。
本ができあがった時は嬉しくて、
いちばん最初に会社の社長に持っていきました。
「これ読んで下さい。ウチの会社のことです」
って(笑)。


第2回 成功を約束されていたけれど


『会社はこれからどうなるのか』
(岩井克人/平凡社)

今回、特に気合いの入った
話をしてくださる岩井さん。
一所懸命働いている人には、
必見の談話が、続きますよ!
ほぼ日 『会社はこれからどうなるのか』は、
どこの章を読んでも、すごくおもしろいです。

そのおもしろさの理由は、
「岩井さんの理論自体」にも、
もちろんあると思いますが、同時に、
「個人は、どう生きるべきか」
という問題意識が、
いつも本文に反映されているからでは?
と感じたんです。

その点が、ふつうの経済の本を
読んでいるよりも、読者にとっては
「おもしろい!」と感じるところだと思います。
岩井 インタビューという共同作業の中で、
編集者の西田くんが、常に
「会社の中でどう生きるか?」
という問いにわたしが答えるように
プレッシャーを与えてくれましたから(笑)。

わたしのほうでも、そういうテーマに
なるべくお答えするように心がけていたことが、
結果に出たんですね。
ほぼ日 この本を読んでいると、
会社に勤めている人も経営者も、
途中で何度も、自分の仕事と生き方に関しての
刺激をあたえられるだろうなぁ、と思うんです。

岩井さんは、本の冒頭で、
「わたし自身、
 一度も会社で働いたことがない
 純粋培養の学者です。
 そのようなわたしにできる唯一のことは、
 現実とはすこし離れた位置から、
 物事を構造的・長期的に眺めてみることです」
と書かれてはいらっしゃいます。

ただ、勇気の出てくるような
本の書きかたをされているので、ふと、
「どんな生き方をしてきた人が、
 こういうものを書いたんだろうなぁ」
という興味が沸いてきたんです。

岩井さんの経歴は、
マサチューセツ工科大学で博士号を取り、
イェール大学で助教授をつとめたあとに
日本に戻るというドラマチックなものですし、
研究生活のなかでは、当然、
学問的な動機の変遷もあったと思うんです。

30年前ぐらいからの
岩井さんの学問的興味が、
どう推移して最近の研究に至っているのかを、
お聞かせいただけますか?
岩井 わたしがアメリカで研究するようになったのは
ほんとうに「偶然」なんです。
わたしは日本の大学院に
行こうと思っていたのですが、
1969年に日本で大学を卒業した時、
有名な東大闘争というものがあって、
行くことができなくなってしまいまして……。

ゼミの先生などを中心とした
さまざまなかたが、その時
大学院を志望していた学生のうちの
何人かに対して
アメリカに推薦状を書いてくださり、
それでわたしは、
アメリカの大学院に行くことになりました。

家もお金持ちじゃなかったので、
外国なんてあんまり考えていなかったのに、
まったく思いがけず
アメリカで大学院生活を送りまして。
そのまま研究者として居残りました。

わたしの場合は、そこで
研究者としての「大志」を抱いてしまいました。

大学院一、二年の時に、
研究者としての論文を
いくつか、すぐに書けちゃったんです。
数理経済学をやっていまして、
わたしは当時、
世界でいちばん期待された若手と言っていい。

でも、ちょっと、
わたしは、野心も非常に強かったので、
それだけじゃ不満になってしまい、
いわゆる「偉大な著作」を書こうという
意図を持ってしまいまして……。


そこからも7年間くらいかけたんですけど、
『不均衡動学』という本を、
わたしは、ずーっと書くことにしました。
そして、それを発表した。

これは、いまだに、
わたしが書いたもののなかでも、
いちばん重要な著作の
ひとつだと思っているんですけれど、
それを書いて提出したおかげで、
わたしは学会の主流から見事にはずれました。
主流派から、一気に、異端、ですね。

日本では評判がよかったですし、
ヨーロッパでも、イタリアかなんかでは
読まれたらしいのですが、
アメリカでは黙殺に近いかたちでした。

わたしは、一時は、
アメリカでの成功を約束された人間でした。
ただ、アメリカの中で
学者としてガンガンやっていくためには、
ある面では、わたしが大学院生のときに
書いたような主流派の論文を
どんどん量産しなくちゃならなかった
わけです。

ところが、わたしは、
ケインズやハイエクといった
古典に匹敵するようなものを書こうなどと
7年間も本を書くことに没頭してしまった。
しかも、主流派にさからう内容……。


これでは、アメリカの学問の世界では
出世しないわけで、ともだちは、
「おまえはバカだ。
 もうちょっとガマンして、
 たくさん論文を書けばよかったじゃないか。
 著作は、教授になってからでも、よかったはず。
 なんで、そういう身の処し方をしなかったのか?」
わたしに、そう言いました。

でも、そういうことをしていたら、
すぐに40歳以上になってしまうと
思ったんですね。

実際、当時のわたしのまわりで
近い考えを持っていた優秀な人はいましたが、
それこそみなさん、いまは主流派のなかで
ものすごく偉くなっています。
「ミイラとりがミイラになってしまった」
というのが、ほとんどですから……。
ほぼ日 自分だけの道を、開拓したんですね。
岩井 いや、いま、すこし
自分のことを美化したところも
あると思いますが、たぶんわたしも、
もし、もっと貧しい国から来ていたとしたら、
そういう道は絶対に選ばなかった
んです。

すでに、
日本では高度成長が終わっていた時期に、
わたしはアメリカに来ています。
だから、日本というのは
ある程度は繁栄した、戻れる場所でもあった。
正直言って、そういう保証があったからこそ、
わたしは、異端的な道を選べたわけでして……。
やはり、生活がかかっているとか、
アメリカで一生過ごさなければならないだとか、
そういう人だったら、絶対に
わたしのようなことは、しなかったでしょう。

ですから、自分の選んだ道は、
冒険でもなんでもないんですよ。

日本という、世界の中でも恵まれた国から
アメリカに出てきているという要素は、
わたしの決断に際しては、大きかったと思います。

いまの会社員の方々だって、
外に出ようと言っても、いきなりは無理でしょう。
ある程度は、会社で働いて、人間関係を作って、
ということがなければ、なかなかね……。

だから、わたしは、若い学生たちにも
無謀な冒険を礼賛することはできません。
学生には、
「ある程度、論文を書いたほうがいいよ」
と言ってますから……。
ほぼ日 (笑)そのリアルさが、気持ちいいです。
極端なことは、言おうと思えば言えますもの。
岩井 当時のアメリカでのクラスメートや
わたしが教えた若い人の中には、
アジアやラテンアメリカや南ヨーロッパから
単身でやってきて、ほんとうにがんばって、
アメリカで名を成した学者が何人もいます。
そういう人たちは、
わたしよりも、ある意味でオトナでした。
わたしは日本人で、
ロマンチックなコドモだったんです。
ほぼ日 その人たちは、ちゃんと
「職業としての学問」を意識していた、と。
岩井 そうなんです。
わたしに関しても、
日本の出身ですから、
当時すでに、日本の先生や日本の学会での
コネクションもある程度持っていたわけで、
「アメリカで仕事をしていても、
 いざという時には日本に戻れる」
という意識や計算が、
どこか、見えないところに、あったわけです。
それが、わたしの決断に影響を与えないわけは
ないですから、包み隠さず申したほうがいいですね。
ほぼ日 (笑)


第3回 違和感が発見をきりひらく


『会社はこれからどうなるのか』
(岩井克人/平凡社)

自分のいまいる環境に
違和感や疑問を抱いた時こそ、
実は、チャンスが見つかる…?
岩井さん、今日も熱いですよ!
ほぼ日 主流派から離れる危険を冒して
7年かけて理論書を書いた経験のある
岩井さんのお話を伺うと、読者としては、
「そういう経緯を経た人が
 一般の人が最も悩んでいるものについて
 強い動機を持って、書いたんだなぁ」
と感じると思うんです。

ですので、若いころのお話もうかがって、
いま、「ますますおもしろいなぁ」と思いました。

生物学かなんかの世界では、
むしろ、一流の学者ほど、
一般の人向けの偉大な著作を、書きますよね。
岩井 スティーブン・J・グールドなどは、
わたしも大ファンで。
『パンダの親指』は、
エッセイのネタに使ったこともあります。
ほぼ日 岩井さんが、若いころに、
アメリカの経済学の主流派と
対立したとしてもやりとげたかった
「偉大な著作を書きたい」という気持ちは、
いまでも、つづいていますか?
岩井 それが、わたしの
学者としての生き甲斐ですから。
ほぼ日 ……おぉ!
岩井 7年かけて本を書いた時の補足ですが、
当時のわたしは、もちろん、
「偉大な著作を書きたい」
とも思っていたわけですが、その背景には、
主流派の経済学の「資本主義万歳」という
姿勢への違和感がありました。


人間が、市場のなかで、
自分の利益さえ追求していれば
それこそ、神の見えざる手に導かれるように
すべては、よい状態になるという、
アダム・スミス的な世界の捉えかたです。

「存在するものは、すべてよい」という、
そういうスタンスで、資本主義を見ていますよね。

しかし、たとえば、アメリカにいる
わたしのような日本人というのは、
「すべてよい」の中に、
入っていない場合もある。

どうふるまっていても、外部の存在なわけです。

存在するものは、すべてよい?
……じゃあ、
わたしの存在は、なんなのだろう?

そういう違和感は、毎日アメリカ人と
接する中では、どうしても出てきました。

わたし自身は、もっともアメリカ的な
経済学を学んで、そこで博士号を取り、
その経済学をアメリカの学生に
教える立場にさえいたわけですが、
「やはりこれは、我々の生きている
 現実の資本主義社会を捉えきっていない」
という意識は、常に持っていました。

その違和感を、
なんとか理論化したい。

そういう強い思いが、
わたしの動機にあったのだと思います。

マルクスだったり、
ケインズ、ハイエクといった
そういう人たちの過去の歩みにも導かれて、
いろいろヒントを受けていました。
そのヒントをもとに、
なんとか、自分なりの理論を生みだしたい……。

そんな中で生まれた『不均衡動学』は、
「主流派理論の枠組みのなかで
 その理論を主流派以上に徹底的に追及すると、
 主流派経済学の前提が壊れてしまう」

という、戦略的な理論の立て方をしました。

今から思うと、
のちに日本に帰って
いろいろ思想的なことをやった時に、
自分の『不均衡動学』の理論とは
当時のフランスの脱構築派だとか、
ああいう人たちがやっていたことと

同じようなことをやっていたのだということを、
あとで、気がついたんです。

自分はすでにそういう論法で
主流派の経済学を見つめなおしていたので、
当時フロンティアとされていた
フランスの思想の流れは、
とてもよくわかりましたね。

「内部から徹底的にものごとを追及していくと、
 それが結果的に理論そのものをひっくりかえす」
という手法については、
『会社はこれからどうなるのか』でも
利用しています。

……ところで、
いま、わたしが話してること、
「ほぼ日」で書いて、よろこばれるの?
ほぼ日 読者の方々は、きっと、
おもしろがって読んでくださると思います。

「ほぼ日」って、だいたい、
20代や30代の仕事や勉強に一所懸命な人たちが
読んでくださっている、という印象があるんです。

ですから、分野は違えど、
「ひとつの仕事を極めた結果、
 ある分岐点を迎えた」とか、
「そうとうがんばっている途中で、
 自分のいる組織そのものに疑問を感じた」
とか、そういう岩井さんの経験は、
かなり、共感されるんじゃないでしょうか。

岩井さんは、その後、日本に行く……?
岩井 ええ。
『不均衡動学』を書いたあとは、
それに連なる仕事を、
論文を量産するプレッシャーのない中で、
じっくりやっていこうと思って
日本に戻ってきました。

いちばん重要だと思っている
テーマについて、細々と論文を書いて、
たまに外国の雑誌に出したりするという、
そういうスタンスの研究活動になったんですね。

言語的にも、アメリカの中では
日常生活での言葉以上のことは
自由に語れなかったのですが、
いや、日常生活ですら
言葉が不自由であったのですが、
日本の中では、
自分の中で蓄積された哲学的な問題を、
言語的に、自由に話せるわけでしょう?

哲学と言っても、常に、経済との関連で
わたしは語ってきましたが、
そういうことも、やってきています。

そんなうちに、
1980年代の後半に
わたしの妻……今は小説家ですが、
彼女の書いた批評理論の論文が
アメリカの英文学者に読まれて、
それをきっかけに、
プリンストン大学によばれたんです。

それじゃあ、ついていくか、ということで、
わたしもアメリカに行くことにしました。
ま、いわゆる夫唱婦随の逆転ですね。
……単に、ついていったんです(笑)。
ほぼ日 その、2回目のアメリカについての話も、
おもしろそうですね。

最初に行った時は、それはもう若いし
野心もあるし攻撃的でもあるし……
やってやろうっていう時期。
岩井 もちろんその気持ちは、
若い時、ものすごくありましたね。
ほぼ日 でも、それとはまた違うスタンスで、
2回目のアメリカ生活がはじまるわけで、
そのふたつの生活の違いに興味があります。
岩井 そうですね。
はじめに学者になった時は、ある意味、
すぐに論文を書け、就職できちゃったので、
「これをずっと続けては
 人生つまんないだろうなぁ」と思いました。

わたしのまわりで、
論文を量産していた人たちは、
アメリカの経済学の世界のみならず、
アメリカ政府の中でも活躍していますけれど。

……自分は、そういう道へは行かなかった。
まぁ、それは、しょうがない。

2回目、妻についていった時、
わたしが向こうで客員教授になるために、
いちばんラクなのは、日本経済を教えることでした。
そこでわたしは、
プリンストン大学とペンシルバニア大学で
日本経済担当の客員教授になりました。
学部生に、マクロ経済学なども
教えさせられましたが。
ほぼ日 奥さんについていくというお話をする時、
岩井さん、顔が、とてもうれしそうですね。
岩井 (笑)

わたしの仕事は、日本経済というものを、
アメリカ人に教えるということで、
ですから、にわか勉強をしました。
その過程で、日本の会社というものが、
いかにおもしろい存在か
ということに
行きあたったんです。

そこからは、法人論というものを
ほんとに勉強してみると、
自分が日本の会社の特徴を説明するために
考え出した理論が、どうやら、
法理論研究の歴史のなかでも、
あたらしいらしい。

そういうことに、気づきました。


第4回 会社は株主のものではない


『会社はこれからどうなるのか』
(岩井克人/平凡社)

今回はじっくり読んでね。
「資本主義」の仕組みを、
岩井さんが、わかりやすく、
刺激的に語ってくださった!
ほぼ日 岩井さんが
「資本主義万歳という主流派が
 実際の社会と違うように見えた」という点って、
具体的には、どこが「違う」と感じたのですか?
岩井 資本主義そのものについては、いまは、
いいわるいは別にして、もう「ある」ものですし、
「そこで生きざるをえない」というものでしょう。

それに、人間が自由というものを求めたら、
かならず、資本主義になると思っているんです。

「資本主義を抑える」ということは、
「自由を抑える」ことですから、
自由を尊重しようとするならば、
資本主義の中で生きざるをえなくなる。

ただ、従来のアダム・スミス的な考えだと、
「いいものだ」という一辺倒なんですけれど、
「資本主義を100%純粋にすれば、
 すべての問題は解決される」
という主張には、疑問がありまして。

たしかに、
資本主義というのは
世の中をますます効率的にしていきます。
しかし、それは同時に、
世の中を不安定にしたり、
不平等を生んだりするもので……。

まず、実感として
「違う」というのは、たとえば
「不況があるじゃないか」ということです。
従来の主流派の経済学のなかでは、
理論上、不況なんてありえない。
起きたとしても、それは単に
人が非合理的に行動する結果なんだ
という見方なんです。


「人間が合理的になれば
 不況も起こらない。無駄のない良い社会になる」
主流派の経済学の言っていることは、
単純化すると、そういう発想なんですね。

「共同体のしがらみや政府の余計なお節介が
 人々に非合理的な行動をとらせてしまう、
 だから、資本主義がうまく働かない。
 そこで資本主義を純粋にすれば、
 問題がなくなる……」

だが、現実を見ても、
不況はあるし、インフレもある。
そもそも資本主義が「発展」と「不安定」の
二律背反性を、本質的に持っている
矛盾に満ちたシステムなのです。

矛盾を、具体的に言いますと……。
資本主義の、いちばんの基礎には、
「貨幣」、おカネがあります。

おカネさえ持っていれば、
相手がどんな人間であろうが、
モノと交換できるということで、
経済活動が発展していくわけです。
そして、そのおカネを、
単にモノを交換する手段としてでなく、
おカネ自体を欲しがり、蓄積するようになると、
資本主義が誕生します。

おカネがなければ、知っている人どうししか
関係を持てないし、物々交換はタイヘンですし。

しかし、そのおカネがあるがゆえに、
人々はおカネを貯めすぎることもある。
そうすると、企業はモノが売れなくなり、
不安になった人々は
ますますおカネを手元においてしまう。
これが不況です。

たとえ企業は
合理的に行動したくても、
合理的になれないのです。
また、貯めたおカネがモノより
要らないものになって
すぐに使おうとするとインフレになる。
インフレが行き過ぎて、
ハイパーインフレになって、
おカネそのものの価値が消えてしまい、
資本主義自身が崩壊してしまうことさえある。


資本主義を生み出したおカネは、
必然的に資本主義を不安定にするのです。

プラス面の裏に
マイナス面を抱えているというのが
資本主義の本質だと考えています。
そういうことは、もちろん、
ケインズやマルクスなども、
いろいろなかたちで、指摘しています。

いま、30代から40代の
日本でもアメリカでも、主流派の流れで
ほんとに超一流の仕事をしている人たちがいます。
「そういう人たちが、これからどうなるかな?」
というのには、かなり興味があります。

一生懸命、ある意味では
世界的なひのき舞台で突っ走る。
それはそれですばらしい。

だが、そういう人たちも、
40歳を過ぎていくと、
それまで、いくら抽象的なことをやっていても、
いろいろなかたちで、
現実の社会に興味を持ちはじめる
と思うんです。

ちょっと年寄り臭い言い方をしますが、
そういう人が、どう変身を遂げるか。

そのへんには、関心があるんですよ。

特に優秀な人たちですから、変化を見てみたい。
もちろん、何の影響も受けずに
やりつづける人もいるかもしれませんけれど。
ほぼ日 この『会社はこれからどうなるのか』でも、
「現実と違う理論への違和感」が出てきますね。

たとえば、「会社って何なの?」という
問いにしても、岩井さんは、
一般的な人の思う「会社」の像とは
かなり違う事実について、丁寧に書いています。
岩井 はい。

「会社とは何か?」ということに関して、
みなさん、きっと不安があると思うんです。

「会社は株主のものだ」と主張され、
それこそ「グローバルスタンダード」だとか

と言われる日々で、みなさん、実はどこか、
「ほんとうにそうなの?」
と感じているのではないでしょうか。

でも、日々忙しいので、
疑問をそのまま放っておかざるをえない、
という人だって多いことでしょう。

ところが、
「会社は株主のもの」という主張は、
理論的にも誤謬なんです。


それはわたしは、
声を大にして言うべきことだと思っています。

「会社ってなんだろう?」
という問いは、いまの会社員にも重要ですが、
実はもう、ずーっと前から問われ続けた難問です。
この問いって、ローマ時代から
法学の最大の論争のひとつと言われている
「法人論争」と密接に結びついているんですよ。

この法人論争というのは、
「法人名目説」と「法人実在説」の論争で、
哲学上の大きな論争のひとつでもある、
「唯名論」と「実念論」の論争とも結びついた
形而上学的にも、
おもしろいものであることに気がつきました。

形而上学的におもしろい「会社」という存在が
資本主義の中核になっていて、しかも、
資本主義で最大の力として動きまわっている。
そのことに、わたしは、
まず、好奇心をかきたてられました。

法人論争は、
悠久千年も、論争が続いていて、
しかも、まだ、終わっていないものだった……。
そして、わたしには、大げさに言うならば、
「自分で決着をつけよう」
という意思があったんです。

それをもとに、
この10年研究してきました。
1999年に、
アメリカの比較法の学会誌に掲載した
わたしの論文は、自分としては、会社理論として、
新しいものが含まれていると考えています。

その理論で会社のことを見てみると、
自分で言うのも何なんですけれど、
「会社とは何だ?」ということが、
非常にハッキリとわかるようになりまして……。


それを、この本で、
実際に働いている人にも使っていただけるよう、
書いていったというわけなんです。

資本主義は、
利益を追及する仕組みだとされています。

そして、いまのアメリカ的な主流派経済による
資本主義の見方は、それを非常に強調するわけです。
「自分の利益さえ追求していれば、
 結局は、市場という見えざる手の働きによって、
 社会的にいちばん良い状態が生まれる」

……しかし、それだけでは、ないんです。

資本主義のいちばん中核には、会社がある。
その会社のどまんなかには、
実は、利益追求とまったく対立する
経営者の「倫理」があるんですよ。
これが入っていないと、
そもそも会社制度がなりたたない。
自己利益を追求する資本主義には、
倫理が本質的に入りこんでいるというのです。


それを理解するだけで、資本主義を見る目が、
かなり、違ってくるんじゃないでしょうか?


第5回 「信任」こそ社会の中心

資本主義社会って、
ダマしあいで成りたつ
弱肉強食の世界なの……?
「実は、そうでもないかも」
岩井さんは、社会の根っこを
経済理論から考えなおしてる!


『会社はこれからどうなるのか』
(岩井克人/平凡社)
ほぼ日 私的利益を追求する資本主義が、
実は、その真ん中に、
「倫理」を含んでいる、
という岩井さんの考えを、
もうすこし、ご説明いただけますか?
岩井 「信任」という言葉が、あります。
信頼によって
ほかの人から、仕事を任されることです。

たとえば、
無意識ではこばれてきた患者がいる。
手術する医者は、患者と契約をむすべません。
患者の命を、信頼によって任されているのです。
そのとき、なにしろ患者は無意識ですから、
怠慢ならば、いい加減な手術でごまかせますし、
悪意があれば、人体実験すらできる。

医者が、自分の利益を抑えて、
患者の利益のみに忠実に、行動しなければ、
誰もおちおち医者にかかれなくなる。

つまり、信任という関係が成立するには、
「倫理性」が要求されるというわけです。

じつは、私の会社論の中核には、
経営者とは、会社にたいして、
この信任の関係にある、

という主張があるのです。

会社は「法人」です。
本当はヒトではないのですが、
法律の上で、ヒトとして扱われているのです。
その会社が契約を結ぶときには、
会社を代表して、交渉したり、
契約書を書いたりする本当のヒトが必要です。
それが「経営者」なのです。

ということは、もしその経営者が
自分の利益のみを追求したら、
巨額のボーナスや退職金などの契約を
会社の名前で、自分と結べてしまいます。
好きなことをしほうだいです。

つまり、会社がまともに動くためには、
経営者が「倫理」的であることを、
要請されているというわけです。

私的利益を追求している資本主義には、
会社の存在が不可欠ですが、
その会社の中核に
「信任」という関係が必然的にあって、
それが「倫理性」を必要とするということになる。


だが、アダム・スミスの教えに忠実に、
会社の中核に「倫理」があることを
無視してしまったのが、
最近のアメリカ型の資本主義で、
その必然的な結果が、エンロン事件なのです。

アメリカのエンロン社が、2001年末に
粉飾決算の発覚をきっかけとした
大型倒産をし、2002年にも
有名会社の粉飾決算がつぎつぎと発覚しました。

じつはわたしは、
この本を作っている最中の2001年の夏に、
すでに、それを予測してたんです。

「アメリカ型の
 コーポレート・ガバナンス(会社統治機構)
 には、本質的な矛盾が含まれているから、
 かならず何らかの不祥事が起きるはずです」と。

でも、忙しくて、
本を作るのに手間取っているあいだに
不祥事が起きてしまったのですから、
予言にもなりません。そこは書き換えました。

実は、いまは、会社の信任についての
一般理論を作れないかなぁと、
それをやりはじめたところです。
まぁ、学部長(東大経済学部)に
させられなければ、
もっとはやくやれたのですけどね。

このテーマは、おもしろいです。

資本主義における基本的な関係というのは、
ふつうは、「契約関係」とされています。

「自立した、
 合理的計算のできる人間が、
 お互い、自分の利益に
 プラスになれば契約を結ぶ」

契約の関係の中では、失敗しても成功しても、
どちらにしても、自己責任の問題になる。

ところが、資本主義の中には、
実は、会社の中だけじゃなくて、
先ほどの医者と患者の関係のように、
いたるところで「信任」の関係が
本質的な役割を果たしていることに
いまさらながら気がついたのです。
ほぼ日 おもしろい話です。
「信任」について岩井さんが研究をしていく
その過程について、話していただけますか?
岩井 わたしがいまやっているのは、
「信任と契約には、
 どこに根本的な違いがあるか?」

ということを理論化することが、
まず、ありますね。

それから、信任と契約の関係は、
従来の経済学だと、契約が主で、
信任は、あってもせいぜい付属物でした。
しかしわたしはいま、
それを等しく重要な関係だと考えています。

実はもっと言えば、わたしは、
「市民社会っていうのは
 信任関係が
 いちばん基礎にあるのではないか?」

そういう仮説を、立てているんですよ。

いままでの市民社会論は、
だいたい契約関係から入るんだけど、
実は、そうじゃないと考えています。
市民社会の基本は、
人と人の間の信任の関係であって、
その中で、対等な人と人との関係が
契約関係になるというかたちで、
市民社会の新しい規定ができるんじゃないか、

という、それがちょっといま、
長期的にやってみようかなという問題です。

会社の話をきっかけに、
信任の問題に入っていって、たぶん
市民社会論の問題につながっていく……。

いま
「グローバル資本主義が
 世界を覆い尽くしている」という時に、
唯一、それに対抗できるのが、
いま述べたようなかたちで理解された、
「市民社会」の概念なのではないでしょうか。

この場合の市民社会とは、
カントの倫理論を基礎にしていますけど。
つまり、倫理とは、基本的には
「ほかの人間を、
 自分のための手段として扱わない」
という非常に抽象的な原理ですね。

資本主義とは、
「おカネさえ持っていれば、
 相手がどんな人間かさえ問わない」
という、
ものすごい抽象的なシステムですよね。
だから世界性をもつ。

それには、地域社会ネットワークや
共同体的な連帯では、とうてい対抗できません。
わたしとしては、
資本主義と同じぐらい抽象的な原理として、
唯一あるのが、
いま述べた市民社会だと考えています。

この市民社会の原理は、
たとえばNPOとかNGOとかとも
深い関係がありますが……。
ただ、いまのままのNPOやNGOでは、
「グローバル資本主義に反対する」
と言っているだけに留まっていますよね。

何と言っても、
今のところは時間がないんですが、
あと半年で学部長を辞めることになりますから、
そこからはまた、図書館通いとかをして、
時間をかけて、市民社会論を
じっくりやるより仕方がないと。
ほぼ日 時間がないのは、
この単行本の執筆もだったと思いますが、
この本で、
もうちょっとあそこはこうしたかった、
ということがあれば、それは、どこですか?
岩井 やっぱり後半の部分。
資本主義論のところは、
もう少し時間をかけたら、
もうちょっと、整理しなおせたかなぁ、
と思ってますけどもね。
ほぼ日 そうなってくると、
いまやっている「信任」まで含めた、
ものすごい大部な本ができちゃいそうですね。
岩井 それだと、
この本は、すでに出版が1年半遅れたのに、
また余計に、時間かかかっちゃう!(笑)


第6回 差異だけが利潤を生む

最終回の今日は、
特にたっぷりおとどけ!
なにが、利益を生むのか。
どの情報に価値があるか。
根源的なところから、
岩井さんが語りますよー。


『会社はこれからどうなるのか』
(岩井克人/平凡社)
ほぼ日 『会社はこれからどうなるのか』を
まだ読んでいない人にとって、
かなりびっくりするだろうなぁ、
という「差異」の話を、
すこし、ご説明いただけますか?
岩井 わたしが、
この本の後半で言おうとしたのは、
「資本主義が大きく変わりつつある」
ということなんです。

だからこそ、
終身雇用制も年功序列制も
いまの会社では、解体しつつあるわけです。
サラリーマンの生活を選択することに対して
不安を抱く人も、増えているんです。

この本では、なぜ、
会社がそうなったのかを、説明しています。
その一部を、ここで申しますと……。

1970年代あたりから、
先進資本主義国において、
産業資本主義から、ポスト産業資本主義に、
資本主義のかたちが移りかわりつつあるんです。
高度情報化社会とか知識社会とか、
いわれてもいます。
その実際が、どういうことかを言いますと。

もともと、
利潤は、差異からしか生みだされません。
産業資本主義というのは、
「多数の労働者を使って大量生産をおこなう
 機械制工場システムにもとづく資本主義」
のことです。

もちろん、たんに工場があっても、
それだけでは、利潤は生まれません。
あたりまえですが、費用が収入より
低くないといけないわけですが、
それは結局、労働者の賃金が
その生産性よりうんと低ければいいわけです。

この
「労働生産性と実質賃金率の差異」こそが、
産業資本主義の利潤のもとだったんです。
そして、そのような「差異性」を保証したのが、
農村における過剰な人口であったのです。

つまり、
安い賃金でも働きたい労働者が、
農村から都市にどんどん流れこむかぎり、
産業資本主義は、成り立っていた。

これは発展途上国では、
現に存在している資本主義です。

しかし、先進資本主義国の中では、
産業資本主義の拡大がいつしか、
過剰人口の産業予備軍を使いきってしまった。
その結果、「実質賃金率」があがりはじめて、
「労働生産性」との差がなくなっていきました。

労賃が安かった時代では、
機械さえ持っていれば、
ほかの企業と同じことをやっていても、
必然的に、
利益を生み出すことができたんですけど。

だが、もはやそういう産業資本主義のしくみを
使えない……。
差異性を意識的に作りださなくちゃ
利益が生み出せなくなってしまった
時代になったのです。

それが、ポスト産業資本主義です。

差異性を生み出すということは、
そちらの「ほぼ日」もそうでしょうけれども、
情報を提供したり、
広告をやったりとかいう、いろんなかたちで
ほかの企業とは「違ったこと」をやることで、
それによって利益を生み出す。

でも、違いは、じきにほかの企業に
まねされてしまいますね。
だから、つねに違っているためには、
新しい技術や新しい製品を作ったり、
新しい市場を開拓したり、
新しい経営方法を発明したり、
そういう新しいものが、必要になるんです。


それが、われわれの生きている
ポスト産業資本主義社会の特徴です。
われわれは日々、
何かに追いたてられるように
忙しくなっているというのは、
そういうことです。
ほぼ日 本のなかから抜粋すると、
「『新しさ』がひたすら喧伝されています。
 なにしろ、そこでは、
 『新しさ』が価値なのです。
 いや、『新しさ』しか
 価値がないと言ったほうがいいでしょう。
 なぜならば、
 どのように独創的な製品も、最先端の技術も、
 画期的な組織形態も、未開拓な市場も、
 いつかは必ず他の企業によって
 模倣されたり、改良されたり、
 追随されたり、参入されたりしてしまい、
 その差異性を失ってしまうからです」
というところですよね。
岩井 ところが、その、
「新しい差異を、
 常に作っていかなければ、
 利潤は生まれない」という原理が
同時に何を意味しているのかというと、
「もはや機械ではなく、
 人間がもっとも価値をもつ社会である」

ということです。

利益を生み出すためには、
違いを生み出さなければならない。
それが、はっきりしたからです。

「違い」っていうのは、どこかに
ポロっと転がってるわけではなくて、
人間が作りださなくちゃならないですよね。
その違いを生み出す
能力や知識をもっている人間が、
いちばん価値を持つ存在
になっているんです。
ほぼ日 その流れで、
「今は、おカネの価値が、
 相対的に下がってきている」
とも、書かれていますね。
岩井 はい。

差異を生みだすのは人間だけど、
人間は、機械と違って、自由意志を持っている。

人間にたいして、
おカネができることは、せいぜい、
ある時間の労働力を買うだけですよね。
たとえ奴隷にしたところで、
人の考えていることまでは
コントロールすることができません。

これまでは、
おカネを持っていれば機械を買えた。
その時代は、機械をもてば、
ほぼ自動的に利益を生みだせたからこそ
おカネに力があったんですけど、
今はおカネがあっても、
おカネでは人間を
まるごとコントロールできないわけです。

ということは、
会社の中では、
おカネの最終的な提供者である
株主の力っていうのは、
従来から比べたら
弱まってしまったということなんです。

会社の中に生きている人や、
これから会社を作ろうとしている人は、
おカネではなく、人間が
本当の意味での資本になっているのだ、
そういうことを意識していないと、
将来の方向を、見誤ってしまいますよね。

会社は、いままでとは違ってきている。
そこで、どうすればいいかということを、
わたし自身としては、この本のなかで、
デファクトスタンダードとか、
コア・コンピタンスとか、
いろんな角度から、
「差異性を作り出すにはどうしたらいいか?」
という問題にかんして、
ヒントを提示しています。

もちろん、それは
いろんなヒントを与えただけであって、
ほんとの意味での「解答」を
与えているわけではないんですね。
解決策ではなくて、いまの時代に、
どういうふうに考えていけばいいかを、
この本は書いているつもりです。
ほぼ日 岩井さんは、
「経済学の偉大な著作に影響を受けてきた」
とおっしゃっていて、ご自分でも、
偉大な著作への志を持たれたわけですが、
たとえば、それは、誰の本でしたか?
岩井 ケインズ、それから、ハイエク。
かれらの本は、何度読んでも、
いつも得るところがあるんですね。

それから、マルクスは、
イデオロギー的なところは
つまらないんですけれど、
『資本論』の冒頭の価値形態論だとか、
あのへんは、ものすごくおもしろい。

マルクスは、いまは誰も
読まなくなっちゃいましたけれど、
貨幣について、
いちばん根源的な思考した人のひとりですから、
何度くりかえし戻って読んでも、
非常に価値があると思うんです。

それから、
現代の資本主義についてだったら
もう、シュムペーターですね。

『経済発展の理論』と
『資本主義・社会主義・民主主義』は、
これは、現代のポスト産業資本主義を
理解するには、非常にいい本です。
ただ、われわれは
もうすでに、その中に生きてますから。
感動は憶えないかもしれないですけどね。

まあ、それよりも、
わたしがいろんなヒントを得るのは、
たとえば小説だったりとかするんです。
ジェーン・オースティンの小説とかね。

たんにおもしろいから読んでいるのが主ですが、
彼女の作品の『自負と偏見』などには、
資本主義のことを
考えるヒントにも、満ちているんですよ。

若い女性がいかに結婚するのか、
という、一見すると取るに足らない物語です。
だが、それは、
「すべてが商品として売られなきゃならない」
という資本主義社会のなかで、
いかに人間が生きていくべきかという問題に
みごとに対応しているんです。

なぜなら、当時の若い女性にとって、
結婚とは、自分を商品のように売ることです。

そこで、自分を商品として
売らなければならないなかで、
倫理的であることはどういうことか、
いかに人間としての
尊厳を保つことができるかが
問われることになる……
19世紀のビクトリア時代の小説が、
まさに、全面的に資本主義化されてしまった
現代社会における人間の生き方を
考える上で非常な刺激を与えてくれるんです。
だから、くりかし読んでいます。
ほぼ日 くりかえし読んで発見がある本って、
ほんとに、出会うとうれしいですよね。
岩井 一般論ですけれど、
わたし自身、読書をする時に思っているのは、
「1度読んだ本は、読んだことにならない。
 2度読んで、はじめて読んだことになる」
ということです。

それはなぜかと言うと、
1度目にものを読むときには、
だいたい自分の持ってる先入観か、
世間で言われてる、その本に対する評価を、
読み取ってしまう
んですよ。

テクストそのものを読むんじゃなくて、
テクストにかんしてすでに与えられている
価値を読んでしまうんですね。

だから、2度目に読んで、はじめて
世間的な評価も、自分の先入観も取り去った
テクストそのものを読めるというわけです。

ただ、2度読む価値があるものって
わずかなんですね。非常に少ないです。
つまらない本は、2度読んでも、
世間的なことや、先入観しか書いてない。
ほぼ日 (笑)……うわぁ!
岩井 まあ、だから、逆に
そういう本はよく売れるのですけれどね。

ふつうのビジネス書っていうのは、
だいたい、そうですよね。
だから、それはそれで、
どう選別するかはむずかしいですけど、
そこで、長年の経験とか、
いい先輩からのアドバイスとか、
ものすごい重要になるんですね。

2度読む価値のある本。

2度読むためには
1度読まなくちゃならないので、
「もう1度読んで下さいね」
というのは、わたしにとって、
学生に対する、唯一のアドバイスなんです。
ほぼ日 なるほどなぁ。

人生は有限ですし、
人は時間をいろんなものに使うから、
本を読む時間にしても、
他にもありえたかもしれない時間と、
対決しているわけですよね。
先人のアドバイスが大事っていうのは、
ほんとにそうだ、と思いました。
岩井 だから、
これから重要になるのは、
エディターの役割ですよね。

ほんとうに2度読める本の紹介。
1度読む本っていうのは、もう、
ベストセラーリストを見ればいいわけでして。
だから、わたしは、
「2度読むべき本」というか、
「2度読むために
 1度目を読まなくてはならない本」
の示唆をするのが、エディターだと思っています。

続・会社はこれからどうなるのか?
岩井克人×糸井重里対談篇
『会社はこれからどうなるのか』(岩井克人/平凡社)
これは、いま読むべき、とても重要な本だと思いました。
経済学のプロ中のプロが持っている重要な知識を、
1冊で「素人の知識」として受け取ることができるから。

「会社」を経営する人も、「会社」で働いている人も、
「会社」からモノやサービスを買う人も、
「会社」って何で、「会社」をどうしたいのか、
どうつきあっていくか、考えてもいい時期だと思うのです。

あまりにもおもしろい本で、
前回の「ほぼ日」での特集も大興奮だったので、
今度は岩井さんの研究室を、糸井重里がお訪ねして
対談をしてきましたので、これを続編としてお届けします。


第1回  人間らしさの源は「媒介」

※おとといに本郷でおこなわれた対談を、
 さっそくおとどけです。
 ふたりとも、冒頭から気合いが入ってますよ!

糸井 昔も、岩井さんのご本は、
見栄を張って、読んでいたんです。
「だけど、ほんとのことを言うと、
 そのころは、わかっていなかったなぁ」
ということが、最近、わかりました(笑)。

以前の本も、思えば、
難しい文体で書いてあるわけじゃなくて
濃いエッセイにも読めるので、
ついおもしろがって読んでいたんですけど、
本に込められている動機みたいなものが、
当時の自分には、見えてなかったと思うんです。

「動機が見えるかどうか」が、
何かを読む時の大事な部分だと、
ぼくは思っているんですが、今回の本って、
岩井さんの動機が、くっきりしているおかげで、
「こんなにおもしろいんだ!」と感じたんです。

そこで・・・岩井さんに、最初にまず、
経済について研究するということの
モチベーションが、どういうところから発生して、
やってるうちにどうなってきているのか、
みたいなことを、お聞きしておきたいんですけど。
岩井 やっぱり、わたしにとっては、
「世の中を知りたい」
という気持ちが強いんだと思います。

経済学というのは
非常に役立たずなところがありますが、
「われわれの生きてる社会というのは、
 こんなにおもしろい成り立ちをしているのだ」
ということを、調べているというか……。

ふつう日常でなにげなく触れている
貨幣、会社、資本主義、そういったものは、
実は、よく見てみると、非常に思いがけない、
形而上学的な驚きに満ちた存在でして……。
糸井 なるほどなぁ。
「小説はおもしろいぞ!」っていうのと
同じような言い方で「ワクワクするぞ」と。
岩井 ええ、そうなんです。
糸井 学問をやり続けている間は、
ずーっと、おもしろかったですか?
岩井 そうですね、
最初はもうすこし違う種類の
おもしろさだったのかもしれません。

このあいだの「ほぼ日」でも
少ししゃべりましたが、わたしはアメリカに
偶然のようにして留学して、最初は、まあ、
ほんとうに伝統的な経済学をやっていて、
その論理的な明晰さに惹かれていたりしていたんです。

それが途中で、
「ちょっとこれは違うぞ」という気になった。

そのあたりで、
ケインズだったりハイエクだったり
マルクスだったりという
経済学の古典を読み直しているうちに、
「経済って、本当におもしろい」
ということがわかってきたということです。
同時に、
「なんでふつうの経済学をやってる人は、
 こういうおもしろい見方をしないんだろう」
と思っていたのが、
「いや、面白い見方ができないから
 ふつうの経済学をやっていられるのだ」
ということもわかってきました。
糸井 要するに、
人間っていうわけのわからないものを、
「ここまでならわかる」と
どんどんおっかけていくおもしろさですよね。
岩井 ええ。
古典に触れる中で、
なぜ社会科学が存在するのかに、
思い至ったんです。

昔は私は人間環境決定論を信じていました。
いまではかなり遺伝決定論に傾いています。

だが、その上でもう一度
人間とは何かと考えてみると、人間は、
「言葉」と「法律」と「お金」を使うから
サルとちがうんです。
でも、言葉も法律もお金も遺伝には入っていない。

人間には、言葉をしゃべる能力はあります。
法律に従う能力も、貨幣を使う能力もある。
ところが、言葉そのものはどこにあると言うと、
生まれてくる時の遺伝の中には、
入っていないわけです。

では、言葉がどこにあるのかと言えば、
人間と人間のあいだにあるわけですよね。
言語は、自然に存在しているわけでもない。

誰かがどこかで作ったものであって、
使っている人間たちはどんどん死んでいくなかで、
人間から人間へと伝えられてきたものですよね。
法律もそうだし、貨幣もそういうものです。

言葉、法律、貨幣も、
人間と人間をつなぐ「媒介」です。
それがなければ、人間は人間ではない。
まさに人間のアイデンティティに関わるものが、
遺伝や物理的な存在ではない……。

こういう不思議なものが、世の中にいくつかある、
というおもしろさに、ある時、気がついたんです。

言葉や法律や貨幣を媒介にするから
ケンカをして強いかどうか、
おなじ顔の色をしているかどうか、
に関係なく
人間は人間と関係を結べることができます。
だが、その人間を人間らしくしているものは……
糸井 人が「編み出しちゃったもの」なわけで。
岩井 そうです。

そういった
「人間が作りだしちゃったもので、
 その媒介によってはじめて
 人間が人間になるような存在」

を扱うのが、
社会科学なんだとわかったんです。
糸井 それを、
「ある時、気がついた」
とおっしゃっているということは、逆に言うと、
気づかないでも経済の勉強はできるってことで。

でも、そのことって、気づくか気づかないかで
ずいぶん、道が変わってきますよねぇ。
岩井 そうですね。
ほんとに、道、変わります。
わたしも変わりました。
糸井 そのことは、いつ感じたんでしょうか。
岩井 少なくとも、アメリカに行った後です。
糸井 へぇ……おもしろいですよねぇ。

たとえばぼくも、同じようなことを、
言葉を商売にしてる中で感じたことがあります。

その発見ってすごく大きいから、
「わかった時から、
 ほとんどの何かがうそっぱちに見えてくる」
と言うか……。
岩井 ええ。わかります。
糸井 それを意識しないで
単に経済をやってるヤツを見ると、きっと、
ただ勉強する学生を見るように感じるというか、
「アホか!」
という怒りさえ、沸いてきたでしょうね。
岩井 はい。
ぼくは、そのことに気づく前も、
日本で文学を読んだり、理科系のものを読んだり、
いろいろやっていましたけど、
まぁ、その頃は、わかんなかったです。
糸井 いま、こうしてしゃべっていただくと、
「人間を人間らしくしているものは『媒介』」
という、ある意味では、カンタンなことでしょう。
そこだけを学校で勉強するだけでも、
その後の人生、ずいぶん違いますよねぇ……。
岩井 はい。
ですから、もちろん、
わたしは学生には伝えていますが……。

媒介というものに関しては、おそらく、
アリストテレスやシェイクスピアといった
偉大な哲学者や偉大な文学者、言葉の天才たちは、
確実に、そのことをわかっていたと思うんですね。

シェイクスピアは言葉の天才、
最大の天才でしょうけど、
貨幣について専門的に考えたことはなかったのに
言葉を操って書いたその『ヴェニスの商人』が、
まったくの貨幣についての本としても読めてしまう。

ですから、偉い人は、言語をやっていても、
実は法律や貨幣のおもしろさがわかる。

わかっていて書いたのか、
書いているうちにわかったのか、
どちらにしても、ああいう天才たちは、
ほんとうにすごいレベルで
人間と人間のあいだの媒介に関して
理解していたんだと思います。

言葉や法律や貨幣がなければ、
直接的な力や肉体的な接触で交流するしかない。
その場合は、関係って、
殴るか愛するか、いくつかに決まっていますけど、
言葉があるからこそ、ウソもつけるし、
ルールをずらしたりしながらおもしろがれる。

人間に文学があるのは、
「言葉ってウソをつけるから」ですよね。
現実にないものを、指し示すことができるから。

言葉が、信号のように、
ひとつの意味を示すだけのものなら、
ほんとうに単純な社会になっているわけでして。

ですから、
人間の社会をおもしろくしているのは
ウソもつける「媒介」があることで……。

「人間である」ということは、
そういう存在であらざるをえないと思うんです。

法律や貨幣も、
言語のように「ウソをつく」というか、
そういうものであるからこそ、
「その上に成り立っている
 人間社会の動きを予測するのが不可能」
になってしまうのです。


第2回  「役に立つ」って何だろう?

※第1回、大好評でした。ありがとうございます!
 今日は、これからも本コーナーを
 じっくり読んでいくための予備知識になるような言葉を、
 「ひとり語り」のかたちで、おとどけしますね。
 岩井克人さんとの対談直後の糸井重里の発言を、
 次回への補助線のようにして、おたのしみください。




  【糸井重里による談話です】


 岩井さんが、対談中に、
 「わたしはいま56歳で、
  だいぶ社会や人を見てきましたけれど、
  こういう目で若い人を見ると、
  統計学的に見られますよね。
  昔は、若い人の発言って個性だと思ってたんです。
  ところが、どうやら、個性に満ちたものではない。
  ある若さには、ある傾向が出やすいというだけで……。
  若い時の発言は「ありふれたもの」のようです。
  40年前の若者も、今の若者も、違う人間なのに、
  まったく同じことをしゃべっていたりしますから。
  なぜ、同じことをしてるのか、不思議ですけど(笑)」

 というようなことを
 おっしゃっていたのが、印象的でした。

 ぼくも、そう思うほうですけど、
 若い人に対して、
 「それって、よくあることだよ」
 と言えるようになってからの生き方って、
 おもしろいですからね……。
 
 それを知ると、
 ある意味ではアナーキーになると言うか、
 老人ほどラディカルになるところもあるし、
 同時に「よくある」と知りつつも、
 その社会ゲームに参加して
 遊んでみたいなっていう気分にもなるんです。

 ぼくも今はいろんな場所で
 「まとめ役」みたいなことをしているし、
 岩井さんの立場も、学部の長というわけで、
 ラディカルな面と、社会的な面と、両方抱えこんでいる。

 「オレ、この役、イヤなんだよ……」
 と言いつつも、でもつまんなくやるわけにはいかない、
 と思って、組織をまとめていく。
 これは、岩井さんやぼくと同年代の人なら、
 誰でも感じていることかもしれないですね。

 でも、おもしろいのは、
 そういう岩井さんやぼくの話を、
 いま、「ほぼ日」で連載していても、あるいは
 岩井さんの研究室のゼミ生たちに聞かせたとしても、
 若い人たちが、聞きたがっている、ということで。
 昔の若い人は、こんな話、聞かなかったと思うんです。

 それをたのしんでくれているというのは、
 ほんとうに、社会が行き詰まったからなんだろうなぁ。

 上の世代を否定すれば
 いつか革命が起こるかのように思えた時代は過ぎたし、
 上の世代を敵視していないと、
 自分のアイデンティティがなかった時代も過ぎた。
 
 一見、かなしいようにも感じられるのですが、
 ぼくは、これはこれで、
 かなり愉快な時代になったんじゃないかと思います。

 「レボリューション」っていう言葉は、
 おまえ、それを言ってるだけで、人生終わっちゃうぞ、
 というつまんなさがあるわけですからね。
 
 トヨタは、革命ではなくて、
 改善改善で大きくなっていった……
 「いちばん大きい会社は改善の会社だった」
 というのは、見事な現代のシンボルでしょう。

 だったら、つまらなくないトヨタ作ればいいわけで。

 「革命を夢見る」っていうより、
 「絶えず改善をして何かを考え続けていると、
  何かが生まれる」というほうが、よほど現実味がある。

 社会が行き詰まって、若い人にも
 「革命」のリアリティのなさが
 伝わっているからこそ、
 ものを素直に見られるようになった、

 とも言えますよね。

 たとえば、
 今さらって言われるかもしれないけど
 最近、ぼくが興奮しながら読んでいるのが、
 ドラッカーの経営についての本なんです。

 ほとんどの中小企業の社長さんの言うことは、
 ドラッカーの発言の一部を
 拡大して変形させたものなんじゃないか、
 と思えるほどの内容なんです。

 彼の一連の本を読んでいると、
 「おまえ、それを引き受けろよ!」
 と、読者にドラッカーが
 指をさしているような場面が、とても多い。
 その「ある種の正義感」が、イヤじゃないんです。

 どうして、今まで、まともに読んでいなかったんだろう?

 ドラッカーの本は、それこそ
 50年前からベストセラーになっていました。
 ぼくも若いころから、
 ドラッカーの名前自体は、何度も耳にしてたよね。

 ところが、
 たぶん、ずっと最近になるまで、
 ドラッカーについての書いたものって、
 「こうやったら、爆発的にゼニ儲けができる」
 とか、役に立つというところで
 使おうとしすぎたんじゃないか、
と思うんですよ。

 ドラッカーの本だけじゃなくて、
 それこそ、経営書やビジネス書と呼ばれるもの全般が、
 「……それにつけても 金のほしさよ」
 という下の句つきで読まれていたと言いますか。
 そういう視点だけで読んでいたら、
 いくらドラッカーだって、おもしろくないですよね。
 
 ところが、そうじゃなく読める時代がやってきた。
 今までまちがった見方をしていたけど、
 光の当て方の角度を変えると、
 急に透けて見えるものがあった、というか。

 岩井さんの
 『会社はこれからどうなるのか』についても、
 過剰にお役に立つものが
 求められている時代ではないからこそ、
 実用書として読めるんじゃないかと思う
んです。
 つまり、ほんとうに使いこなせるというか……。

 「つまんない価値観どうしで
  ケンカするのをやめてくれよ。
  もっとおもしろいゲームがあるじゃないか」
 と言うための教科書として推薦したくなって、
 思わずぼくも、
 『会社はこれからどうなるのか』
 をオススメすることには、熱が入っているんです。
 
 革命信仰があった時代には、
 過剰に役に立つものが求められすぎたか、
 もしくは、役に立つことを
 過剰に否定してしまっていたように思います。
 
 それこそ、ぼくも、昔から、
 「商業主義の手先」「資本主義の犬」
 っていう言葉を、どれだけ言われたか。

 自分が若いころは、
 「役に立つ」ということだけで
 批判される時代でもあったわけで……。

 「役に立つ」ことの冷静な位置が、
 ようやく、見えてきた
と思うんです。
 そのなかで、この
 『会社はこれからどうなるのか』
 の立ち位置も見えてきたな、という印象があるんです。


第3回  人間は、どうしようもない?

※第3回を、さっそくおとどけです。
 後半に語られる「経済政策」についての話では、
 岩井さんが、テレビや新聞の経済話を見ながら、
 どんなことを考えているかの一端が、濃く分かる!

糸井 この本で触れられた
「資本主義」という言葉も、
今は、昔と違って、落ち着いて読めますよね。
岩井 ええ。
わたしが
『ヴェニスの商人の資本論』
という本を書いた頃は、
まだ、「資本主義」という言葉を、
意図して、挑発的に使っていました。

マルクス経済学からすると
「資本主義」は、
よくないものとされていましたし、
マルクス経済学ではない、
いわゆる「近代経済学」の立場の人たちも、
「資本主義」と言わず、
「市場経済」と呼んでいましたから……。
糸井 その時の動機は、
「まちがいが大手をふって歩いている」
ということへの、軽い正義感
ですよね。
岩井 はい。

わたしは、そもそも、はじめは
「マルクス経済学」を勉強しました。

若いころは、マルクス全盛の時代でしたからね。
「『朝日ジャーナル』を、これ見よがしに
 脇にかかえて高校に行く」という時期でして。
糸井 わかりますよ。
ぼくも、岩井さんと、年齢、変わりませんから。
岩井 当時は、世の中を、少しは変えたい、と。
そういう気持ちが、純粋にありまして、
「大学では、マルクス経済学を学びたい」
と思っていましたからね。
もちろん、「世の中を知りたい」ということは
同時に、とても大きな動機だったんですけれど。

そしてやはり、マルクスの著作は
古色蒼然としている部分も多いのですが
おもしろい部分がいっぱいある。
だから、わたしは今も、
マルクスは読み続けています。

ところが、マルクスの著作から離れた
「マルクス主義者」「マルクス経済学者」
といった人たちのやることは、これは
とてつもなく時代遅れという気がして……。
それに、当時から私は、
社会主義は人間性や自由を
必然的に抑圧すると感じていましたし。
いまから考えると、それは、
マルクス主義やマルクス経済学が、
前にお話をした「媒介」について
考えることを抑圧してたからなのですが……。

というか、
「媒介」についてまともに考え始めたら、
マルクス主義もマルクス経済学も
崩壊してしまうはずなんです。

もう一方の「近代経済学」の方は、
「自分たちはイデオロギーとまったく関係ない」
という立場を進めすぎていましたね。
もちろん、資本主義の歴史については語らないし、
おおきなことは語らないように語らないようにと、
自己規制をしています。
語るのは、需要と供給についてですし、

マクロの問題について語るにしても、せいぜい、
「経済政策上、財政支出を何%に」
というような、
すべてを技術的な問題にしてしか語らない。
ただ、近代経済学のほうには、
イデオロギー的な傲慢さがない点で
学問的に、より正直だったので、
私は結局、近代経済学を学び始めましたが、
そこに、形而上学的な驚きがまるでない

ということには不満でした。

ですから、当時は、マルクス経済学と
近代経済学と、両方に対する怒りがありましたね。
糸井 いま、
「怒り」とおっしゃられたように、
学問の動機っていうのも、
個人の気持ちの部分で、
タケノコが出てくるように、
しょっちゅう出るもんなんですねぇ……。
岩井 そうですね。
糸井 岩井さんの最初の動機は「知りたい」で、
その「知りたい」を続けていくと、
いろんなところに、骨格のはっきりした動機が、
時々、ムクムクと頭をもたげてくるという。

そういう岩井さんがお考えになる
「人間」って、どういうものなんでしょうか。
たとえば、落語家的に言うと、
「みんな、ちょぼちょぼ」だったり、
いろんな言い方が、ありますけれど。
……ぼく自身としては、
「人間って、ろくでもないものだ」と、
愛すべきものだとつけながら表現するんです。

岩井さんから見ると、人間は、
愛すべきものですか、ダメなものですか?
岩井 そうですね……。
やっぱり、人間って、
かなり、どうしようもない存在ですよね。
それは、自分自身を振り返ってみれば
よくわかる。
糸井 (笑)
岩井 ただ、重要なのは、
そういうどうしようもない存在だけど、
時々、どうしてもヒーローに
ならざるをえない立場におかれる。

多くの人がしっぽをまいて
逃げてしまったような状況の中で、
たまに、何人かは、
他の人が逃げてしまったのに、
自分だけ居残って
思いがけずヒーローになってしまう……。

自分にとっては、人間はそういう存在です。

突然、ハイジャックに遭ってしまい、
ほとんどの人は逃げてしまうけど、
偶然、ある場所にいた人が、
ある行動をするチャンスを与えられ、
そのうちたまに何人かが、
驚くべき行動をする。

こう話すと、ハリウッド映画みたいだけど、
いまのハイジャックの話はちょっとおおげさで、
ここで言うヒーローといっても、
もっと日常的なところでの
ほんとにささいな場面での
ささいな行為かもしれませんが、
しかも、ヒーローになるといっても、
だれもそれを認めてくれるひとはいなくて、
自分一人しか、
知らないことかもしれないのですが。


そして、ほとんどの人は
そのような機会を与えられても
ほとんどの場合ダメだけど。

もちろん、このヒーローになるかどうかは、
何も学歴があるとか、
社会的に地位があるとか関係なく
そういうことじゃなく、
もっと人間にとって根源的なところで、
ヒーローになってしまうのです……。

ぼくにとっては、それが真実と言いますか。
もっとも、このようなことを考えるのは、
そもそも経済学という学問が、
人間は日々の生活ではヒロイックでも何でもない
ある意味ではどうしようもないという存在である
という前提のもとで、
どのような社会が可能かということを
徹底的に考える学問だからだと思います。

いずれにせよ、人間って、
「どうしようもないけど、
 ヒーローになるチャンスを、
 たまに与えられる存在」かな?
……これだけでは、
言い足りてない気もしますけど。
糸井 人間って、どうしようもないとは言いつつも、
そこに自分が属しているので、
認めざるをえないという感じでしょうか。
岩井 ええ。
糸井 「自分がいること自体を認めてあげたい」
と思うので、どうしようもないという存在を
肯定するために、考えてあげたいんですよね。
ぼくも、そう考えているほうです。

ほんとに、
いろんなどうしようもなさがあって、
たとえば、経済理論にしても、
ものすごいたくさん、出されていまして……。

漢方医が近代医学を批判するように、
おたがいの流派が争っている状況がありまして、
タクシーの運転手からテレビのキャスターまで、
今って、みんなが、政府による
経済回復の処方箋の批判を勝手にしています。

岩井さんの立場からは、
そういう出来事を、どうご覧になっているのかを、
おうかがいしたいんですけれど。
岩井 むずかしいなぁ。
糸井 もちろん、発言に注意をしなければ
いけないところは、あるのかもしれません。
ある種の、同業者たちの仕事に対して、
どう見えるものかなぁ、と思いまして……。
岩井さんは、医者で言うと研究医ですよね?
岩井 ええ。臨床医ではありませんし、
臨床をやりたいという誘惑には駆られませんが、
世の中のいろいろなエコノミストたちが
いろんなことを言ったりしているのを見て、
イライラすることも、多々あります。
糸井 新聞を開くと、
経済の処方箋の話ばかりですから、
当然、岩井さんが新聞を読んでいると、
「あれは、こうしたらいいのに」
「それは、まちがっている」などと
思うことが、たくさんあるはずだと思うんです。
すごいストレスになっているんじゃないですか?
岩井 わたしは、
研究という分野で経済学をやっていて、
大雑把ですが、社会や人が
どうしたらよくなるかの処方箋を、
いちおう、持っていると自負しているわけですね。

ですから、
「経済回復についてのおおもとの考えが、
 なぜ一般にはキチッと理解されないのか」
「なぜ、わたしが主張するようなことを
 経済政策として主張する人が少ないのか」

ということには、怒りがあります。

ただ、そういう怒りと同時に、
なぜ、一般的にはまちがったことが
言われつづけているのかということに
思いをめぐらせるんです。そうすると、やっぱり、
「多くの人が、経済の仕組みというものを、
 まちがえて理解しているんだろうなぁ」
と思うんです。

デフレの問題にしても、
「デフレは経済にとって、よくない」
というような、基本的なことが理解されていない。
処方箋を書く人たちが、たとえば倫理的に
「悪い企業はつぶしてもいい」とでも言うような
断罪をするのは、いちばんいけないと思います。

経済というのは、もちろん複雑でもありますが、
ある面では、案外、単純なものでして。
たとえば、デフレが終わって、
うまい具合にインフレに移行すれば、
状況はぜんぜん変わっちゃうんですよ。

ですから、
「企業として悪いからうまくいっていない」
ということと、
「デフレだからうまくいっていない」
ということとは、別なんです。

いま、うまくいっていない企業でも、
ちょっと時代が変わって、運がよければ、
よくなっているかもしれません。

会社を支えている人たちも、ひょっとしたら、
「自分たちのやっていることがよくないから」
と、不振の原因を考えているかもしれませんが、
デフレ経済の下の不況では、
企業の経営者のやっていることに
還元できない部分が多いんです……。
  (つづきます!)


第4回  ケインズの影響力の理由。

※あるものが、大きな影響力を持つのには、
 もちろん内容が一流である必要があるけれど、
 どうやら、それ以上のものがないといけない?
 岩井さんが「メインストリーム」について
 語るところは、かなり、実感がこもってるよ!

糸井 今、世の中の経済談義に対する
岩井さんの考えをうかがった後で、
敢えてお聞きするんですけれど……。
「わたしは正しくて、みんなまちがえている」
と主張している意味では、
岩井さんのお話も、エコノミストのお話も、
ニュースキャスターのお話も、
みんなが同列で並んでしまいますよね。
岩井 ええ、そうです。
糸井 そこを抜け出す方法っていうのは、
技術的には、ないんでしょうか?
岩井 非常にむずかしい。
わたしが経済学者の中で
いちばん尊敬しているのが
ケインズという人なんですけど。

よくケインズ政策は終わったなどと
言われていますが、
この本をよく読むと
そのような政策論に還元できない
非常に深い思想を見いだせるのです。

おそらく経済学の
最大の古典のひとつと言われて、
ものすごく影響力があったんですね。

それには、理由があるんです。

彼と同じ時代に、
カレツキーというポーランドの人が、
ケインズとほとんど同じような理論を
作っているんですね。

ところが、
カレツキーの理論というのは、
ケインズほどは、有名にはならなかった。

もちろん、ケインズほどの
深みがないことはたしかなのですが……。

このカレツキーが、
ポーランドからイギリスに渡った時、
「自分の理論が議論されていたが、
 それは自分の名前ではなく、
 ケインズの経済学として論じられていた」
と驚いたほど、とても近い理論なんです。

もちろん、どちらも盗んだわけでなく、
独立して作ったものなんですけどね。

ただ、カレツキーという人はえらい人で、
「自分はポーランドという
 片田舎から出てきた無名の学者である。
 自分だけの力では、自分の理論は
 とても学界に受け入れられなかっただろう。
 たとえ、それが
 カレツキー経済学としてではなく、
 ケインズ経済学として広まったとしても、
 喜ぶべきことだ」
というようなことを述べた、
と言われています。

しかもカレツキーは自分が独自で
そのような理論を作ったことを
しばらく、誰にも言わなかったんです。

これだけでもおもしろい話ですが、
ここで、ひとつポイントがあるんです。

ケインズ自身が作りあげた
『一般理論』は、内容的に
経済学にものすごいインパクトを与えた。

しかし、そのインパクトを
さらに強めた要素があるんです。

ケインズには、
「ケインズになる前」
というものがあるのです。
これは、すごく重要でして。

このケインズになる前のケインズは、
伝統的な経済学で最も有名な実力者だった。
伝統的な経済学のチャンピオンだった人が、
その経済学を批判してしまったので、
ものすごいインパクトになったんです。
糸井 つまり、パウロですね。
熱烈なキリストの迫害者が、
もっとも敬虔な信徒になったという。
岩井 ええ、パウロです。
だから、ものすごくインパクトがあった。

最初から異端でいると、
なかなかメインストリームにはならない。


まあ、本屋を見ればわかるように、
内容に関係なく、いろいろな本が
同列に置いてありまして、
どんなにすばらしい内容であろうと、
埋もれていくものが、沢山あるわけです。

「いちばん有名だった人が
 ひっくりかえるからこそ反響が大きかった」
ということです。

もちろん、同時に重要なのは、まさに
伝統的な経済学を最もよく理解している人が、
その論理を徹底的に追及することによって、
伝統的な経済学そのものを打ち壊してしまった、
ということですけどね。
だから、ものすごい
インパクトを与えたということですけれど。

いずれにせよ、言いたいことは、
わたしは、ケインズではないということです。
カレツキーですらない。
だから、私には王道はないということです。

「正しい」と思っていることを
くどくても良いから、何度も言いつづけて、
それがほんとうに正しければ、
徐々にインパクとが広がっていくことを
祈るしかない
というか、
そういうことにしか、ならないと思うんですね。


わたし自身、前の「ほぼ日」のインタビューで
お話をしたとおり、アメリカの主流派から外れて、
もう、主流派の論文には載らないので……。
糸井 そんなに、違いが大きいんですか。
岩井 ええ。
で、わたし自身は、
主流派ではない雑誌でもいいから、
英語の論文を、わずかでも書いて載せていく。

少なくとも、記録にとどめておいて、
地道にやっていれば、
いつかはそれが広がるかも知れない。

もちろん、広がらないかも知れない。
世界っていうのは
そんなに公平ではないですからね。

歴史のなかで、ほんとうに
重要なものを書いた人でも、
まったく埋もれたままに
終わっているのかもしれない。
神様がいる社会ではありませんから……。

逆説的ですが、
命が有限だから、
希望をもって生きていくことが
できるというわけです。
無限の命を持っていれば、
運命はいつかわかってしまいますから、
その意味での希望はもてない。

理論を作った後に論文や本を書いたり、
またこうやって「ほぼ日」でしゃべったり、
いろいろなところで地道に語って、
すこしでもインパクトが広がれば……と、
自分の考えたことを伝える方法は、
ぼくとしては、
それしかないんじゃないかなぁと思っています。
糸井 岩井さんのお書きになっているものを
ぼくがおもしろがるっているのは、
「正しいことが何かはわからないけど、
 少なくとも、それじゃないよ!」とか、
そういう部分が、あるからだと思うんです。

ぼくも、倫理でもなんでもなくて、
「違うだろうが!」が、いろんなことを
やるうえでの、出発点になったりしますから。
岩井 まさしくそうなんです。
わたしの書いたものはみんな
「違うだろう!」なんです。
「ふつうに言われていることは、違うだろう」
ということなんですね。

真理というものは、多くの場合、
そのようにしか語れませんからね。
おカネにしても、会社にしても、
みんな、よく考えてみると、
ほんとうに不思議なものでして。
糸井 それで、岩井さんもぼくも、
「違うだろうが!」って言っているにしては、
批判のための批判になることを嫌ってますよね。
ほんとうにアクティブでありたいという
気持ちを、軸に持っているわけですけど、
「正義の味方でもなんでもないのに、
 なぜ、こんなにアクティブになるの?」
というのが、いま、
自分に問いかけ中なんですけど。

岩井さんの「違うんだろう」という
問いかけの中には、単なる批判じゃなくて、
パワーを感じるんです。

それって、お互い、わからないですよね。
ぼくは特に有神論でもないのですが、
「なんでこんなに一生懸命になれるのかなぁ」
と、自分でも、たまに思っていまして。
岩井 なぜかは、わかりませんけどね。
わたしもさきほど「神はいない」と言いました。
「神がいない」と思うなら、なぜ、こんなに
使命感を感じているんだろうとは思うんです。

わたしも、糸井さんが言われたように、
まさしく、正義の味方ではないんです。
でも、どこかで使命感を感じる……なぜだろう?

この、「わけのわからない使命感」って、
きっと、いろんな会社の社長さんたちも、
何人か、持っている人、いると思うんです。
糸井 ええ、いっぱいいると思います。
岩井 会うと、
どっかで使命感を感じている方って、いますよね。
神がいなくて、命は有限なのに。
糸井 そうなんです。
岩井 あとで認められるかどうかなんて、
まったく、わからないわけです。
抹殺されるかもしれないのに……。
糸井 ま、精神的に疲れると、
勲章が欲しくなるかもしれないですけどね。
岩井 (笑)でも勲章も、死んだら意味がないですよ。
糸井 あれも、貨幣のバリエーションですからね。
岩井 はい。
もしも天国があるならば、
使命感はぜんぜん違うと思うんです。

さきほど、
「人間はどうしようもないけれど、
 偶然、何かいいことをする」
というのは、そのへんかもしれません。
ある時、ふと使命感から
何か倫理的な行為をしてしまうという、
人間は、そういう存在ではあるんですよね。
糸井 その行為をいいとする理由も、
ほんとに突き詰めるとないんだけど……。

確かにその倫理観は、
自分にもあることなんですよね。

岩井さんがさっきふとおっしゃった時に、
「オレも、そうだなぁ」と思ったんです。
  (つづきます!)


第5回  主流派の体力。

※アメリカを批判するばかりの人には見えないこと。
 主流派の体力、考え抜いた方針、絶え間ない実験。
 そこで学ぶことも、ずいぶんたくさんありまして。
 対談は、そろそろ、クライマックスを迎えてます。

糸井 ぼくは、ドストエフスキーを
非常に好きになった時代がありまして、
やっぱり人は人を殺せないようにできているとか、
日常的にだらけていたとしても、どこか、
危ない目に遭った人をパッと助けようとするとか。

こんなに利己的なはずの人間たちが、
そういう倫理的なことをやっているのは、
これはもう、やせがまんの美学なのか、
何か、ぜんぜん、わからないんですけどね。

たぶん、光の射す方を軸にしたほうが、
ふだんがたのしくなるということなのかなぁ。

人を疑いながら生きていると、たのしくなくなる。
「金がぜんぶだよ」と言わないほうが、
少なくとも、自分がラクになりますよねぇ。

それは、倫理でも何でもなくて、
わがままな話なんですけど。
岩井 おっしゃるとおり、
ある意味、わたしたちはどこかで
そういう倫理の衝動に
動かされているわけですから、
実は、究極の利己主義かもしれません。
糸井 その目でアメリカを見ると、
「まず、オレと同じルールにしてから
 うまくやれよ」ってことになるから、
戦争も起きてしまうわけで、危ないですけど、
それでも、アメリカ的な突き詰め方が
ひとつの暫定的な答えを出そうとしているな、
という気は、すっごくしますね。

少なくとも、
安心できる社会の中で、
なんか、危ないところには触らないけど
文句は言いたいな、って思っているヤツよりは、
実験をしているなぁ、という気がするんです。
岩井 実験、してます。

アメリカ社会は
資本主義と非常にマッチしていて、
わたしが批判しているような経済学者たちは、
たしかに荒唐無稽なことをやっているんですが、
それなりの意味がある。

彼らは、人間の合理性を
とことんまで追及した理論を作り、
しかも、たとえばデリバティブの市場のように、
現実に経済の仕組みを、
作りあげてしまうんですよ。

徹底的な理論を作り、それを現実に試す。
常に、実験をしているんです。
しかも、優秀な人たちが多い。

わたしは、主流派の経済学を
いろいろ批判していますけど、
その主流派の経済学は、
「人間が、もしも合理的な存在で、
 貨幣なんかなかったら、何が可能か?」
ということを
徹底して考えてくれているわけですから。
糸井 そうなんですよね。
岩井 「倫理がなくてどこまで社会が可能か」とか。
糸井 『カラマーゾフの兄弟』で言う大審問官を、
アメリカは、自分のところでやってるんですよね。
岩井 まさに、やってるんですよ。

その力は強くて、それがある意味、
現実の資本主義を大きく動かしてしまうんです。
危険でもありますけどね。

彼らが実験してガンガンやって、
山岸俊男さんの言う「安心社会」のなかで
内輪でゴチャゴチャやっているひとたちを
置き去りにする。
そして、そのような人は
後からノコノコついていく、
ということがあって。
糸井 その実験が切ないのは、
「生まれかわりができないんですけど」
ってところなんですけどね。
あの人たち、生まれかわりがあると思って
やっているような気がするんです。
でも、人生は1回なのでねぇ……。
岩井 彼らと戦うのはたいへんです。
糸井 たいへんですよねぇ?
岩井 ぼくは、体力があるほうですが、
それでも、非力を感じますよ。

やっぱり、向こうは、
頭がいい人は、ほんとにいいし……。
糸井 肉体も丈夫でしょう?
岩井 丈夫。彼ら、徹夜がきくんですよ。
糸井 徹夜しても、ごきげんなんですよね?
岩井 (笑)そう。
学会なんかに行って、
わたしもお酒好きなので彼らと飲んで、
次の日はほとんど二日酔いでという時に、
彼らは朝早く起きてジョギングして、
論文を書いて、元気に会議をやってる。
狩猟民族だから、
寝だめ、食いだめがきくらしいですね。

……ま、こんな言い方での人種の分類は、
政治的に正しくないんだけど(笑)。
糸井 でも、見ているかぎりでは、そうですよね。
岩井 寝ないといけない、
三度三度食べなきゃいけない、という
農耕民族的な人間と、寝だめ食いだめがきくとは、
ずいぶん、違いますから……。
糸井 それは、研究にも影響しますよね。
岩井 もちろん影響します。
大学院時代に、
「どうしてこんなヤツが」と、
頭がよくないなと感じた人も、
寝ず食わずで研究して、
後でけっこういい仕事をしたりするんですよ。


日本の人は、頭が良くて、
若い時に、ちょっといい仕事をするけど
その後に疲れちゃうという場合が多いですね。
糸井 やっぱり、岩井さん自身も、
一時は、アメリカ型の体力のあるほうが
いいなと思ったことは、あるんですか?
岩井 もちろん、そうです。
糸井 ありますよね?
岩井 ありますよ……。
糸井 1回はマッチョに惹かれるんですけど、
「無理だな」と思うわけですよね。
だから、アメリカを
カンタンに批判することはできない。
岩井 そうです。
日本でいろいろアメリカのことを
批判する人がいますが、
そのまま通るような、
そんなに単純な話じゃないです。
糸井 向こうも、バカじゃないんですよね。
岩井 はい。バカじゃないんです。
ほんと、彼らもよく考えているんです。
人によっては、教養なんかも、あったりして。
彼ら、勉強し続けていますからねぇ。
糸井 要するに、
「アメリカ人はバカだ」
と言う側の背景にあるのって、
文学信仰だと思うんですよ。

つまり、私小説や、フランス文学の一部分だとか、
そのジャンルを知っている自分は趣味がよくて、
あいつらはそういうものを読んでないからバカだと。

ぼくは、そういう人たちに対する怒りが、
ちょっと、あるんですね。
岩井 (笑)ぼくは、ものすごくあります。
正統派の人たちに勝つには、
これはものすごい体力と知力が要る。

わたしは、チョボチョボやっていますけど、
とてもひとりでは太刀打ちできない。

ケインズなんて、
ほんとにその主流派の世界で
いちばん強かった人が、
内部からその世界を批判したからこそ、
世の中を変えたわけで。

たとえば、哲学の分野での
大天才のヴィトゲンシュタインには、
ケインズと同じような大転換がありましたよね。
後期ヴィトゲンシュタインとは
前期ヴィトゲンシュタインの批判だったわけだけど、
しかし、前期ヴィトゲンシュタインは前期で、
それまでの哲学のスーパースターでしたし、
いまだに、論理実証主義では神様扱いですから。

本人も、
「もし後期ヴィトゲンシュタインが
 まちがっているのならば、
 前期ヴィトゲンシュタインが正しい」

というようなことを言っているぐらいですから。
そこに、意味があるんです。
そのところを、理解しないと……。

今、一生懸命に主流派をやっていて、
後に、その中で超偉大な人の中からは、
自分を批判する人が出てくると思うんです。


それが、強いですよね。

主流を通っているからこそ、
ほんとうの批判をできるというか。

「本格小説」を通らないで、
最初から「私小説」をやっていて
「本格小説」をはすかいに批判をするとかいうのは、
ほとんど意味がないし、
批判として成立しないんじゃないかと。
糸井 外人の箸の持ち方を
注意するみたいなことになりますからね。
岩井 批判はすべきでしょうけど、
西洋の強さを理解しないといけないと思うんです。
糸井 その強さは、
やっぱり、知ったほうがいいですよね。
岩井 ええ。
  (つづきます!)


第6回  「経済予測」って何だろう?

※今日で、ふたりの対談は最終回になりますが、
 ラストも、かなり気合いの入った内容なんです。
 いわゆる「経済予測」が、どういうものなのか、
 なぜ、予測がむずかしいのか、を語るのですが、
 中で、「貨幣」の本質についても触れるんです。
 その「貨幣論」は、この最終回のヤマ場ですよ!

糸井 今、この経済学部に来る時、
建物の中に、コンピュータ関係の部屋の
案内みたいなものがあったんです。

やっぱり、経済学の研究にも、
コンピュータを、いまはいっぱい
使うんだろうなぁと思ったんですけど。

そもそも、経済学では、
コンピュータを、何に使うんですか?
岩井 まず、非常に数学的な経済学者がいますが、
それも、コンピュータがなくちゃ、できないです。
糸井 「数学的な経済学」って、
いったい何を意味しているのかが、
どうしても、わからないんですけど……。
岩井 経済でも、
景気の動向や、経済成長の予測をするとかいう時に、
いろいろなデータを数式の中に入れて、
計算します。そして、その数式は場合によっては、
天気予報の予測と同じぐらい複雑なものです。
糸井 当たるんですか?
岩井 いや、なかなか当たりません。(笑)
やっぱり、経済はほんとうに複雑なものです。

等身大の地図が意味をなさないように、
意味のある予測をするためには、
縮尺をしないといけなくなりますよね。
そうすると、どうしても
いろいろなところを、とりこぼしたりする。

でも、もっと根源的には、
経済とは、「人間」の経済であるからです。
その人間は、それぞれ、
ヘンな思いこみを持って動いているわけですよ。
糸井 (笑)
岩井 その、人々の思いこみや
勘違いまで組み入れて理論を作ることは、
むずかしいわけです。
糸井 そうでしょうねぇ。
岩井 それぞれの人間が
「どう将来を予測しているのか?」
を、さらに予測しないと、経済全体を
予測できないですからね。

でも、経済学者でなくとも、
人は予測をまちがうし、
そして、ほとんどの人は
確信を持って世の中を
イメージしているわけではありませんから、
他人がどう予測するかを見て、
自分も予測する。

そうすると、
付和雷同的にワーッと
まちがった方向に行ったりすることもあるし、
逆に、へそ曲がりに、
ほかの人の予測に反発することもある。

なにしろ、将来が関係してくるわけですから
ほんとうに複雑になってくるんですよ。

つまり、
「複雑である」
「人間を扱う」
「人間はお互いの予測を見あって
 お互いに予測する」
という、三つの要素がからみあって、
ほんとうに経済の予測は難しいんです。

じつは、それだけではありません。
しかも、その経済の根源には、
貨幣、つまりお金という
ほんとうに、ふしぎなものがあって……。
糸井 おもしろいなぁ。
岩井 おカネとは、ほんらいは
欲しいモノを手に入れるための媒介、
いや手段ですよね。
でも、人は、その手段であるべき
お金を、使おうとせず、
ため込んでしまうこともあるわけです。

たとえば、今のように、
「あまりにも世の中のことが
 不安だから、お金をためておく」だとか、
いま「何を買っていいかわからないから」
とりあえず財布に、おカネをいれておく
という行動もあるわけで。

お金をためるというのは、
人間の「不安」、とか、
「決められなさ」みたいなものの
反映、とでもいうことができるのです。
その意味で、ほんとうにとらえどころがない。

それと、お金をためるといっても、
自然現象と違って、
外側から簡単に見ることはできません。
お金をためこんでいる人でも、
よほど気前がよくないかぎり、
他人に自分の財布の中身を見せないですからね。
糸井 「隠している」って要素も、大きいですよねぇ。
岩井 はい。
不安とか決められなさによって
ひとびとがため込み、
しかもほかの人に見えないように
ため込んでしまうお金が
経済の根源にあるということが、経済を
本質的に予測できないものにしているんですね。
いま、日本の不況にしても、なぜかみなさん、
お金をためこんでしまっているわけで……。
糸井 そんなようなことをきくと、
ますます、コンピュータで数学をやるのが、
マンガみたいに見えちゃうんです。
岩井 ある意味、マンガです。
いくらコンピュータの性能が上がっても。
おカネという本来的に予測できないもののうえに
経済は成り立っているわけですから……。

主流派の経済学者は、それを無視して、
あたかも経済を自然現象のように
扱おうとして、必然的に
予測をまちがえてしまう。

さきほど、
言葉や法律や貨幣は、
「媒介」って、言いましたよね。

でも、「媒介」といっても、
ウソをつける「媒介」です。

文学がなぜ存在するのかと言うと、
言葉がウソをつけるからですよね。

たんなる信号とちがって、
なにか特定のモノやコトを指し示すだけでなく、
なにも指し示さないこともできるし、
表面上で指し示しているモノやコトと、
実際に意味しているモノやコトとを
ちがえることもできる。

つまり、ウソがつける。

それだから、
ある意味で、現実よりも真実らしい
真実を描けるという逆説がある。
だから、
世界がおもしろくなるんですけれど。

それと同じで、
おカネも言葉のように、ウソをつく、というか、
モノを買うための媒介にすぎない
おカネそのものを、人々は
あたかもそれ自体がモノであるかのように
ため込んでしまったり、
あるときには、それまでため込んでいたおカネを
とつぜん使いだしたりする。
おカネなしには、現代の経済はなりたたないけど、
そのおカネが、
経済の予測を困難にさせているんです。

ただ、経済予測で
メシを食っている人も沢山いますから
あまり、こんなことを言うと、
恨まれてしまうかもしれませんが。

わたしが前に書いた
「不均衡動学」や「貨幣論」という本は、
経済の予測は、通常の理論が考えているほど
単純ではないということを
示そうとしたんですけどね……。
糸井 もちろん、
間違っているにしても何にしても、
コンピュータによる分析が
資料として必要だっていう部分は、
あるとは思いますけどね。
岩井 それはそうです。
糸井 今まで、コンピュータで
経済を扱えるという話が、
どうしても、わからなかったんですよ。

「人間は、いちばん高い利益を
 得るために、行動をしている」
という、一般的に語られる前提が、
ぼくはずっと怪しいと思っていたもので。
それを前提にしている人と話すと、
なんか、腹が立つことがありますし。
岩井 われわれ人間は利潤を求めるというけれど、
なぜ、お金をほしがるかは不思議ですよね。

ケインズは、『一般理論』の中で、
おもしろいことを言っています。

「人々が月を欲するから失業が生じてしまう」
とね。

お金そのものを欲しがるっていうのは
けっして満たされない欲望ですよね。
モノを欲しがっている人には、
そのモノをあたえれば満足します。

でも、お金は
なにかを買う手段でしかありませんから
お金をいくら持ったって、
ほんとうの意味では心が満たされることがない。
それは、遠くにあって
手のとどかない月を欲するようなものだ、と。

お金をいくら持っても、
心が満たされない。
だから、人々はお金をさらに持ち続け、
モノを買わなくなって、
景気がどんどん悪くなっていく。

そうすると、不安だから、
さらにお金をためようとする。
そうすると、さらに……。

ケインズが
『一般理論』を書いたのは1936年ですが、
ケインズは、それ以前に、
フロイトの最初の英訳者であった友人を通して、
フロイトの無意識の理論に
接するようになっていたんです。

じっさい、貨幣の問題は、
無意識の問題と密接に関わっている、
と、彼は書いているんですけど。

モノを買う手段だけど、
それ自体は食べられないし、何の役にもたたない。

人間のそういうお金への不思議な執着について、
それこそ、ギリシャ時代のアリストテレスも、
「自分の触れたモノを、すべて
 おカネに変えて欲しいという
 神様への願いが、かなったことによって
 飢え死にしてしまったミダス王の悲劇」
として、驚きとともに、書いていますからね……。

これは、経済というものが
いかに倒錯したものであるかを
教えてくれる話ですが、
同時に、人間という存在が
いかに倒錯した存在であるかということの
比喩にもなっています。

まあ、このことをしゃべり始めたら、
キリがありませんが……。
  (ふたりの対談は、いったん、おわりです。
 ご愛読、ほんとにありがとうございました!)