伊丹十三特集 ほぼ日刊イトイ新聞

1000円の消しゴムの男。村松友視+糸井重里

第3回 1000円の消しゴムを買うおもしろさ。
村松 屈折したインテリみたいな暮らしをしてて、
「日本の一般常識なんてものは」
と、世間を冷ややかに見おろしてさ、
日本の映画なんか見向きもしないで
外国の映画に2本出て、
当時の伊丹さんには
そういうカッコよさがあった。
ほかの映画にバンバン出てたわけでもないから
実生活としては川喜多和子さんが
稼いでるくらいなものでさ。
その頃の伊丹さんが、
俺がハマっちゃう原点だった。

もし、全財産が1000円しかないとして、
スッと道を歩いてて、
「あ、1000円の、いい消しゴムがある」
と思ったら、買っちゃう。
それで喜んでるようなタイプね。

でも、そういう時間って、
あまり長くは続かないんだよ。
和子さんと暮らしてる途中で、
4チャンネルの『2時です、こんにちは』という
午後の番組の司会をやりはじめるんだ。
そうすると、月収140万とかになってきて。
糸井 金持ちになっちゃうんですね。
村松 うん。映画の出演料を全部はたいて
ロータス・エランを届けてもらってたのに、
ロータス・エランがふつうに買えることに
なっちゃうわけです。
そうなると、伊丹さんの
ある部分のおもしろみが消えちゃうんだよね。

普通のやつだったら
みすぼらしく見えるところを、
あの人独特の余裕で
カッコよく見えるというのが
ミソだったんだけど、
それが満たされていく過程になったんだよ。
糸井 わりと、すぐ起こっちゃったんですね。
村松 そう、すぐですよ。
伊丹さんの生活も、今度は
普通の意味のおもしろさや遊びに
入っていくようになりました。
結局、和子さんとは別れてしまうんだけど、
これもおかしな話でね、
和子さんが出ていっちゃう形で終わったんだよ。
だって、伊丹さんは
和子さんの家に転がり込んだんだから。
糸井 あ、もともとは。
村松 川喜多長政さん(川喜多和子さんの父)の
持ちものだった場所だったんだけど、
そこから和子さんが出ていっちゃって、
伊丹さんがひとり、
「女房が出ていっちゃった」
「またこれもカッコよさ」みたいな感じで、
グラビアで撮られたりしてたんだ。
糸井 そういうグラビアがあったんですか(笑)。
村松 うん。
コガネっていう名前の猫といっしょにさぁ。
糸井 いちいち(笑)、おもしろいなぁ。
村松 映画に出たのも、
そういう空間を与えられたのも、
きっと川喜多さんの影響や環境によるものが
大きかったんだよね。
だけど、テレビに出ることによって
今度は自分に現実の金が
入ってくるようになった。
そうすると、1000円の消しゴムの価値が
それまでとは
違うようになってきたんじゃないかな。
糸井 価値が自分の金と相対化されますね。
村松 そう。
1000円しかない人が
1000円の消しゴムを買うおもしろさは、
1万円持ってる人が買うときには
薄くなっちゃう。
俺の知ってた1000円の消しゴムの伊丹さんは、
最終的に、
何十億の配収がないと次の作品ができない、
というふうになっていった。
だけど、どっちがほんとうで、
どっちが嘘というわけじゃない。
糸井 村松さんが追いかけてる人って、
「無理してる感じ」の人が
多いですよね。
村松 そう(笑)、
好きなんだよね、そういう人が。
何だかフィクションめいた感じでさ。
糸井 伊丹さんが『2時です、こんにちは』に
出てからも、
おつきあいはつづくんですか。
村松 うん。だけど、そこでやっぱり年が
8つ違うことが関わってくるんだよね。
ぼくが23だったら伊丹さんは31でしょ?
23のやつが31の人と一緒に
夜中じゅうビリヤードやるのはね(笑)、
そうは言ってもしんどいんだよ。
30と38だったらいいわけです。
だから、なんだかんだで30歳になるまでは、
けっこう距離を置いてたんじゃないかな。

最初は、中央公論で伊丹さんに
何かを書いてもらうことが
俺にとっての仕事だったから、
『婦人公論』で連載してもらったときは、
ほんとうに密度の濃い関係だったと思う。
だけど、伊丹さんがテレビに出はじめて、
連載も終わることになった。
名前も「一三」から「十三」になった。
いっしょに遊ぶには無理のある年齢差だし、
なんだかちょっと自分のほうでも
ゴチャゴチャしてきたのかな、
離れていく時期だったんだよ。
だけど、別に
喧嘩して離れるわけじゃなかったんだ。

だいたい、伊丹さんの人づきあいは、
蜜月、喧嘩、蜜月、喧嘩で
絶縁になっちゃうから、
ずっと見てる人が
あんまりいないんだよね。
糸井 うん。全部の時代を突き抜けられない。
村松 俺は年が違ったし、
密な関係じゃなかったから、
わりあい長くつきあえることに
なったんだと思います。

(つづきます)
 
11. 伊丹さんの、四つの名前。

伊丹十三さんの本名、というか、
戸籍名は、「池内義弘」です。
しかしそれとは別に、「岳彦(たけひこ)」と
名づけられ、本人もこの名前を使っていました。
 
というのも、伊丹さんのお父さんの万作さん
(本名・池内義豊)が「岳彦」と名づけようとした際、
池内家では代々、男子の名前に
「義」の字を使っていたので、という
伊丹さんのおじいさんである義行さんの意向があり、
「義弘」と届けられたからだそうです。
 
伊丹さんは1960年、26歳で大映に入社し、
俳優としてデビューする際、
「伊丹一三(いちぞう)」という芸名になります。
これは当時の社長である永田雅一さんが
命名されたと言われています。
同年、『嫌い嫌い嫌い』という映画で主役でデビュー。
1961年には海外に進出し、
ヨーロッパで『北京の55日』という映画に参加します。
このときも、帰国後はじめての著書
『ヨーロッパ退屈日記』を出版したときも、
名義は「伊丹一三」でした。
 
1967年、「マイナスをプラスにかえる」という意味で、
伊丹さんは「一三」を「十三」と改名します。
以来ご存知のとおり、こちらの名前を変えることは
ありませんでした。
 
本名としては、伊丹さんはずっと「岳彦」の名前を
使われていたそうで、親しい人には「タケちゃん」と
呼ばれていました。
エッセイ『女たちよ!』の中に出てくるのですが、
『アラビアのロレンス』などで有名な
国際的俳優・ピーター・オトゥールとは
『ロード・ジム』で共演し、
友人として親しく付き合っており、
そのピーターとの会話に出てくる伊丹さんの呼び名は、
「タケちゃん」なのでした。
(ほぼ日・りか)
 
参考:伊丹十三記念館ホームページ
   『伊丹十三の本』(新潮社)ほか

 

満1歳のころの伊丹さん。
 
コラムのもくじはこちら
2009-06-25-THU
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