堺屋太一さん、
どうしましょう?

経済企画庁に出張しての鼠穴対談

第1回 堺屋さん登場

糸井 どうも、今日はありがとうございます。
個人のページですので、
こういう・・・ところに通していただけるだけでも
ありがたいんですけど(笑)。

質問とこたえみたいになってしまうと、
どうしてもリンゴで言うと
「剥いた実だけ」になってしまうので、
できましたら、リンゴの軸の部分とか種の部分とか
そういうところを含めたところでお話下さい。
うちは、まるごと出すようなことでやってますので。
できたら、もともと民間のことを
おやりになっていたかたが
折角ここにいらっしゃるということで・・・。
ある1個人がやっているようなページで
こうやって対談をするわけですから、
のんびりざっくりと、
大まかな話をしていただきたいなと思います。

まあ、かたち的には、インターネット博覧会のことを
中心におきかせいただきたいんですけど。
ぼくのなかに1番興味がありますのは、
グランドデザインのイメージです。
例えば前回のワールドカップサッカーで言ったら
日本人の応援の仕方にこう波があって、
1回だめだって言ったらまた戻って、
まただめだと思ったらまた戻って・・・
首の皮一枚でつながっている状態を、
ものすごく長く楽しめたんですよね。

で、あれは選手がはらはらさせたというのも
あるんですけど、予選のルールを変えたおかげで、
いつまでも自分の国のチームを応援できるように
ゲームルールをつくったひと、
グランドデザインをしたひとが、
どうもいるんじゃないか、と。
そういうことを考えますと、
これから、国だとか政府とかがやることは、
デザイナー化してくるなと感じてくるんですけど。
堺屋 私、28歳のときに一身発起しましてね、
日本で万国博覧会をやろうと思いついたんです。
当時まだ東京でもボーリング場は珍しかったんですが、
そこでふと日本で万国博覧会をやろうと決心した。
もちろん、誰も本気にしなかった。
そこで、万国博覧会は1851年の
第1回からはじまって・・・というのを、
まる5年間、ひとりひとりに口説いてまわったんです。
そのときにどう説明していったらいいのか
というのを考えましてね。

その時、参考にしたのが関が原の合戦です。
そもそもこの戦いは、石田三成という豊臣政権の、
今で言えば平取締役くらいの武将が、
大実力者の副社長(家康)と対等に戦争をする、
そういうプロジェクト・メーキングなんですね。
その時の石田三成の口説く方法を調べてまとめたのが
『巨いなる企て』という小説なんですけれど。
('87 毎日新聞社刊。関が原の合戦を
 豊臣家存亡を賭けた石田三成によるプロジェクトとして、
 現代ビジネスとの対比で描く)

そのときにもね、やっぱり、
下のひとから口説かないといけなかったんです。
上のひとに、大臣とか社長とかから
口説きおとしてゆくということは、
日本の社会ではできない。だからまず1年間は、
通産省などの運転手を主に口説いたんです。
毎晩毎晩、運転手口説いてて。
糸井 茶飲みに行くみたいに。
堺屋 万国博覧会というものがあって、
これはどういうもので、日本でやるべきだ、と。
糸井 世間話なわけですか。
堺屋 はい。だいたい運転手は待ち時間が多いから、
まあ、きいてくれるわけです。
それを午後11時くらいから、午前1時くらいまで、
欠かさずやるわけです。
糸井 おもしろいなあ(笑)。
堺屋 そのうち、局長にその話をすると、
「運転手も知っとった」と、こうなるわけですよね。
そういうようなしかけをまずやった。
それがやがて、大阪市長や商工会議所の偉いさんも
乗るようになって、4年経って、
ようやく閣議にたどりつきました。それでも、
日本では万国博をやるよう国際事務局に申請すると、
閣議決定をしたときに、
「この行事でわが社も何かお手伝いをしたい」
と言ったのは1社、紙の万国旗を作っていた
おもちゃ屋さんでした。
広告代理店も建設会社も全く関心がなかった。
糸井 まだ概念がなかったんだ。
堺屋 それで今度は概念を持ってきた。

(つづく)

2000-03-29-WED

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