時間と空間と中枢神経の映画。
鈴木敏夫さんと

無邪気に語る。

第3回 神経中枢を
狂わせるのが、映画

鈴木 映画って、流れている時間を
どうやってホンモノに感じさせるか、
というものとして進化してきたんだと思います。


ホンモノを目指す動きとしては、
たとえば、ふつう映画で野球が出てくると、
投げる人と打つ人とは別のカットで撮影しますよね。

ところが、『がんばれベアーズ』という映画では、
女優のテイタム・オニールが、
ホンモノのストライクを投げられるまで訓練して、
カメラをキャッチャーの真後ろにおいて撮影する。

あれは、カットを割らないことによって、
おもしろくなっている映画なんです。
華奢な身体なのに投げる姿に、感動したりできる。
ぼく、ああいう
「ほんとうにやってくれる」ものが好きなんです。

昔の『座頭市』なんかでも、
勝新太郎さんは、一瞬のうちに数人斬るカットを、
ワンショットで見せてくれるんですよね。
ぼくは、そういうのを観たくてしかたがないし、
勝新太郎は、そういうことで大ファンでした。
……わかりますよね? そういう気持ち。

たぶん、潜在的には、
ここにいるみなさんだって、
「ホンモノ」が観たいはずなんですよ。
ジャッキー・チェンがかつて人気を博したのは
あの人が「ホンモノ」をやってたからでしょうし。
 
糸井 はい。ぼくもそういうのが好きです。

ただ、『イノセンス』でもそうなんだけど、
映像でつながらないものをつなげてみることで、
「ほんとうは、つながっていないんだよな?」
と思いながらも、
画像では処理されているもんだから、
観客は、眩暈がするはずなんです。
整合性のない画面の連続を見続けることで、
どんどん、置き去りにされていくんだから。


「この画面を、正当化して観なければならない」
だから、脳がクラクラッとするんですね。

たとえばこの『イノセンス』にしても、
哲学的なセリフが、絶えず垂れ流されるんです。
 
鈴木 ええ。
 
糸井 「今の言葉は、あとで
 ちょっと、よーく考えてみるから!」
って保留したくなるようなセリフを、
ものすごい早口でいっぱい言うんです。
そして、そういうセリフの応酬になる。
あの速度で、あんなに
むずかしい話をできるヤツは、どこにいます?

だけど、そのセリフの応酬って、
「絵の連続のなさ」とまったく同じだと、
観ているうちに、わかったんですよ。
だから、
「やっぱり、この一族のやりかただ」と。
 
鈴木 なるほど! 鋭い。
 
糸井 観てるうちに、
セリフにクラクラさせられる。
「今言ったことはなんだっけ?」
と考えて、やっとわかったときには、
また違うことが耳に入ってくる。
 
鈴木 それって、映画の基本なんですよ。
宮崎駿だって同じなんです。
観客の中枢神経をどうやって狂わせるか、
っていうのがテーマなんです、やっぱり。
 
糸井 確かに、そう言えばそうですね。
アニメの人は、自分では何回も観ているから、
平気で置いていっちゃいますもんね。
鈴木 はい。糸井さんは、どっちが好きなんですか?
加工しすぎてあるのと、ホンモノと。
 
糸井 実は、ホンモノというか、
リアルタイムが好きなんです。
 
鈴木 なるほど。
糸井さんは、たぶん西欧人なんですよ。
たとえばアニメーションにしても、
西欧の作品は、ほんとうの立体に則している。
ところが、日本人が描く絵っていうのは、
外国人から見ると、どう考えても
立体ではありえないものに見えちゃうんです。

日本のマンガにしろアニメーションにしろ、
そのときの都合によって、
角度を変えることで、ヘンなものを見せるんですね。

たとえば、ちばてつやっていう人が
描いていたマンガは、家族で揃って
テーブル囲んでご飯を食べてるときは、
その部屋が、四畳半で描かれているんです。

ところが、いったんお父さんと子どもが
ケンカをはじめたとするでしょう?
その四畳半の部屋が、
突然八畳になったりするんです。
で、ケンカがおさまるとね、また四畳半に戻る。
西欧人は、そういう歪ませ方を、しないんです。
 
糸井 それは、畳の部屋が、日本人にとっては
寝室であり食堂であるのと、
おんなじようなことですよね。
 
鈴木 そうそう。だから、
時間と空間を歪めるっていうのは、
日本の大きな特質で。
 
糸井 それはそれで、ぼくも好きかもしれないなぁ。
 
鈴木 でしょう?
 
  (明日に、つづきます!)


『イノセンス』についてはこちら。

2004-03-01-MON


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