YAMADA
書きあぐねている人のための
小説入門。

保坂和志さんに聞いた、書くという訓練。

第3回 小説がはじまるとき

ほぼ日 『書きあぐねている人のための小説入門』は、
どう読んでほしいと思って、作ったのですか?
保坂 この本は、かならずしも、
厳密に書いたわけではないし、
ただ読んだだけでは、
同じことを正反対に言っているように
見えるところもあるし、
矛盾しているようにも見えます。

二つのことを一緒くたにして
言っているようだったり、一つのことを
正反対に言っていると見えるところだってある。

そのへんの徹底した整理までは
してないんだけど、でも、ぼくとしては、
「そういうことはぜんぶ、
 小説を書いているうちにわかるよ」
というつもりで書いているんです。

それに、きちんと整理して
厳密なことを言い出すと、
そこから先は、
どんどん面倒くさくなっちゃうので、
読んでいるだけで終わっちゃうというか……。
書きあぐねている人のための本なのに、
「書く方に手がまわらない」
ということになったら、意味がない(笑)。

まず、ぼくは
「自分を信じてはいけない」
と言っているわけですが、同時に、
「自分がおもしろいと思うものを書きなさい」
とも伝えています。
矛盾しているように見えますよね。

でも、ぼくは両方言いたいんです。

最初に「自分を信じてはいけない」
と言ったのは、
「小説を書く前の、
 何もやっていない自分を信じてはいけない」
っていうことです。

「自分がおもしろいと思うものを書きなさい」
というのは、
「小説を書きおえた後に成長している自分が
 おもしろいと思うものを書きなさい」
という意味なんですね。

最近の学校教育とかで、よく
「自分を大事にする」とか
「自分を信じなさい」とか、言われているけど、
それは、信じるに足りないような
自分の方のことなんですよ。

小説を書いているうちに
自分がどんどん変化していくから、
書く前の自分なんか信じるに足りない。
そういうところから、
小説がはじまると思うんですね。
ほぼ日 「書きおわった後の自分がおもしろいものを書く」
って、おもしろいです。
保坂 変化しないまま、
サンドペーパーをかけるみたいなことだけで
ずっと書き続ける人って、一種、
差別用語のように聞こえるかもしれませんが、
地方の同人誌の人に多いような気がします。
お互いが、そこそこのところで評価しあって、
批判しあっているような
集団ができあがっちゃうと、
それより外側の視点っていうのが、
なくなっちゃうんですよね。

そういうところであんまり書きすぎると、
固定しちゃってダメなんです。
似たような作業をくりかえすだけの
サイクルにはまっちゃうから。

よく、作家になるためには、
自分の書いた作品を読んでくれる友だちが
最低三人必要とか五人必要とかいう
言い方があるんですけど、最終的にはやはり、
その友だちは書いたことがない人だから、
書いてる自分しか信用できないと思うんです。

もともと、小説家になるということは、
「ずっと一人で書いていく」ということですから。
ほぼ日 「書いている自分しか信用ができない」
という立場は、
「小説家にとって小説を書くことが、
 人生を生きることなのだから、
 小説とは書きながら自分自身が
 成長することのできるものでなければならない。
 出来具合なんて、副次的な問題でしかない、
 という小説観を持つことで
 小説に新しいものが生まれてくる」
という保坂さんの考えに、つながるんだなぁ、
と思いました。
保坂 確固たる小説観を持たずに、
フラフラした状態で
小説を書き続けていると、
「誰にも褒められなかったから悲しい」
ということになってしまう。
逆に、自分が意図していることと
ぜんぜん違うところを褒められていて、
一種の誤読をされているにも関わらず、
売れただけで
よろこんだりすることだってあるでしょう。

評価というか、自分で安心するための材料が
外側から来ている人というのは、結局、
ずっと、外側だけを頼りに生きているから、
それは苦痛で不安だと思うんです。
そういう苦痛って、自然災害みたいなもので、
どうしようもないじゃん。

確固とした小説観を作らないで
外側の評価だけで生きていると、
そういう小説家人生になっちゃうんです。
自分でなんとか克服できる苦痛なら、
自分で選んだことだから、
ぜんぜん構わないわけでしょう。

いかにも小説然としたものばかり
書きたがる人がいるんですね。
それは、確かに小説としか言いようがない。
ただ、
「小説を書いたということはよくわかるけど、
 ひとつもおもしろくない」というだけで。
かなり古い例えだけど、
シーナ&ロケッツの鮎川誠が、ラジオで、
「最近は『こんにちは』って
 玄関を開けて入ってくるようなロックが多いけど、
 ルー・リードなんか、ガーッて入ってきた!」
って言っていたんです。

そういう「ガーッ」みたいなことは、
やっぱり絶対に必要なんだと思う。

こないだ、高校生のための進路のインタビューで、
小説家に向いているか向いていないか、
っていうような話が出たんだけど、
そのときにも、同じようなことを言いました。

「小説家に向いてるか向いてないか、
 っていうことはぼくは考えないし、
 才能があるかないかだって考えない。
 才能なんて、問題じゃない。
 ただ、ぼくから見て、
 小説家に向いていない性格が
 もしひとつあるとしたら、
 上下関係が平気な人だと思います」って。

上下の規律の中にいることを
苦痛と感じずにやっていける人っていうのは、
かなり小説家には
向いていないんじゃないかなぁって思います。
どこかで精神的な
タメ口をきけるような人じゃないと、
小説に対しても「こんにちは」と
入っていく人になってしまうと思う。

ただ、こう言うと急にナメるやつがいるんだけど、
「卑屈にならない」っていうことと
「相手をナメる」っていうことは、違うんですよね。

ナメてるだけで、
「この程度でやれる」と思っている人もいれば、
もう片一方には、ものすごい卑屈になって、
一生懸命、小説ってこれでよろしいでしょうか、
と思っている人もいるというか。

ただぼくは、
卑屈になっている人たちの抑圧を取って、
「もっと、あなたなりのフォームでやりなさい」
「あなたの思う通りに、まずはやってみなさい」
ということを言えば、もっと
ちゃんとしたものを書ける人が
出てくるくんじゃないかな、と思う。
「こんにちは」って言って入っていくのをやめて、
自分の思う通りに書くことから
はじめればいいんだよ、と。
 
(つづきます)

2003-11-26-WED

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