YAMADA
書きあぐねている人のための
小説入門。

保坂和志さんに聞いた、書くという訓練。

第2回 クソまじめなだけの努力

ほぼ日 『書きあぐねている人のための小説入門』では
小説についての一般的な思いこみや、
小説家志望者が書くときに陥りがちなワナについて、
丁寧に、伝えてくださっていますよね。
保坂 小説を書きたい人って、努力家なんです。

自分でも「一生懸命に努力している」と
思っているんだろうけど、でも、その状態って、
まだ、ぜんぜん、努力が足りないんですよね。

そういう努力は、文章を上達させるとか、
この方面の小説をたくさん読んだとか、
そういう狭い範囲の努力でしかないんです。

「書けることと書けないことの境目の、
 自分がいちばん
 書けなくなるところはどこなのか」
とか、
「書きそびれていることはないのか」
という風には、ほとんど考えていない。

小説家志望の人が、
文章を上達させる努力をしているとか、
本を一生懸命に読んでいるとかいうのは、
単なるクソまじめさなんです。
それは、本当に小説を書くためのまじめさとは
違うんだということには、気づいてほしい。

「高校の運動部で、腕立て伏せを
 三百回やりなさいと言われて
 三百回やっているような努力」で、
「ラクに三百回できるやり方を
 無意識のうちにおぼえて、
 力が残っていたから四百回やりました」
って、偉そうに言う人、いるでしょ。
そんな程度のことで、ほんとうの努力じゃない。

やらされているだけで、
「何のためになっているか」
までは、考えていないんですよね。

でも、野球のイチローとかサッカーの中田は、
「腕立て伏せは何のために必要なのかまで考える人」
なわけで、そこまで考える人が
ほんとうの「努力する人」で、
そういう人の方が、
質だけじゃなくて、量も、
絶対に、たくさん練習しているもんなんですよ。

野球の落合も、現役のときには
怠けものみたいに言われたけど、
それは日本の選手が人に見られるところでだけ
努力しているような人たちばっかりだったから、
落合の努力が見えなかっただけで、
素質だけで、落合みたいなプレーが
できるわけないんです。

それに、
「素質」っていうことで片付けていたら、
自分が努力しないことが正当化されますよね。
「素質」をすぐに口にする人は、本当は
素質がないんじゃなくて、努力をしていない。

最近、有名な長谷川等伯の松林図屏風を見たんです。
水墨画とか屏風絵とかって、
ほとんど、はじめて見るようなものだったんですが。

晩秋、初冬の景色を描いた名作って
言われているんだけど、あれをそばで見ると、
素人目には、「え?ウソ?」っていうくらい、
雑で簡単に見えるんです(笑)。

で、ちょっと離れて見るのと、
遠く離れて見るのとでは、全部、景色が変わる。
で、ずっと見ているうちに、
本当の景色みたいに見えてくる……。

ほんとに、ささっと、一筆描きみたいでね。
長谷川等伯は、この松林図屏風だけは、
時間をかけないで簡単に描いたかもしれないけど、
彼がそこに辿り着くまでは、
絶対に簡単だったわけがないだろうと、
それぐらいは、誰だってわかりますよね?

展覧会で油絵の実物を見ると、
ごてごて何度も塗り重ねてるのがわかるんだけど、
それと同じ積み重ねが、やっぱり
松林図屏風では作品の外であるはずなんです。

音楽の演奏を聴いたって、同じで、
なめらかな演奏を聴いたときに、
初見でそこまでいくはずがないと、
誰でも思うわけでしょう。

「その演奏に辿り着くまでに、
 この人はすごい苦労をしているんだろうなぁ」
ということぐらい、誰でもわかりますよね。

絵や演奏では、そうやって
時間をかけて訓練してきたということが、
けっこうみんなに理解されているけど、
文章を書くのだけは、そういう理解がないんですよ。
小説家を志している人も、そういうことを、
あんまり考えていないんじゃないかと思うんだ。
なんとなくこういう形に仕上がった、
くらいのイメージしかないと思う。

でも、大抵の文章は、
もう何度も直して書いているんですよ。
それ以前のものすごい積み重ねもあるし。

小説家になりたい人って、
「自分だけがヘタで時間をかけている」とか、
そういう風にしか
思っていないんじゃないかと思うんだけど、
でも、本当はやっぱりみんな、
すごい時間をかけて小説書いてるし、
文章の中に、その人がどれだけ小説を考えてきたか、
っていう蓄積ももろに出ている。

だからぼくは、人の小説を読んでも、
ここはすんなり書いて、
ここは手間取ったっていうことがわかる。
ヘタなものでも、書いた人は、
本人なりに「手間取った」と
思っているだろうけど、
そんなのぜんぜん手間とは言わないよ、
って思うんです(笑)。

小説家を目指している人は、
自分の苦労だけが大変だと思って、
「こんなに苦労して書いたんだから……」
とか言いがちけど、
それってまだ足りないんだよね。

それ自体にかける時間も足りていないし、
「小説ってどういうものなのか?」
と考えることも足りていないし、
そこに至るまでに読んだ本も、
やっぱりその時点では、足りていないんです。

新人賞に応募される原稿の大きな特徴は、
テンポのいい文章を書こうとしていることです。
ただ、その「テンポのいい文章」っていうのは、
例えば、木で何かを彫るときに、
「カンナをかけたり、サンドペーパーで
 ツルツルすることだけをやっている」
というようなものなんですよね。

だけど、木彫には、
「全体として何を作るのか」
ていうことが一番先にあるわけだし、
「木の材質をどう選ぶか」も、
「木の質感をどう残すのか」もあるし、
いろいろなものがあるわけでしょう。

テンポのいい文章だけを目指すのは、
ありがちなものを作って、
サンドペーパーだけ熱心にかけて
滑らかに仕上がっているものを、いい木彫だと
思っているようなものなんです。

サンドペーパーだけをかけている人は、
その部分だけを見ているから、
「何を作ったのか」について、
実はあんまり考えていないんです。
テンポって、一番簡単に目につく部分だから、
そんなの、どうってことない、
という風に考えを変えてみてほしい。
 
(つづきます)

2003-11-16-SUN

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