YAMADA
カンバセイション・ピース。
保坂和志さんの、小説を書くという冒険。

保坂和志さん追加インタビュー
第4回 言えないからこそ言葉が生きる。

ほぼ日 分析が信用できないという話と
つながるのですが、保坂さんは、例えば、
『この人の閾(いき)』というような作品でも、
言語化されないものは、なかったこととされる、
だとすると、言語化できないものは闇なのか、
というような話に、すこし触れられていました。
このへんのこと、今はどう思っていますか?
保坂 「まるごと」をつかみたいと
ぼくが思うのは、
「言葉で説明しきれている」ということは、
完全には、ありえないと思うからなんです。
言葉って、言いたい対象自体には、
絶対にならないわけだから、
言えないところも含めてしか、
言葉の使い方って、ないと思うんだよね。

だから、絶えず、
「あぁ、言えていない」
「まだ言いきれていないなぁ」
という思いを持ちながら
言葉を使わないと、言語の機能としては
正しくない。

言葉の使い方というか、話し方は、
言えていると思っている人と、
言えていないけど伝えたいと思う人とでは、
ずいぶん、変わってしまう。

たとえば、
「言えてないなぁ」
と絶えず考えている人は、絶対に、
「人間には2種類しかいない」
とか、そんな言い方はしないですからね。
ほぼ日 保坂さんが尊敬している作家の
小島信夫さんと、そういうところのスタンスが、
とても似ているなぁ、と思いました。

昔、小島信夫さんに
インタビューをさせていただいた時、
実際に話を聞いて、
そのあと電話でも何回も話した後に、
「ぼくに原稿案は見せなくていい。
 あなたが誤解している部分があるのなら、
 誤解した部分も含めて、出してほしい。
 ただ、ぼくが、誤解した部分も含めて
 出してほしいと言ったことを、書いてほしい」
と言われたんですよ。そんなことを
伝えられたことはなかったから、驚いて。
保坂 小島さんって、
そういう人なんだよなぁ。

なんか、言えちゃったら、
言葉じゃないんだよね。
で、ほとんどの気持ちというのは、
言葉で言える前の状態だと思うんです。
ほんとの人の中にある気持ちっていうのは。


誤解されるかもしれないけど、
ストーリー小説だけを好きな人たちは、
その「おもしろい」というところを
ごまかされているのを気づいてないんですよ。

たとえば、
自分があるところで
2つに分かれるという話が、
世の中には、昔からたくさんありますよね。

その話の中で唯一おもしろいところは、
「自分が他にいるかも知れない」
って感じた瞬間なんですよ。
他にもうひとり自分がいて、自分がどこかで
ほんとに2人に別れていて、そこで、
その自分と出会ってしまったらどうしよう?

ハッと思ったその瞬間だけがおもしろい。
ストーリー小説の場合には、
そこからいろいろな事件を作りだすでしょう?
その事件自体は、他のおもしろさに
ならざるをえないから、そういうところで、
だまされていると思うんですよね。
ストーリー重視の小説って、
「自分がもうひとりいたらどうしよう?」
「そのもうひとりの自分に会ったらどうなる?」
そう思った瞬間の、いちばん大事な発想を
忘れさせるように物語が進んでしまうんです。

そういうおもしろさって、
同時に不安でもあるんですよね。
だけど、世の中に流通しやすいストーリーは、
そういう、日常の合間に感じた不安を
忘れさせてるように機能してしまう。

ほんとは、
その不安に立ちどまって、
モロにその不安のある場所でおもしろい話を
書いてもらいたいなぁと、
読んでいると思うんですけど、

そういう人って、すくないですね。
漫画家の大島弓子は、ほんとに
そういう不安の中で作品を書くところがスゴイ。
あの人はほんとの天才だと思う。

人間に沸き起こる不安は、そのままでおもしろい。
不安イコール面白い。
そういう気持ちから、
一歩もはみ出さないまま
大島弓子は、ストーリーを作るんですから。
あの人はすごいです。
ほぼ日 今回の『カンバセイション・ピース』を
書きながら、考えていたことを、
教えていただけますか?

「建物の記憶を書く」って、
いったい、どんなふうにやったのかなぁ、
と、単純に、うかがいたくなったんです。
保坂 家の間取りを思い出すことを、
毎日やっていたような気がします。

第1稿で失敗したのは、
家の間取りでなんです。
最初は前住んでいた平屋の貸家をモデルにして
書きだしたんだけど、それに2階を乗せたり、
玄関から入った左右を
逆にしたりする必要があって・・・。
ところが、空間をぜんぶ入れ替えるって、
ものすごい大変で、
イメージが出てこなくなっちゃうんですね。

だから設定を変えて、
母の実家をモデルにすることにした。
間取りだとか、その建物全体の雰囲気とか、
板と壁とかの雰囲気を、
毎晩、寝る前には思い出そうとしてさ、
毎晩、その実家の夢を見てましたね。
家の中が釣り堀になっていたり、
野球場になっていたりしたんですけど(笑)。

あと、裏話をちょっとすると、
バブル世代のちょっと下の人たちが、
登場人物なんです。
それはぼくが1956年生まれで、
全共闘世代の後なんですけど、
上の、いい思いをした世代をすごく嫌う、
というところがありまして(笑)。

この小説の彼らも、
当然バブル世代をすごく嫌っている。
・・・いい思いをした世代の特徴は、
本人たちが気がついていなくても、
その世代の人の言うことが
「若者の意見」になって流通して、
自然と主流になれちゃうところなんですね。

もちろん、ひとりひとりと会うと別だけど、
世代としてイメージすると、
反感が強くあって、そういう部分も、最初は
小説に書いたりしたけど、それは切りました。
おもしろくなかったから。
でも、つまり、
バブル世代のちょっと下を書いた。

「この小説はいける」と思えたのは、
3章の鉢植えに
水をまくシーンを書いているとき。

鉢に水をかけて、
葉っぱの揺れ方だとかしなり方だとか、
そんな話が延々続いていて・・・
ぼくの小説を読んだことのない人は、
「なんでそんなことするんだ?」
って感じると思うんだけど、
ああいうところこそがぼくの特徴で、
あそこを書きながらぼく自身は、
「この小説がようやく
 固有のノリを持ってきた」と思えた。

それから、野球場のシーンにしても、
「長すぎなんじゃないの?」
と思うかもしれない。
だけど、あれがぼくの書き方で、
できるだけ、長くしているんです。

ぼく自身の気持ちが続く限りは、
読む人もおもしろいというつもりなんで。
だから、水まきのシーンと野球場のシーンは、
これだけ続いているというのは、うれしい。
水まきと野球場は
その前にも一度ずつあるんだけど、
あれだけの長さにできなかったんです。

ぼくの小説の中で、
シーンが短く切れていたら、
本人もあまりおもしろがっていないし、
「読む人、おもしろいと思わないだろうな」
という手応えのなさが出ていたりするんだよね。

そのへんって、
フリージャズの演奏方法に似てて。
フリージャズって、ひとりがソロ取りだすと、
飽きるまでやるんだよね(笑)。
息が続くかぎりサックスを吹き続けるとか、
なんか、そういう気分なんだろうなぁ、
っていう気がしているんですけど。
 
(つづきます!)

2003-07-24-THU

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