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ほぼ日刊イトイ新聞

2023-03-23

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・5+3=8というような数式は、どうやっても同じものだ。
 どういう声で読んでも、だれが書いても同じだ。
 5は、まちがいなく5で、3はどうやったって3だ。
 あの人の考えてる5と、この国の人の考えてる5と、
 わたしの考える5はちがうというようなことはない。
 なぜかというと、「同じ」としてつくられた記号だからだ。
 5だの3だのいうものは、もともとない。
 だれか5というものを見たことあるか、ないはずだ。
 5個のりんごを見たことはあるかもしれないが、
 5という数字を見たことはいくらでもあるだろうが、
 5は、犬とか手とかコップのように存在するものではない。

 そして、5+3=8と似たような構造に見えるが、
 「人は犬を愛する」ということばがあるとする。
 これについては、だれか見ても同じではない。
 「人」ということばで、どういう人を思い浮かべるか。
 身長8メートルの巨人を想像しても、それは人だし、
 生まれたての赤ちゃんも、人である。
 「犬」というけれど、どんな犬を思うのか。
 チワワも犬だし、ブルドッグも犬だし、うちの犬も犬だ。
 「愛する」についても、どういうことを言っているだろう? 
 なでなですることなのか、じっと見守るのか、チューか、
 ごはんを食べさせるのか、いっしょに暮らすのか、
 これについてはもうまったく人によって想像がちがう。
 「人は犬を愛する」について、ある程度同じなのは、
 「は」と「を」という助詞の部分だけとも言える。
 助詞は、ことばのなかでもいちばん記号らしい記号だね。
 みんなが、ちがうもの、ちがうことを思っているのに、
 「人は犬を愛する」ということばを、みんなが、
 それぞれに同じだと思って言ったり読んだりしている。
 人も、犬も、愛するも、5やら3やら8やらのように、
 ひとつの意味だけしか持っていないのだったら、
 ずいぶんと話はかんたんになるだろう。
 でも、実際にそんなことはないし、ことばというのは、
 同じじゃないものを同じようなことにして、
 「数式のようにも使える」という役割をも与えているのだ。
 法律の文なんかは、それを最大限に利用しているのだが、
 それでも「法解釈」というものの論争があるくらいだし。
 ことばは、「ひとつの意味」の外に無数の意味を持つ。
 このごろ、それが忘れられかけているような気がしてさ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あの決勝戦の翌日にこんなことを書きはじめるのもね(笑)。


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