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ほぼ日刊イトイ新聞

2022-11-29

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・いつぐらいだったかなぁ、それなりに若いときだ。
 「暴力ってのは、話が早すぎるだろ」と思ったことがある。
 あれこれ、なにかを解決するとか解きほぐすというのは、
 ほんとうにめんどうで苦労の多いことで、
 それに耐えられない人が、暴力を使うことになるんだ、と。
 殴って、「もうしません」と言わせたら、話は早い。
 しかし、「もうしません」と言う側は納得していない。
 でも、かたちとしては一件落着しているわけだ。

 吉本隆明さんは、同じことを、
 「暴力はいちばんコストが安いんですよね」と言った。
 コストをかけるのがいやだという場合、
 コストがかけられないという弱さがある場合、
 コストをかけることになれていない場合などに、
 暴力が行使されることになる。
 思えば、暴力の少ない社会というのは、
 コストをかけられるという意味で、豊かだということだ。

 暴力は、殴る蹴るやら、斬る撃つなどのように、
 直接的な力を加えるものだと思われやすいが、
 「恫喝する」「怒鳴る」というような
 「暴力の前触れ」を表現することもかなり暴力に近い。
 犬なんかは雷鳴をとても怖がるけれど、
 人間にだってそういう原初的な恐怖はあるし、
 怒鳴っている人は「反論を拒否している状態」だから、
 そこではいったん平常のコミュニケーションは止まる。
 時代劇などで突然に斬りかかる場面では、
 「問答無用!」というせりふがよく使われる。
 すべてを止めて、この一撃で終わりにしたい、と。
 暴力は、使う側の「弱さ」を表現しているとも言える。

 「勝ちと負け」を決めるための暴力や恫喝というものは、
 これからもなくなるものではないとは思うけれど、
 「幸と不幸」ということで考えると、
 暴力を使って勝とうとするもののほうが、
 より「弱い」とも言えるだろうし、
 こころの「幸」は少ないと言えるかもしれない。
 しかしね、暴力をふるわれたり怒鳴られたりするのは、
 いくらそっちのほうが幸福だと言われてもいやだけどね。
 人類の最悪の発明は「拷問」だと、ぼくは思っているし。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「怒鳴り返しの技術」の本があったら読んで身につけたいね。


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